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第1話
兄より優れた弟はいくらでもいる。
才能に年功序列の概念はない。俺の弟がいい例だ。アイツは俺よりなんでもよくできた。子供の頃からそうだった。
弟の名前は|片桐亮《かたぎりりょう》。ペンネームも同じ。
あんたも知ってるだろ、近年稀に見るベストセラーを連発した売れっ子作家様。著作はほぼ全部映像化されて大ヒット、デビュー以来でかい賞を獲りまくって不況が長引く出版業界の寵児といわれた男。ルックスも恵まれていた。俺みたいに地味で冴えない男とは大違い。
亮の小説は事件後の方が重版がかかっている。最新作の『チューベローズ』は発売一か月で五十万部、だっけ?百万部の大台狙えるかもな。
話題性の追い風は認めるに吝かじゃないが……本当に物好きというか、大衆は悪趣味だ。あなたも同類か。わざわざ刑務所まできて、独占取材を申し込むんだものな。
片桐亮ならともかく、その兄貴の事なんて世間は覚えちゃないだろ。
俺は影が薄いんだ。だからカゲフミ。子どもの頃いた施設の連中にさんざんからかわれたよ。
……不思議そうだな。疑問があるなら言ってみろ。「なんで自分の取材を受けたのか」って……そんなことか。ただの気まぐれさ、暇潰しにもってこいじゃないか。生憎まだ数年刑期が残ってるんだ、房じゃ本を読むしかやることない。
何の本?まだそれを打ち明けるほど親しくないはずだよ、記者さん。急いては事を仕損じる、取材対象とはじっくり向き合わなけりゃ。
あなたは自分勝手に気持ちよくなる早漏じゃないだろ?
ちゃんと俺のことも気持ちよくしてくれなきゃ、見返りはくれてやれないよ。
さて、第一回目の取材テーマはどうしようか。まずは生い立ちから?了解。
名前は|片桐景文《かたぎりかげふみ》。年は28。
生まれたのは東京都近郊の中核都市。両親は平凡な人物だった。父親の片桐裕はサラリーマン、母親の片桐麻美は専業主婦。実家の経済状態は中の上。当時住んでいたのは白い壁と緑の屋根の建売住宅、小綺麗な一軒家だった。
俺はごくごく普通の子どもだった。よその子と比べて特別秀でた所はない。
情報を補足するなら他の子と同じように絵本が好きで、寝る前には母親に読み聞かせをねだっていたらしい。全然覚えてないけどな。まあ、幼児期の記憶なんてそんなものだ。
……違うか。覚えてないのは俺が俺だからだ。亮ならきっと細部まで覚えてる。
アイツときたらぬるい羊水ん中で泳いだ胎内記憶まであったんだぜ、信じられるか記者さん。
亮が生まれたのは俺が三歳の時。
当時はまだ幼稚園児だったから、弟が家に来た日の事すら覚えてない。気付けば家族が増えていた。月並みな表現だが、亮は天使のように可愛かった。
父にも母にも似ていない、突然変異の愛くるしさ。
俺も亮に興味津々だった。ベビーベッドの柵の間から人さし指を突っ込んだら、キュッと握り返された。赤ん坊の把握反射。愛情の証明なんかじゃない、ただの生理現象だ。無力で非力な赤ん坊はそうやって人に母性や愛情、庇護欲を植え付ける。本能的な生存戦略。
両親はすぐ次男に夢中になった。
亮は大して手のかからなかい赤ん坊だった。夜泣きは滅多にしない、始終ご機嫌でニコニコしてる。愛想は抜群だったな。素晴らしく物覚えがよく、よその子と比べて喋り出すのも歩き出すのも早かった。思い返せばあの頃から扱いに差が付いてたんだ。
両親がまだよちよち歩きの亮をちやほや構い倒す一方で、俺はほうっておかれた。亮に読み書きを教える母に絵本を持っていっても、「お兄ちゃんなんだからひとりで読めるでしょ」と追い返された。
内心不満だったよ。嫉妬もした。だけど仕方ない、アイツは特別な子だったから。いわゆる天才児ってヤツ。幼稚園入園時の知能テストじゃとびぬけた数値を記録したらしい。
亮だけ特別扱いする両親を恨んだし、まだ小さい弟を妬んだのは事実だ。それは否定しない。影でこっそり意地悪した事もある。アイツが履いてるゴムサンダルを隠したり知育玩具を隠したりといった可愛いものだが……手を上げたのも一度や二度じゃない。軽くひっぱたいだけでも親にはめちゃくちゃ怒られた。特に頭は厳禁。
今でも強烈に覚えているのは俺が6歳の時。大切にしていた絵本を亮に横取りされ、発作的にぶってしまった。
すると怒り狂った母親が飛んできて、きょとんとした亮をかっさらった。直後、衝撃が頬に爆ぜた。
「やめなさい、亮が馬鹿になっちゃったらどうするの!」
平手で頬を張られたと理解すると同時に何故か亮が泣きだした。母は猫なで声で亮を慰めるのに夢中になり、俺はほっとかれた。あの時の頬の痛みと惨めさは忘れられない。
母は……あの人は本当はこういいたかったんだ、「亮があんたと同じ馬鹿になっちゃったらどうするの」って。俺の根性がひん曲がっちまったのは幼少期の体験が原因かもな。あんたたち好きだろ、そういうの。
物心付いた頃から俺は何もかも亮に劣っていた。両親は長男に無関心だ。仕方ない、彼らも人の親だ。優れている方を常日頃から贔屓したくなる気持ちはわかる。
ところが亮は懐いてくれた。俺がひとりぼっちで本を読んでる所にトコトコ寄ってきて、「お兄ちゃん、お話聞かせて」とねだる。何度追い払ってもきりがない。
