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第2話

六回目。きちんと録音してるか?前回の続き……の前に、新しい見解を聞こうじゃないか。 何故犯人は加瀬先輩の死体から性器を切り取ったのか? 復讐。 強姦魔への。 それが答え? 確かに性犯罪者に去勢は有効だ、再犯の可能性があるなら薬物治療を施して勃たなくすればいい。どうしてそうしないか理解に苦しむ、マイクロチップを仕込むより余っ程簡単じゃないか。 また新しい写真……いや待て、見覚えあるぞ。右から林洋平、柿沼昴、曽我部龍太郎。懐かしいなあ、ガラス越しの同窓会だ。 コイツらの共通点は俺。カゲフミごっこに興じてた連中だ。全員遺体で見付かった……。 あんたはまだ俺を疑ってるのか?やれやれ、動機の有無だけで決め付けるなよ。残念だけどな記者さん、洋平たちとは施設を出てから一切交流がないんだ。もちろん連絡なんか取り合っちゃない。 前置きはこのへんにして取材を続けようか。 俺は8年ぶりに亮と再会し、交流が復活した。もっぱらアイツの方から連絡をよこし食事に誘うのがセオリーで、普段はとてもいけないような高い店に連れてかれた。家に呼ばれる事もあった。亮のヤツ、アレで結構料理上手なんだよ。パスタだのキッシュだのたらふくごちそうになった。 叔母の事故死にはびっくりしたが、別段に哀しいとも惜しいとも思わなかった。むしろせいせいした。あの人はいない方がなにかと都合がよい。 亮は離れてた間の俺の事をあれこれ知りたがった。ここだけの話、執拗な詮索に辟易した。食事の席で話せる事なんて殆どないんだ。話せる事の大半は飯をまずくする内容だ。 俺が引き出した亮の8年。中高一貫男子校を卒業後名門大学の文学部に進み、はたちで新人賞を獲って小説家デビュー。処女作『影の憧憬』は発売3か月で20万部を突破、うるさ方の大御所の評価も上々。叔母亡きあと相続した世田谷の豪邸で優雅な一人暮らしを満喫中。 「恋人は?」 亮お勧めのイタリアンレストランにて、フォークにパスタを巻き付けながら聞く。 「いない。執筆と大学だけで手一杯。今は二作目のプロットにとりかかってるんだ」 「どんな話?」 「恋愛小説」 「尚更恋人作った方が」 「いいんだ。片想いの話だから」 「そういうもんか」 曖昧に微笑む亮。実の兄貴の目から見てもイケメンに育ったものだ。 別れ際には毎回封筒を渡された。最初の一回以外、大人しく受け取ることにした。俺が新しい眼鏡を掛けて家を訪れた時の、亮の嬉しげな顔ときたら。 服を見立ててくれた事もある。 「兄さんスーツ持ってないの?」 「必要ないし。お偉い作家先生と違ってパーティーなんか行くことない」 「これから必要になるかもしれないじゃないか、一着位作っておこうよ。金はだすから」 叔母が亮を着飾り楽しんだように、アイツが俺を着飾り楽しむのは変な感じだった。 俺たち兄弟の交流は月一ペースで続いた。亮にはもっと会いたいと乞われたが、のらりくらりと巻き続けた。|一対一《サシ》の会食の話題は亮の新作の裏話、担当の話、時事ニュース、俺の創作の話。 「兄さんはどんな話書いてるの、教えてよ。賞に出すんだろ」 「おいおいな」 「もったいぶるなよ」 「パクらないか」 「実の弟が信用できないのかよ」 だってお前、一度裏切ったじゃないか。俺を捨てて叔母さんを選んだじゃないか。 そして三年がたった。この三年の間に亮は五冊の本を刊行し、名実ともにベストセラー作家の仲間入りをはたした。俺は片っ端から賞に応募しては落ち続けた。 三年目に入った頃から「一緒に住まないか」と再三誘われるようになった。叔母さんの家は広くて寒い、ひとりじゃ寂しいから兄さんとシェアしたいと亮は言った。 前々から同じことは言われていたが、以前はほのめかし程度ですんでいたのに。 