渋々絵本を読んでやると、ストーリーに一喜一憂の百面相をするのが面白かった。面倒くさいのは話が終わった後で、「それからどうなるの?」と目を輝かせて食い下がる。「どうなるもなにもここで終わりだ」と説明してもなんでなんで攻撃を止めず、仕方なくでたらめな後日談を捏造する羽目になる。
「恋に破れた人魚姫は海の泡になりました。おしまい」
「その後は?」
「泡になって消えて終わりだよ」
「そんなのいやだ、人魚姫が可哀想だよ。お兄ちゃんが続き考えて、人魚姫を幸せにしてあげて」
「無茶いうなよ、泡になった人魚をどうやって甦らせろっていうんだ」
「魔法とか手品とか色々あるじゃん」
絵本の読み聞かせのたび無理難題を吹っかけられ、想像力を振り絞って続きを捻りだしているうちに、それが楽しみになった。
亮は隣にちょこんと座り、兄貴が話す嘘っぱちを夢中になって聞いている。
「人魚姫は海の泡になって消えた、みんなてっきりそうおもいこんだ。けど本当は海の泡になったと見せかけしぶとく生きたんだ、全部自作自演のお芝居だったんだよ」
「なんで人魚姫はそんなことしたの?」
「人魚姫は海の殺し屋の大ダコに命を狙われていて、自分の死を偽装する必要があったんだ」
「人魚姫はなんで命を狙われてたの?」
「王位継承権一位だから。妹姫たちにとっちゃ目障りだった。相続問題は地上でも海の中でも関係なく荒れるんだ」
あらゆる面で優れた弟に尊敬のまなざしを注がれ、自尊心をくすぐられなかったといえば嘘になる。
ちなみに俺が続きを捏造すると高確率でミステリー仕立てになったのは、小学校の図書室にあったホームズ全集にはまってたからだ。
亮の「お願い」に鍛えられたせいか、3と4が並ぶ通知表の中で、唯一国語だけは5を維持していた。作文は得意中の得意だった。
三年生の時の担任は宿題の作文を読み、「大人になったら小説家になれるわよ」と褒めてくれた。物語を書くことと読むことだけが、孤独な子供時代の支えだった。
……ああ、そうだな。小3の時には既に小説家を夢見ていた。目標っていえるほど確固たるイメージは描いてない、漠然とした憧れみたいなもんだ。物語を書く事だけが、俺が唯一人に誇れる特技だったんだ。
そのうち弟にせがまれて話すだけじゃ飽き足らず、原稿用紙や自由帳にオリジナルの話を書き出した。どんな話?小3の男の子が考えそうな、他愛ないファンタジーだよ。剣と魔法が幅を利かす異世界で、勇者一行が魔王やドラゴンを倒すような……図書室で借りたホームズに影響を受けて、ミステリーも書いてたかな。あらすじは殆ど忘れてしまった。俺が創作している事を知っていたのは亮だけだ。誤解しないでほしいが、進んで見せたんじゃない。アイツが人の机の引き出しをあさって、自由帳をめくってたんだ。
小3の春、学校から帰ると部屋に亮がいた。帰宅間もないのか、真新しい黒いランドセルを背負ったまま立ち尽くしてる。
弟の手の中で開かれた自由帳を目の当たりにするなり、血相変えてひったくった。
「勝手に見るな」
「お兄ちゃんは小説を書くひとになりたいの?」
「悪いかよ」
引き出しの奥に自由帳を突っ込み、照れ隠しに怒鳴る。
あの時亮がなんて言ったかは覚えてない。思い出すにも値しないくだらないことだ、きっと。
……一気に話して疲れた。人と喋るの自体が久しぶりだからな。今日はこのへんにしておこうか。さよなら記者さん、今日の取材にこりてなければまた来てくれ。
一週間ぶりだね、記者さん。もうこないんじゃないかと思ってたよ。俺の話は冗長でツマらないだろ?いいんだ、気を遣わなくても。俺には語る才能も書く才能もない、三十路近い年になりゃいい加減わかるさ。
仕切り直して続けようか。どこまでいったっけ……子どもの頃の話か。
ここで一人登場人物を増やす。記者さんもよく知ってる人だよ。ある意味この物語のキーパーソンといえる。
名前は|片桐靖奈《かたぎりやすな》。
父の妹、即ち叔母にあたる。
靖奈は二十代で資産家と結婚したものの、早々に夫に先立たれ未亡人になった。莫大な遺産を全部受け継いで。
叔母と旦那の間には子どもがいなかった。否、正確にはできなかった。俺も詳しくは知らないが、どうやら不妊に悩んでいたらしい。だからだろうか、俺の家に頻繁に遊びに来ていた。目的は亮だ。前に言ったよな、亮は子どもの頃からとても顔立ちが整ってたんだ。叔母は亮を溺愛し、可愛がり、遊園地だの水族館だのあちこち連れ回した。それだけじゃない、亮が欲しがればどんな高額なゲーム機やおもちゃも惜しみなく買い与えた。
俺の事は……さあね、どうでもよかったんじゃないか。興味もなさそうな素振りだったよ。俺はあの人の前じゃ透明人間だった。実の両親だって似たようなものだけど。
正直な所、叔母は苦手だった。
厚化粧で若作り、派手でうるさい。賞味期限切れのバタークリームみたいにねっとり甘い声で話す。
まだ小学生の亮に媚びる姿を見ていると、いやがおうにも生理的嫌悪が募った。
叔母にかけられた言葉で印象に残っているのは、これだ。
「コンタクトにしないの?」
まるで「そうすれば少しはマシになるのに」とでも言いたげに。
小4の甥の見てくれを気にしてコンタクトを勧める叔母に違和感を覚えた。俺が一度も眼鏡を外さないできたのは、コンタクトが体質に合わない以上に叔母への反発が原因かもしれない。
叔母の名誉の為に断りを入れておくと、最初の頃は亮とでかける際に義理で誘ってくれていたのだ。しかし目を見れば、それが単なる建前でしかないのがわかる。
叔母が欲しいのは可愛く賢い亮だけ。
ひねくれ者の兄貴はお呼びじゃない。
亮が「お兄ちゃんも一緒がいい」とごねたから、大人の礼儀として仕方なく声をかけただけだ。
「景文くんは?」
「宿題があるんで家にいます。弟のこと、よろしくお願いします」
同情されても惨めになるだけだから、丁重に辞退した。亮だけが寂しがってた。叔母は露骨にホッとしてたよ、せっかく亮とふたりきりになれるのに邪魔されたくなかったんだろうな。
亮はいい奴だった。兄貴を純粋に慕ってくれていた。
家族の中でアイツだけが俺を見てくれていた。
玄関ドアが開く。「ただいま」が聞こえる。亮が軽快に階段を駆け上がり、ノックもせずドアを開け放ち、学習机に向かって宿題を片してる俺に言った。
「お兄ちゃん、おみやげ!」
「ありがとな」
亮がニコニコ笑ってさしだす紙袋を仏頂面で受け取る。水族館に行った日はペンギンのシャープペンシル、動物園に行った日はパンダのぬいぐるみ。俺の部屋には亮からもらったみやげだけが増えて行った。途中から封も開けず捨てるようになった。理由は……察してくれ。
両親や叔母が亮を贔屓するのは癪だったが、それを除けば特に不自由のない暮らしをしていた。
風向きが変わったのは小4の冬。俺が10、亮が7歳の時。
車で外出中の両親が事故に遭った。二人とも即死だ。病院と警察、双方から報せを受けたのは亮と留守番をしていた俺で、受話器を取った瞬間から記憶が一部抜け落ちている。相当なショックをうけたらしい。
叔母が喪主を務めた葬式は滞りなく済んだ。叔母は大袈裟に泣きながら弔辞を読み上げ、参列者も貰い泣きをしていた。俺は泣けなかった。目は乾いていた。両親がもういないなんて信じられなくて、棺の中の遺体を確認した今もなお現実感が乏しい。
覚えているのは亮の手をずっと握り締めていたこと。
子ども特有の高い体温とふっくらした手の感触だけが、放心状態の俺を現実に繋ぎ止めてくれていた。
少なくとも俺にとっては、良い両親とはいえなかった。だからって死んでほしかったわけじゃない。
俺は亮が嫌いだった。
両親を独り占めする弟を疎んじていた。
でもあの時だけは、俺の手に必死に縋り付いてくる小さな弟を愛しく思った。がらにもなく「守らなきゃ」って思ったよ。
「ほら、父さんと母さんにさよならしにいくぞ」
最後のお別れの時間がきた。
葬式の間中俺と手を繋ぎ、ぼんやり突っ立ってた亮を引っ張る。亮は黙って付いてきた。肩を落とした俺たちを見送り、喪服の弔問客がひそひそ囁く。
「景文くんと亮くんこれからどうするのかしらね」
「二人ともまだ小学生でしょ、可哀想に」
「やっぱり靖奈さんが引き取るのかしら。ご主人の遺産があれば余裕で養えるわよね」
「大学まで出してもらえそうよね」
棺の窓を開け、中を覗き込んだ亮がポツリと呟いた。
「お父さんとお母さんは死んじゃったの?」
「ああ」
「これからどうなるの?」
「これでおしまいだ」
めでたしめでたしと結ばなくても続きをせがまない。亮は少しだけ大人になっていた。この状況では、そうならざるをえなかった。
亮は潤んだ瞳を伏せ、心の中で二人にお別れしている。俺は弟の哀悼を妨げず口を噤む。耐え難い喪失感と哀しみがだしぬけにこみ上げ、せっかちな瞬きで涙を引っ込める。
「元気だして。兄さんは亡くなっちゃったけど、私がいるから大丈夫よ」
背後にたたずむ叔母が俺と亮の肩に手をおく。
綺麗に磨き上げられた指の爪にはパールホワイトのマニキュアが塗られていて、葬式に場違いだな、と他人事めいた感想を持った。
今日で三回目か。また会えて嬉しいよ、記者さん。週一の取材はいい気晴らしになる。
前回の続きか……結論から述べると、叔母が養子縁組したのは亮だけだ。俺は施設に放り込まれた。
今でも思い出すよ、しおらしく詫びる叔母の声。
「ごめんね景文くん。本当は亮くんとそろって引き取りたいんだけど、叔母さん一人で育ち盛りの男の子ふたりも面倒見きれる自信がないの。亮くんはまだ小さいし、母親代わりが必要でしょ?景文くんはもうすぐ小5だし、お兄ちゃんだし、しっかりしてるから施設でもやっていけるわよね」
兄貴になんてなりたくてなったわけじゃない。
「一か月一回は必ず面会に来るから、安心して。必要な物があればすぐ届けるし、後見人として責任は果たさせてもらうから」
また選ばれなかった。
「誤解しないでね、あなたも大事な家族よ。可愛い甥っ子を見捨てるわけないじゃない。わかってちょうだい、しかたないの。亮くんは私に懐いてくれたけど、あなたはほら……昔からそっけなかったじゃない?おでかけに誘っても全然来てくれないし。叔母さんね、嫌われてるんじゃないかって傷付いたのよ。景文くんは亮くんと違って気難しい所があるから、接し方に悩んじゃって」
あんたが俺を遠ざけたんじゃないか。
「心配しないで、亮くんに不自由はさせないから」
不公平でも?