「どうしてダメなのさ、しょっちゅうシャワーの水がとまるってぼやいてたじゃないか」 「長く住んでるから愛着あるんだ。今さら引っ越しも億劫だし、うるさい音たてて作家先生の邪魔をしたくない」 「邪魔だなんて一言も言ってないだろ、俺は兄さんと二人で暮らしたいんだ」 「誰かにビクビク気を遣って暮らすのはこりごり」 「実の弟でもか」 亮は知らない。俺が二段ベッドの下で寝ていたことも、夜中に引きずりだされて袋叩きにあったことも。 俺が拒んでも亮は諦めず食い下がる。しまいには一日何本もメールをよこすようになった。 『同居の件考えてくれた?』『どうしてもだめ?』『なんでだめなの?』『好きな部屋選んでいいよ』『兄さん好みのカーテンを見立てにいこう』『青好きだったろ、覚えてるよ』『これなんてどうかな』……家具用品店で撮ったらしい、ブルーアシードのカーテン画像を送り付けられ言葉を失った。 『昔持ってた、人魚姫の挿絵みたいな色だろ』 亮は完全に同居の前提で話を進めてた。いくらなんでも強引すぎる、コイツらしくない。 そんなこんなで、俺は叔母の家に寄り付かなくなった。かといって外食も気詰まりだ。 相手はネットにも顔を露出してるベストセラー作家、間接照明の洒落た店で相席してると視線が痛い。 「嘘、片桐亮?本物?」 「写真よりイケメンじゃん、サインもらえるかな」 「一緒にいるのは誰?担当?」 「え~パーカーだよ?場違いでしょあの服は」 くすくす、くすくす。周囲には嗤われた。陰口を叩かれるだけならまだ耐えられた、悪意を受け流すのは慣れっこだ。受け流せなかったのは、亮だ。荒っぽく椅子を引いて立ち上がり、赤ワインを注いだグラスをとり、俺を嗤った女のもとへ歩いていく。 「この人は兄です」 ぶっかけるのか、とあせった。違った。テーブルに着いた女二人の前に立ち、手に持ったグラスの中身を自分のシャツにたらす。白い生地にみるみる赤が広がっていく。 「僕も場違いでおそろいになりましたよね」 「……はい」 気の毒なほど気圧された女が弱々しく頷く。店中の客の視線が集中し、顔から火が出る思いがした。続いて予想外の出来事が起きた。年配の夫婦客が、メニューを小脇に挟んだウェイターが、テーブルを占める面々が上品に拍手をし始めたのだ。 俺は真っ赤な顔で亮の腕を引っ張り外に出た。 「なんだよあのふざけたパフォーマンス、きざすぎ」 「ごめん。黙ってらんなくて」 シャツの胸元に咲いた赤いシミ。まるで血。赤ワインがもったいない、直接噛んで吸い出したくなる。 俺はエスカレートしてく一方の奇行に困惑し、今や唯一の身内となった亮から距離をとろうと企てた。 その日は前日の仕事で無理して熱が出た。会食の予定をキャンセルしようか迷っていた所、加瀬先輩からメールがきた。『カゲ、指名。上客。イケるか』『了解』……どのみち外出を余儀なくされ、やけっぱちな気分で待ち合わせ場所に赴いた。 銀座の高級フレンチ。残念ながら、供された料理の味は殆ど覚えてない。終始ぼんやりしてたせいでフォークを一回、ナイフ二回、計三回カテドラリーを取り落とした事だけ覚えている。 「兄さん大丈夫?顔赤いよ」 「平気」 「無理してるんじゃないか」 「ほっとけ」 「タクシー呼ぶから家で寝なよ」 途中から料理そっちのけで俺を心配しだした亮が、スマホでタクシーを呼び付けた。 俺の肩を抱いて外に連れ出し、待機していたタクシーに押し込み、当たり前のように付き添おうとした所で意識が覚めた。 「一人で帰れる。お守りは余計だ」 「でも」 「締め切り近いんだろ。原稿落としたらファンと編集泣くぞ」 まだ何か言いたげな亮を遮ってドアを閉ざす。ほどなく滑り出したタクシー運転手に向かい、行き先の変更を指示した。 「は……」 ぐったりシートにもたれ、体内から響く機械音と前立腺を揺する刺激に耐える。ズボンの股ぐらに伸びかけた手を最後のひとかけらの自制心で押さえ、強く強く握り込む。 「ッは、ぁ」 「着きましたよお客さん。