「電話も気軽に頂戴。離れていてもあなたのこと気にかけてるから、何かあったらすぐ呼んでね。事故で逝った兄さん義姉さんの分も成人するまでしっかり……」
ここでも亮だ。
亮だけだ。
養子縁組の手続きが済んだ日、叔母の車に乗り込む間際。
ブランド物の子供服を着せられた亮は俯き、しょげきった声で言った。
「お兄ちゃんは来ないの」
「ああ」
「なんで?」
「叔母さんは子どもを育てた経験ないから、急に男の子がふたりも増えたらドタバタうるさいだろ」
「うるさくしない。お兄ちゃんも静かにするでしょ」
「亮……」
「叔母さんにおねがいするよ、お兄ちゃんにもお部屋をあげてって。叔母さんちすっごい大きいから、お兄ちゃんの部屋だってきっと余ってるはずだよ」
コイツは善意で言ってる。わかってる。
「僕がもらったお部屋広いから、一緒のベッドで寝ようよ。机もかわりばんこで使えばいい」
恨むのは筋違いだ。
「遠慮するよ。施設には二段ベッドがあるんだ。寝るときは梯子を上り下りするんだ、秘密基地みたいで楽しい」
「お兄ちゃんと一緒がいい。施設の子になる」
「聞き分けろよ」
叔母は運転席のシートにもたれ、さすがに居心地悪そうにしている。
施設の門前に立った俺はため息を吐き、ぐずる亮を丸め込みにかかる。
「前に言ったよな、俺は将来小説家になりたいんだ。けど叔母さんは活字が嫌いだから家に本がおいてない。その点施設には読み尽くせないほど本がある、毎日好きな物語が読み放題なんて最高じゃないか。叔母さんちの子になるなんてまっぴらごめんだよ、夢を叶えられない」
うなだれた頭を不器用になでて説く。亮は拳で涙を拭き、おずおず聞いてきた。
「遊びに行っていい?」
「ああ」
もういけよと背中を押す。亮が振り返り振り返り車に歩いていく。
後部座席のドアを開け、シートに腰掛け、車窓に張り付いて控えめに手を振る。
俺はなにかを掴み損ねた右手の指を、第二関節まで曲げてこたえた。
不思議と亮の服装はよく覚えている。紺のベストに七分丈のズボン。叔母が買い与えた高級子供服は、アイツの品のある顔立ちによく似合っていた。
エンジンが嘶く。車が滑り出す。最初はゆっくりと、次第に早く。亮がサイドガラスからリアウインドウに移動し、両手をべったり張り付けて何かを叫ぶ。口の動きを読んだら「お兄ちゃん」とくり返してた。ガラス越しで声が聞こえないのに安心した。アイツの声はうるさいんだ、耳がキンキンする。
……懐かしいなこの距離感。分厚いアクリルガラスを隔てて向かい合ってると、だんだん遠のいてく亮を思い出すよ。
ペットショップのチワワみたいな涙目に罪悪感が疼いた。捨てられたのは俺の方なのに。
排気ガスを吐いて走り去る車を見送り、とぼとぼ施設へ引き返す。強張った左手をゆっくり開けば、てのひらの柔肉に爪がめりこんだ痕が穿たれていた。上手く笑えていたと祈るしかない。表情筋を偽るのは得意だ。俺はずっと自分を偽り欺いて、ただ一人の弟に接していた。
それからだよ、地獄の日々が始まったのは。
記者さんなら知ってるかもな。近年漸く養護施設での虐待やいじめの実態が取り沙汰されるようになったろ?
もちろん全部が全部そうとはいわないよ、探せばまともな施設だってあるだろうさ。俺がいた所がたまたまはずれだっただけの話だ。
で、俺は格好の標的にされた。理由は簡単、月一で面会に訪れる叔母の言動が反感を招いたから。
養護施設にいる甥に会いに来るのに、叔母は場違いなほど着飾ってきた。高価な指輪やネックレスを身に付け、ブランド物のハンドバック持参で面会に来る叔母はたちまち噂になり、旦那の遺産で遊んで暮らす未亡人だとばれてしまった。
俺は施設に場違いな金持ちの甥っ子だ。
当然周囲にやっかまれた。子どもだけじゃない、職員からも疎まれた。叔母が例の調子で無神経なことを言ったりやったりしたせいだ。
あの人は孤児や貧乏人を露骨に見下す癖があった。侮蔑の感情は態度の端々から伝わるんだ。
……当時の事はあんまり思い出したくない。語るだけで胸が悪くなる。でもそれじゃ取材のネタにならないだろ?せっかくご足労いただいたのに恐縮だから話すよ。
施設のいじめは陰湿を極めた。靴や教科書を隠されたり捨てられるのは日常茶飯事、私物には油性ペンで「影踏み」と落書きされた。俺の本名、景文をもじったくだらないいやがらせ。
俺がいた施設は一部屋四人が定員で、二段ベッドが二台詰め込まれてたんだが、同室の連中にもさんざんいじめられたよ。一番まいったのが影踏み遊び。大体想像できるだろ?三人がかりで引きずり倒されて、全身を踏み付けられるんだ。
子どもって残酷なこと考えるよな。
毎日が地獄だったよ。いじめられるのが学校だけならまだマシだ、家で安息を得られる。でも俺は……施設に帰った所で、守ってくれる両親なんかいない。さらなる地獄と地獄の底が抜けた絶望が待ってるだけ。
同室の連中に踏んだり蹴ったりされてる最中は、カゲフミなんて付けた両親を心底呪った。一番憎いのは俺を置き去りにして叔母とよろしくやってる亮だ。裏切り者め。
亮は叔母に伴われて月一で会いに来た。アイツは私立の小学校に転校したんだ。政治家の子息が通ってるような名門だ。編入試験は好成績でパスしたって、叔母が自慢してたよ。
亮の前じゃできるだけ強がった。努めて笑顔でいようとした。
テストで満点とったとか友達ができたとか亮がくっちゃべるどうでもいいことにいちいち相槌打って、物分かりのよい兄貴を装った。
「先週体育の授業で跳び箱やったんだ、六段合格できたのクラスで僕だけだったんだよ」
「やるじゃん」
「コツは助走、大胆に踏み切るんだ。怖がって目を閉じちゃったら失敗するから」
「大事なのは勇気と決断力」
「だね」
亮のお喋りに頷いている間中、昨晩踏まれた背中がずきずきした。シャツ一枚めくった俺の背中は一面痣だらけ、なのにコイツらはニコニコしてる。
殺意が芽生えたのは、あの時が最初かもな。弟と叔母はとことん鈍感で幸せな人種だった。面会時間のテーブルの下で、俺がずっと左手を握り込んで、爪で手のひらを抉ってようが気付きもしない。
もっと深い所を抉られてたから、手のひらの痛みで屈辱をごまかすしかなかったんだ。
そんな日々が何年も続いた。俺がいた施設は18で自立する決まりだったから、裏を返せば高校を出るまで、18まで耐え抜けばよかった。
冗談じゃない。15で飛び出したよ。叔母には連絡をとらなかった。もとより亮含めて縁を切る覚悟だった。
亮が全寮制の中高一貫男子校に入学してから、叔母はぱったり会いにこなくなった。
亮の付き添いを免除され、可愛げない甥の片割れに会いに来る理由が消えたのだ。
肥溜めを飛び出して真っ先に頼ったのは、先に自立していた加瀬先輩だ。
先輩は俺の数少ない味方、理解者だった。
先輩に未成年でもできる仕事を斡旋してもらったおかげで辛うじて自活の目途がたった。感謝しなけりゃバチがあたる。
施設にいた頃は何度か本気で自殺を考えた。結局死にきれなかった。死ぬのはやっぱり怖いし、やられっぱなしで死ぬのも癪だ。どうせ死ぬんなら俺を馬鹿にした連中を見返して死にたい。
亮と離れ離れになったあとも小説は書き続けた。呪いみたいにやめられなかった。生き地獄の日々の中、原稿用紙のマス目に架空の物語を書き綴る事だけが唯一の希望だった。
別れ際に亮に告げた強がりを嘘にしないためにも、虚勢を本当にするためにも、俺は小説家にならきゃいけなかったんだ。
なんて……ぶっちゃけ下心もあったよ。だからコンテストに応募した。大賞は賞金30万、50万、100万。それだけあれば一人でやっていけると思った。
俺を捨てた叔母に小遣いをせびるのはプライドが許さない、生きるのに必要な稼ぎは自分の力で賄いたかった。
結果は……知ってのとおり、どれも一次選考落ち。最終選考まで生き残れなかった。中学生じゃ仕方ない?天才は15かそこらでデビューしてる。施設を出たあとも毎日の仕事の傍ら、死に物狂いで書き続けたよ。駄目だった。無駄だった。拾い上げてくれる人はいなかった。
四回目か。何を持ってるんだ。写真……加瀬先輩じゃないか。
笑っちゃうよなこの刺青、本人はかっこいいと思ってたのかな。よりにもよって顔にドラゴンって。
ところであんた、死体の性器を切り取って持ち去る犯人の心理を想像できるかい。
コレクション。いい線いってるかもな。アメリカのシリアルキラーには被害者の身体の一部を記念品として持ち去ったヤツが大勢いる。持ち帰って……犯行の一部始終を反芻して、マスターベーションに耽るのさ。ハンティングトロフィーと一緒。
先輩の場合、亀頭のリングピアスがレアだもんな。金属アレルギーで粘膜が炎症起こしたのに、よくやるよ本当に。
死因は頭蓋骨陥没による脳挫傷。犯人の供述を信じるならパソコンで後ろからガツンと。手垢塗れのシチュだな。芸がない。
記者さんはミステリー小説に疎いのか。読んだのは亮が書いたヤツだけ?
『影の憧憬』はよくできてたな、感心したよ。はたちそこそこの若造のデビュー作とは到底思えない。
審査員が満場一致で新人賞に推したのも頷ける、大御所作家のお歴々もこぞって絶賛だ。
著者近影の映りも一番よかったんじゃないか、しゃらくさい角度でキメてたっけ。ああいうのって誰が指示だすんだろうな。カメラマン?担当?自分で考えたんならお笑いぐさだ。
逆にそうでもしないと完璧すぎて近寄りがたいか。実はナルシストだったとか、隙がある方が付き合いやすいだろ。世間一般の女は男の可愛げとやらに萌えるんだ。
取り調べの進捗は……言えない?だろうね。カマかけたのさ、怒るなよ。
俺は犯人じゃない。信じる信じないはご自由に。さて、そろそろ取材に移ったらどうだ?時は金なりってね。
……小説の話を聞きたい?へえ、興味を持ってくれるのか。嬉しいね。亮のおまけの兄貴に興味をそそられる記者はいても、俺が書いたものに関心を示すヤツはいなかった。
亮と離れ離れになってからも小説は書き続けた。俺にはそれしかなかった。嘘っぱちの物語だけがくそったれた人生の拠り所だった。
施設を飛び出してしばらくのち、先輩の伝手でアパートを借りた。ネカフェに寝泊まりするのは懲りたんで有難かった。前の住人が孤独死した事故物件だろうと関係ない、寝ている時に踏まれないだけ極楽だ。
今でも夢に見るよ。夜中にベッドから引きずり出されて、よってたかって踏まれる夢を。枕で叩かれる夢を。
引っ越しの際、部屋に運び入れたのは最低限の家具と本だけ。折り畳み式のローテーブルや収納ケース、布団は先輩にもらった中古品だ。