大丈夫ですか」 「大丈夫、です。気にしないで」 背凭れ越しに振り返る運転手。排気ガスを一筋たなびかせ走り去るタクシー。覚束ない足取りで歓楽街のただ中に降り立ち、普段から仕事で使ってるホテルへ急ぐ。一歩一歩が途方もなく遠く長く、時間の流れが停滞して感じた。ホテルの正面で待ってた上客が手を挙げる。 「偉いね、ちゃんと準備してきたんだ」 「お願いしま、す、はや、く、部屋にッ」 「出来上がってる?」 「もっ無理ッ、後ろぐちゃぐちゃッ、はぁ、漏れそっ、ぁあ」 「仕方ないなあ」 朦朧と視界が歪む。ネオンが滲んで溶け広がる。聞き分けなくせがむ俺の頭を押さえこみ、男が路地へと導く。ブー、ブー、卵が唸る。 「スイッチ切らなかった?」 「切りませ、んでした」 「言い付け守って偉いね。見せてごらん」 パーカーの腹ポケットに手をやり、リモコンを掴みだす。出力は歩けるギリギリに調節してあった。欲望を滾らせた男が短く命令する。 「強くして」 「はい」 摘まみを回す。 「もっと」 自分の手で最強に。 「あッ、うぁ」 前立腺を揺すり立てる衝撃に跪く。ズボンの前は窮屈にもたげていた。今すぐジッパーを下げてしごきまくりたいが、それは許されない。まずはコイツを気持ちよくしなけりゃ……路地の壁を背にした男のズボンを寛げ、その手にリモコンを委ね、勃起したペニスを咥える。 「ん、ぁふ、はぁ」 カウパーが濁流の如く滴るペニスを両手に捧げ持ち、一生懸命口で奉仕する。唇で捏ねくり、舌を絡め、窄めた口で抜き差しする。ほじってもらえない後孔が切ない。いじらせてもらえない前が切ない。じれったげに膝を揺すり、唾液にしとどに塗れた顎でしゃぶりまくる俺を見下ろし、男が摘まみを右に左に回す。 「んッあ、あぁッ、や、ィく、止め、ぁぐ」 「イく前にイかせなきゃお仕置きだぞ」 弱くされ強くされ弱くされまた強くされる。ランダムで切り替わる刺激にたまらず突き出した尻を揺すり、突っ伏す。ドライオーガズムの強制に不規則な痙攣が襲うなか、磨き抜かれた革靴が下顎にさしこまれた。無意識に舌を使い舐め回す。ワックスの苦味に吐き気がする。 「はぁ、は」 「私の靴はおいしいかい」 「おいしい、れふ」 「お代わりを召し上がれ」 「あぐ」 ブーッブーッ、奥に仕込まれた機械の卵が前立腺を責め立てる。発情した牝犬のように尻を突き上げ、地べたを這いずってまずい革靴を食べる。 「おいしいです、ご主人様」 「それよはよかった、ローターケツに突っ込んでよがってるマゾ奴隷くん」 茹だった頭ん中で未完成のプロットを練り直す。題名はまだ思い付かない。来月締め切りの賞に応募する新作……亮が審査員を務める…… 「兄さん!」 亮の声がした。幻聴を疑った。違った。今しもタクシーから降り立った弟が物凄い剣幕で駆けて来て、ぎょっとする男を殴り飛ばす。 「テメエなにやってんだクソ野郎が、ブッ殺すぞ!!」 地面に落ちて弾んだリモコンを拾い、スイッチを切る。亮が鼻血をだした男の胸ぐらを掴んでめちゃくちゃに殴り付ける。勢い余って後頭部をアスファルトに叩き付け、前歯をへし折る。 「よせ亮、やめて、くれ」 拳に前歯が刺さったまま、再び振り抜かれた腕に縋り付き、掠れた声で呟く。 「商売道具、大事にしろ」 フッと意識が遠のいた。 傾いだ俺を力強く受け止め、亮がタクシーまで引きずっていく。亮が運転手に早口で住所を伝えるのを上の空で聞く。 タクシーが止まる。アパートに着いた。カンカンカン、気忙しい靴音。 「もうすこしだから頑張って」 亮が俺に肩を貸し鉄筋の階段を上がっていく。パーカーのポケットを探って鍵をとりだし、さし、回す。ドアが開いた途端玄関先に崩れ落ちた。亮が殺風景な部屋を行き来し、熱冷ましの薬をさがす。 「解熱剤はどこだよ、ルルとかイブとかあるだろ!?」 