仕事が入ってない日は一日中執筆に費やした。新人賞は当たればでかい。俺は来る日も来る日も机に向かい、先輩に譲ってもらったノートパソコンで小説を書き続けた。空っぽの部屋にキーを叩く音だけが響き渡った。
金が欲しかった。
それ以上に承認に飢えていた。
パソコンで。スマホで。報われなくても書き続けた、読まれなくても書き続けた。手にタコができ、キーが壊れて脱落し、それでも書くのを止められない。書いても書いても絶望と背中合わせの渇望は満たされない、衝動の内圧が高まり破裂しそうになる。
書くことは俺の復讐だった。くそったれた人生への復讐。どん底から這い上がる手段と言い換えてもいい。キーを打ちながらくだらない妄想に酔い痴れた。賞をとり、あるいはスカウトされ、商業デビューを果たす。本の折り返しに著者近影が載る。本屋に平積みされた本を手に取り、立派な作家になった俺に、たまげる施設の連中の顔を思い浮かべりゃ胸がすいた。ペンネームは用意しない。本名と同じ。俺があのカゲフミだと、連中にしっかりわからせてやりたかったから。
あっというまに月日がたった。俺は23歳になっていた。先輩に紹介してもらった仕事はキツかったけど、食えるだけ有難い。苦しい生活の中でも本屋通いだけはやめなかった。近所の新古書店に寄り、興味をひかれた本は立ち読みし、気に入ったら買って帰る。中にはどうしてこんな本が、とあきれる駄作もあった。むしろ殆どがくだらない、とるにたらない本だ。自分が落選した賞の受賞作が、発売間もないのに新古書店に出回っているのを見た時は、心の中で「ざまあみろ」と嘲笑った。世間の連中は馬鹿だ。審査員の目は節穴だ。デビューして本になってるだけマシな相手と自分を引き比べ、屈折した優越感を満たしたんだ。
あの日も本屋に寄った。自動ドアをくぐってすぐのワゴンに積まれていたのは、まだ新しいハードカバーの小説だった。タイトルは『影の憧憬』。作者名を確認もせず表紙を開き……
弟と再会した。
五回目か。あんたもよく飽きないな。手に持ってるのは……『チューベローズ』か。どうだった?売れっ子作家・片桐亮の最新作を読んだ、率直な感想を聞きたいね。
コイツが世に出た時のベテラン作家や書評家の推薦文はよく覚えてる。賛否両論、きっかり分かれた。経緯を考えれば妥当か。「過激な性描写」「インモラルの極み」「衝撃の問題作」……帯に刷られた言葉は一字一句暗記してる。出す前から売れるのはわかっていた、実際の事件をベースにしてるもんな。ジャンルはミステリー……サスペンス……いや、ヒューマンドラマかな?恋愛要素も含んでる。サイコホラーっていうと安っぽい感じがしてやだな。
主人公は子どもの頃に姉と生き別れた弟。大人になった彼は作家になり、姉を捜し続けていた。ある時主人公は、姉が外国の小さな街で花売りをしているらしい情報を掴む。すぐさま姉に会いに行ったものの、彼女は弟の事を覚えてない。ただの迷子の旅行者と勘違いして、チューベローズを一輪渡す。結局主人公は素性を明かさず、チューベローズをもらってとぼとぼ帰って行った。
その後主人公は近くの宿に泊まり、姉のもとに通い続ける。綺麗で優しくて大好きな姉だった。ところが彼女は過去の辛い体験のせいで弟の存在を忘れてる。主人公は怯えた。自分が正体を告げる事で、姉のおぞましい記憶を蒸し返してしまうのを恐れたんだ。主人公は姉を不幸にするのを望まない。彼女が今幸せならいいと結論をだして、姉が売っていたチューベローズを全部買い上げて、ホテルの部屋に飾るんだ。
印象に残ってるシーンは……主人公が鎖骨にチューベローズのタトゥーを彫る所?あそこはできすぎじゃないか。思い出を美化したかったんだろうが、俺にいわせりゃ手前勝手な感傷に浸ってるだけだよ。
前回の続きね。
俺は亮のデビュー作を買って帰り、徹夜で読み耽った。手汗でよれたページをめくり、文章を目に焼き付け、一気に駆け抜けた。
何年も前に生き別れた弟が作家になっていた。
また追い越された。
著者近影の亮はすっかり大人びていた。モデルのように洗練された容姿の好青年。略歴には名門大の二年生とある。
学生兼作家……優雅なご身分じゃないか。
本を読み終え表紙を閉じるや、幼い日の亮の顔が浮かんだ。人魚姫の結末に納得せず、ありもしない続きをねだった弟の顔が。
本を持ち、静かに腰を上げる。コンロが一口だけの台所に行き、カチリと摘まみを捻る。ボッと点火した青い炎に本を翳し、燃え上がるのを見届ける。
パーカーの腹ポケットが震えた。スマホを取り出し一瞥、加瀬先輩の電話を受信する。
『カゲか。仕事が入ったぞ、お前をご指名だ。今から来れるか』
「わかりました」
『遅刻は厳禁な。ちゃんと準備してこい』
「了解っす」
亮のデビュー作は灰のかたまりになった。コンロにくべた本をシンクに叩き込み、蛇口をひねって残り火を消し止める。台所が焦げ臭かったんで換気扇を回す。
亮に会いに行こうと思った。
今の時間は大学か。真面目な学生なら多分きっとそうだ。とはいえ広大なキャンパスで会えるか心もとない、生き別れの身内が突然訪ねて行った所で事務にすんなり通してもらえるか……。
悩んだ末、叔母の家に行く事に決めた。一人暮らしの可能性も考えたが、略歴には「世田谷区在住」と書いてあった。叔母の家も世田谷区、住所は変わってないと信じたい。
一旦風呂場に引っ込んで準備をする。ちゃんとやっとかないと客がうるさい、最悪先輩にチクられる。仕上げに洗面台で顔を洗い、充血した目をすすぐ。ハンドタオルで顔を拭き、壁に嵌めこまれた鏡に向き直る。眼鏡をとったせいか、視界は頼りなくぼやけていた。手のひらを見下ろす。爪の痕。指を握り込み、強く力を入れ、おもむろに拳を振り上げる。ガツン、衝撃が襲った。力任せに浴室の壁を殴り付け、腹の底で吠え猛る凶暴な衝動を押さえこむ。
前もって連絡する気はなかった。亮の番号は施設を出た日に削除してる。
その後俺はアパートを出て電車に乗った。叔母の家は世田谷の一等地の豪邸だ。敷地に張り巡らされた塀の隅に寄りかかり、しゃがんでスマホをいじる。亮が夜遊びにハマってないことを祈った。既に日は傾き始めている、指定の時間に間に合うように切り上げなければいけない。
豪邸の前で待ち伏せする事二時間、道の向こうから均整とれた長身の青年が歩いてきた。著者近影から抜け出てきたような背格好。涼しげな切れ長の目に高く通った鼻梁は、かすかに幼い頃の面影を宿している。
最初は困惑、次いで不審、最後は驚愕。接近に従い鮮やかに表情が移り変わり、第一声を放った。
「兄さん?」
「よ」
右手の指を中途半端に曲げてこたえる。亮が道のど真ん中で立ち止まり目を見開く。大袈裟なリアクション。当たり前か、ずっと消息不明だった兄が突然現れたんだから。
「本読んだぜ、売れっ子新人作家」
次の瞬間、抱擁された。亮がくしゃりと顔を歪め、両腕を俺の背中に回して叫ぶ。
「8年間もどこ行ってたんだよ、捜したんだぞ!警察に捜索願いだしても全然手がかりないし、何か事件に巻き込まれてるんじゃないかって」
「悪い」
「施設で何かあったんならどうして相談してくれないんだよ、勝手に飛び出してって長い間連絡もよこさずに!俺がどれだけ心配したかわかってんのか、毎日毎日兄さんのこと考えて元気でいるように願って」
「『お兄ちゃん』は卒業?寂しいな」
軽い口調でひやかし頭をなでさする。亮がずずっと洟を啜り、俺の目を狂おしく見詰めてくる。
「会いたかった」
「ああ」
「また会えて、死ぬほど嬉しい」
じゃあ死ねよ。
「俺もだよ」
8年ぶりの再会に感激する亮をちらちら見ながら、犬の散歩中の主婦が通り過ぎて行く。咄嗟に亮の腕を引っ張って端に寄り、素早く囁く。
「場所変えようぜ。近くの喫茶店でも」
「家ん中は?」
「叔母さんには会いたくない」
「死んだ」
「は?」
一瞬思考停止に陥る。冗談かと思ってまじまじ見直したが、亮の顔は至って真面目だ。
「三年前に事故で」
「事故ってどんな」
「うちの階段から落ちて頭を打って。ツイてないよな」
「知らなかった」
「知らせようとしたけど、携帯繋がんなかった」
俺にあれこれ話しかけていた時とは打って変わったローテンションで、他人の噂話でもするみたいに話す。何故だかぞくりとした。弟の中身が入れ替わった錯覚に囚われた。
「上がってよ。遠慮しないで」
うるさいのは消えたから。
先に立って玄関ドアを開けた亮に招かれ、ためらいがちな足取りで続く。内装は最後に来た時と変わらず豪華で、少々気圧された。
俺はリビングに通され、亮が淹れてくれた外国銘柄の紅茶をちびちび飲んだ。
「どうかな」
「うまい」
「よかった。マドレーヌも食べてよ、担当さんにもらったんだ」
「ファンの差し入れじゃないのか」
「食べ物はNGだから」
「毒とか髪の毛とか異物が混入されるかもしれないし」
軽口を叩いてマドレーヌを摘まむ。濃厚なバターの甘味が口の中に広がり、胸焼けした。
「葬式の手伝いできないですまなかった」
「気にしないで。それより酷いじゃないか、俺の番号まで消しちゃうなんて。施設の人に聞いても行き先知らないっていうし、本当にお手上げだったんだ」
亮が施設の連中と会っていたと知り、苦虫を嚙み潰した顔になる。
「施設を出た後は何してたの」
「先輩を頼って色々……仕事を回してもらった」
「働いてるの?仕事は?」
「フリーターみたいなもん。そっちは一人暮らし?叔母さんの遺産継いだのか」
「まあね。多すぎて使い道ないから貯金してる」
「うらやましい」
「俺の金は兄さんの金だよ。血の繋がった甥なんだから、叔母さんの遺産は半分手にする権利がある。必要なら気軽に」
「俺は養子縁組してない。ってことは、血の繋がった他人も同然じゃないか。甘えるわけにいかないよ。お前は学生で色々物入りなんだから大事に使え。今は印税で多少潤ってたって、数年後も売れ続けるかわかんないんだぞ」
皮肉っぽく口角を上げてまぜっ返す。亮が苦しげな顔をする。溜息を吐いて話題を変えた。
「知らない間に作家デビューしててびびった。『影の憧憬』、売れに売れてるみたいじゃないか。ネットでも大絶賛、新人じゃ異例の重版」
スマホを翳して書評を見せれば、亮は照れくさげに肩を竦めた。
「兄さんの影響だよ」
「俺の?」
「子どもの頃からずっと書いてたろ。自由帳の物語、見せてもらった」
「勝手に見たくせに」
語尾を掴まえ訂正する。亮は「ごめんてば」と付け足し、興奮に頬を染めて捲し立てる。
「兄さんが俺に物を書く楽しさを教えてくれたんだよ、覚えてるかな、小さい頃に絵本の続きを即興で考えてくれたの。王位継承争いに巻き込まれた人魚姫が、タコの殺し屋を欺く為に自分の死を偽装したってヤツ」