「バファリンなら……ルルは眠たくなる、から、差し支えが」 詳しい場所を教える気力すら尽きて倒れ伏した俺を跨ぎ、浴室のドアを開け放った亮が立ち尽くす。 俺のコレクションにたまげたんだろうな。 はじめまして。片桐亮です。 ……なんで取材に応じる気になったかって?おかしなこと言いますね、あなたが手紙で申し込んだんでしょうに。驚かれるのもわかります、今まで断り続けてきましたから。 兄に……景文に先に取材したんですね。どうでしたか?……元気そうならよかった。俺たちは別々の刑務所にいるから、お互いの状況がちっともわからなくて。 ああ、最新作を持参してくださったんですね。ありがとうございます。『チューベローズ』……ご存じですか? 夏に真っ直ぐな茎をのばし、縦に連なるような純白の花を咲かせる植物。夜になると一際強く官能的な匂いを発することから和名では月下香とも呼ばれます。中国名は|夜来香《イエライシャン》。昼と夜じゃ香りに含まれる成分が異なり、月夜は特に濃厚に薫るんです。 何から話せばいいのかな。生い立ちは省略して構いませんか?兄と重複するので。ええ、両親には可愛がってもらいました。俺は普通の人より少しだけ賢かったみたいです、それが両親の自慢でした。どうでもいいですけど。 だってそんなことより、お話を作れる才能の方がすごいじゃないですか。 俺には三歳上の兄がいました。小さい頃から全然似てない兄弟でした。僕は兄が大好きで四六時中付いて回った。兄は迷惑だったでしょうね。 兄さんに絵本を読んでもらうのが好きだったんです。母じゃ駄目でした、物足りません。兄はバッドエンドの続きを考えるのが得意だったんです。人魚姫のその後はよく覚えています。彼女は泡になって消えたんじゃない、全部自作自演の狂言だった。 救われた思いがしましたよ。恋に破れて消えちゃったんじゃ人魚姫が可哀想すぎるじゃないですか。 一回兄が母にぶたれたことがありました。悪いのは俺です、兄が大切にしていた絵本をとったから……なのに母は事情も聞かず、長男に手を上げた。 その後。俺がびっくりしてべそかいてると、ムッツリした兄がそばにきて言ってくれたんです。「お前のせいじゃないよ」って。自分が叩かれたのに慰めにきてくれた。優しい兄が大好きだった。 両親が死んだのは7歳の時です。自動車事故で二人とも即死でした。葬式の間中、兄の手をギュッと握ってました。そうしないとどっか行っちゃいそうで怖くて、一生懸命捕まえてたんです。予感は的中しました。ふたりそろって引き取られると思ったのに兄だけ…… なんで兄と引き離されるのかわからなかった。叔母は色々理由をこじ付けてました。兄は気難しくて育てにくいからとか……俺は兄と一緒がよかった。離れたくないって泣いて頼んだ。でも他でもない兄さんが、叔母の家の子になれって勧めたんです。 「叔母さんは金持ちだから、叔母さんちの子になれば遊んで暮らせる。叔母さんが死んだらお前は大金持ちだ。その金でお兄ちゃんを助けてくれ」 別れ際に兄が耳元で囁いたんです。兄さんに助けてくれってお願いされたのは生まれて初めてでした。それで大人しく車に乗って、さよならをしたんです。 兄には月一で会いに来ました。本当はもっと頻繁に会いに来たかったけど、叔母が許してくれなかったんです。一人で行こうとしました。でも兄がいる施設は遠くて……いや、違います。お小遣いはたくさんもらってたから、電車とバスを乗り継いでいこうと思えばいけたんです。そうしなかったのは叔母に見張られてたから。叔母は過保護でした。俺が常に自分の目の届く範囲にいなけりゃ気が済まない人だった。万一約束を破って勝手に会いに行こうものなら、兄さんに皺寄せがいく。そうおどされてたんですよ。 兄さんが施設で辛い思いをしてるのは勘付いてました。実際聞いたこともあります、一緒の部屋の子たちに嫌なことされてるんじゃないかって……反応?とぼけられました。でも見てればわかりますよ、体を庇ってましたから。どんどん痩せてったし。 何度も叔母にお願いしました、兄さんを引き取ってほしいって。叔母の答えは判で押したように同じ、俺がいい子になったら考えてやるの一点張り。それを真に受けて勉強と運動を頑張りました。叔母の言うことには絶対逆らわず、常に大人に気に入られるようにして、頑張って頑張って頑張ってきたんです。 なのに兄さんは消えた。 消えてしまった。 俺の助けは間に合わなかった。兄さんはもたもたしてる俺を見限って、自分勝手に施設を飛び出してったんです。体面を潰された叔母は怒り狂いました。 何年も何年も兄さんをさがしました。 何度スマホにかけても返事はもらえず事件に巻き込まれてるんじゃないかって怖くて不安でたまらず、施設の先生や同室の人に聞いても行き先はわからなくて兄さんが無事なのか心配で心配で…… だからね。小説を書き始めたんです。 兄さんは本が好きだ。子どもの頃から作家になりたがってた。施設を出た後もその夢が変わってなければ、結構な頻度で本屋へ行くはず。兄さんの性格上、自分から進んで叔母を訪ねることはありえない。俺に連絡をとるとも思えない。じゃあどうする? 俺が作家になって、合図を送ればいいんです。 著者近影ってあるでしょ?作家の写真が載る場所。本名でデビューして、折り返しに写真とプロフィールを載せれば絶対気付いてもらえる。お前作家になったのかよって、驚いて会いに来るはず。 デビュー作に兄さんの名前の一部を入れたのも、気付いてもらいたい下心があったから。 『影の憧憬』……景がふたつ入ってます。 いちかばちか賭けだった。それが当たった。登場人物の名前はね、兄が小3の時自由帳に書いてた物語のキャラから借りたんですよ。話自体は一から考えたんですけど…… 大学の講義を終え、次作の構想を練りながら帰ってきたら、家の前に若い男がしゃがんでたんです。白いパーカーとダメージジーンズ、ぼさぼさ気味の黒髪に黒縁眼鏡。 兄さんでした。 「よ」 死ぬほど嬉しかった。 最初は半信半疑だったけど近付くほどに確信が強まり、右手の第二関節まで曲げる癖で直感しました。 大の大人が感極まって抱き締めちゃいましたよ。 抱き付いた時ね、ささいな違和感を覚えました。ビクリとしたんです。密着した下半身からかすかにくぐもった音も聞こえた。その時は気のせいかなって流しました。 だってまさか、8年ぶりの兄さんがケツにローター突っ込んで会いに来るド変態になりさがってるなんて思わないじゃないですか。 ……ホント言うとわかんないんですよ。兄さん、どれ位の頻度で入れてたのかな。毎回?三回に一回?だぼだぼのパーカー羽織って、伸びた裾で股間を覆ってたのも……今考えれば、勃ってたのをごまかすためだったんでしょうか。 俺だって馬鹿じゃありません、何回も続けば気付きますよ。兄さんの様子がおかしいから気になって……会って半年目、興信所に尾行を頼んだんです。それでアパートの場所を突き止めました。兄さん、住所は絶対教えてくれなかったんです。 結果は……俺と会ったあと、どこへ行ったと思います?ラブホで男と待ち合わせしてたんです。 その写真の男……加瀬明は、男娼デリヘル『チューベローズ』の仲介人でした。 兄は施設の先輩に利用されて、売春で稼いでたんです。 興信所の調査員から上がる報告を読むうちに、加瀬が仕切る『チューベローズ』がヤバい店だとわかりました。SМマニアのゲイ専門デリヘルなんてニッチでしょ。 『チューベローズ』で働く男娼は加瀬が属してる半グレが借金のカタに沈めたか、メンバー直々に引き抜いてくるって聞きました。兄さんは後者でしょうね。 俺は……兄さんを助けたかった。助けようとした。渋る兄さんに無理矢理現金を押し付けたのは同情が理由じゃない、売春をやめてほしかったから。 なのに兄さんときたら俺の封筒を受け取ったその足でラブホに行く、知らない奴と腕組んで入ってく、何度も何度も何度も人の気持ちを踏みにじってあのマゾのド変態は! ねえ記者さんわかりますか?