「あったなそんなの」
「兄さんの発想力は全くすごい。人魚姫を可哀想なまま終わらせず、ハラハラドキドキが詰まった続編を考えてくれた。俺は原作の人魚姫より兄さんが考えた続きの方がずっと好きだ、ずっとずっと面白かった。兄さんは誰に教わらなくてもエンタメの基本を押さえた物語作りができてたんだな」
新進気鋭の売れっ子作家様が、さんざんあがいてデビューもできない俺の|幼稚な虚構《バニラフィクション》をべた褒めする。
「小説を書き始めたのは中学生の頃。兄さんが目標だった。投稿を始めたのはごく最近。『影の憧憬』は初めて完結までもっていけた小説なんだ、書いてる時は大変だったけど審査員の先生たちにも褒めてもらえて……」
月一の面会を苦痛な義務として消化していたあの頃と同じく、笑顔で頷きながらまた無意識に手を握り締めていた。
「兄さん?」
亮の呼びかけで正気に戻る。目の前に弟の心配そうな顔。なんでもないとごまかそうとして、おもむろに右手を包まれた。
「大丈夫?さっきからちょっと様子が変じゃないか、汗かいてる」
「気のせいだよ」
「熱があるの?しんどそうだ。手も……よく見たら怪我してる」
数時間前に壁を殴り付けた拳を両手でさすり、亮が眉を八の字にする。
「手当する」
「かまうな」
「ばい菌が入ったら毒だ」
「いいから。もういくな、仕事が入ってるんだ」
「じゃあ駅まで、ううん、職場まで送ってくよ。今車出してくるから待ってて」
「マジで気にすんなって、すぐそこだから」
「また会えるよね。番号登録しといて」
話してたのは一時間ほどか。必死に引き止める亮を愛想笑いで制し、よろめく足取りで立ち上がる。片膝がテーブルに当たり、ティーカップの飲み残しの雫が飛び散った。
「あ」
綺麗に畳まれたフキンを持った亮が、俺と相対して凍り付く。この瞬間、コイツの目に兄貴がどうみえるか初めて自覚に至った。擦り切れたパーカー、色褪せたジーンズ、申し訳程度に寝癖を撫で付けた髪。長年愛用している眼鏡は弦が曲がったままほったらかしで、そろそろ度が合わなくなってきていた。買い替える余裕はない。
亮は喉元まで出かけた言葉を引っ込め、俺もあえて追及せず、花崗岩を敷き詰めた玄関へ赴く。
「じゃあな。また連絡する」
「うん」
亮は優しかった。不出来な兄貴を至れり尽くせりもてなし、食べきれなかった分のマドレーヌを手土産に包んでくれた。
何故会いに来たのか、完全に理由を見失っていた。自分の惨めさに追い討ちをかけにきたようなものだ。スニーカーを突っかけて踵を嵌める俺の背後に、一分ほど消えていた亮が戻ってきた。
「兄さんこれ。少ないけど」
この時振り返ってしまったことを、あとで心底呪った。
亮の差し出す分厚い封筒の中身を確認する。札束が入っていた。絶句する俺を見詰め、売れっ子作家様が慈悲深く微笑む。
「俺の印税。足しにしてよ」
哀れまれて、恵まれて、施された。
「……いらない」
「なんで?俺が稼いだ金だよ、どうしようが自由だ。せめて眼鏡は新しくしなよ、度が合ってないじゃん」
なんでわかるんだよ、見抜けるんだよ。
気持ち悪い。むかむかする。体内から悪寒と発熱に犯され、喉元に吐き気がこみ上げる。
「お前の金だろ。お前がお前の為に使え」
「兄さんの役に立ちたいんだ」
「ふざけんな」
虚勢を張って睨み付けても亮は引き下がらない。決して封筒を引っ込めず、俺が受け取るまでてこでも動かない気迫を込めて宣言する。
「お願いだからもらって。眼鏡の度が合わないんじゃ小説書けないだろ、本出す前に目を悪くしたら兄さんの夢が叶わない」
俺の夢を奪ったのは誰だ。踏み付けてめちゃくちゃにしたのは誰だ。
玄関先での押し問答に倦み、無造作に封筒をひったくる。亮がホッとして念を押す。
「今度は着信拒否しないでね」
どうしても送っていくとごねる弟をいなし、足早に最寄り駅に向かい構内を横切る。胸ポケットに突っ込んだ封筒が弾む。
「恵まれない子どもたちに募金お願いしまーす」
「お願いしまーす」
構内で一列になり、募金を呼びかける学生たち。大半の連中は目もくれず素通りしていく。ちょうどいい。一番声のでかい女子高生に歩み寄り、封筒ごと募金箱に突っ込んだ。
「あ……ありがとうございます!」
お辞儀をする学生グループに背を向け、男子トイレの個室に閉じこもる。
「がはっ!」
人さし指と中指を二本束ねて喉の奥に突っ込み、便器を抱え込んで嘔吐した。下半身が熱い。気持ち悪い。布を漉してかすかに響く、くぐもった機械音が耳障りだ。
スマホが震える。先輩からメール……『間に合うか?』遅刻はペナルティを科される『いけます』『ちゃんと入れてきたな』『はい』『下ごしらえは完璧?客が確かめたがってる』『イイ感じにほぐれてます』震える手でメールを打ち返し、再びえずいて吐く。またメール。『証拠』何を望まれているかわかった。片手で便器に縋り、片手で下着ごとズボンを下ろし、スマホを後ろに回してシャッターを切る。機械音が大きくなる。OKのスタンプを受信。募金箱に封筒を捨ててから、眼鏡の修理代分抜いときゃよかったなと薄っすら後悔した。
……マドレーヌ?トイレのゴミ箱に捨ててきた。
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