大好きな兄さんと話してる時、俺は兄さんのケツん中にオモチャが入ってるかどうか考えてるんですよ。兄さんのケツをバイブやディルドやローターがぐちゃぐちゃにかき回してるとこ、悶々と妄想してるんですよ。そんなの想像の中で兄さんを犯してるのと同じじゃないか、兄さんを裸に剥いて滅茶苦茶にするのと同じじゃないか。 兄さんはどんな顔で、どんな淫らな姿で男に抱かれるんだ? ホテルの一室で何をされてるんだ? 縛られて吊られて打たれて突っ込まれてかき回されて捏ねられて伸ばされて畳まれて跨られてぐちゃぐちゃにされてるのか? 興信所は仕事熱心だ。契約に従って定期的に報告を上げる。俺は見ました、尾行の成果の写真を。兄さんが加瀬や客と密会する都度、ホテルの内外で淫らな行為に耽る写真をいやってほど見せ付けられた。路地の壁に押し付けられてキスされる兄さんも、跪いてフェラチオする兄さんも…… 兄さんを助けたかった。 なのに気付けば、兄さんに奉仕させる加瀬や上客を自分とすりかえていた。 俺はおかしくなってたんですよ。小説の続きにとりかかろうとしても、指が打ち出すのは兄さんの痴態です。 四六時中兄さんの痴態に呪われてるせいで、書くもの全部兄さんが主人公のポルノに成り下がっちまった。担当に渡せるわけない、汚らわしい欲望の産物に。 どうすれば兄さんを真っ当な道に戻せるか。どうすれば兄さんを他の男に抱かせずにすむか。 ひらめいた。一緒に住めばいい。俺は小説家だから基本一日中家にいます。だから一緒に住んで、朝も昼も晩も一日中兄さんを監視すればいい。 生前の叔母さんがしたように、この家に縛り付ければ。 ……皮肉だと思いませんか、結局叔母のやり方をまねするしかないなんて。 兄さんに言いました、アパートを引き払ってこっちにこないかって。そうすると兄さんはやんわりはぐらかす。絶対に「うん」とは言ってくれない。頷いてくれるだけで良かったのに……今の俺はあの頃とちがってなんでも持ってるのに、みんなにちやほやされる小説家になって叔母さんの遺産を継いでなんでもできるのに、兄さんの為に兄さんの欲しがるもの全部用意してあげれるのに。 兄さんが承諾してくれないのにむきになって、気付けば一日十本ニ十本メールを送り付けた。引かれるのはわかってたのに、理性のブレーキが利かなくなってた。 束縛。独占欲。二度と兄さんが兄さんを安売りしなくていいように、俺の印税全部ぶちこんで、幸せにしてやりたかった。 空回る俺から兄さんは次第に遠ざかって……また疎遠になる兆しがして…… あの日、兄さんはすごく体調が悪そうだった。食事中も上の空、三回もカテドラリーを落としました。大丈夫って聞けば大丈夫って生返事をする。全然大丈夫じゃないくせに……そういうとこは意地っ張りだった。 兄さんの体調不良を見かねて、会食を切り上げてタクシーを呼びました。肩を貸した時、例の忌まわしい音がしました。兄さんの身体は熱く火照っていて、汗びっしょりで、苦しそうに息を荒げていました。ああ、今夜も…… 誰に会いに行くんだよ。 何されに行くんだよ。 店の前で待ってるタクシーに兄さんを押し込んで見送った。兄さんはシートに伸びてぐったりしていた。ガラス越しの顔は赤く染まって、子どもの頃とは立ち位置が逆転してました。あの時は俺が車内で、兄さんは外に立っていた。 妙な胸騒ぎに駆り立てられ、別のタクシーを拾って尾行を頼みました。俺の予想が外れてりゃいいって、狂おしく願いました。なのに…… 記憶は一部途切れてます。気付けば男をボコボコにしていた。興信所が盗撮した写真の男、以前兄さんとキスしていた……血まみれの右拳に折れた前歯が刺さって痛かった。兄さんが縋り付いてこなきゃ殴り殺してた。 路地裏に這い蹲って男のモノをしゃぶってた兄さん。ケツにローター突っ込んでよがってた兄さん。ワックスでテカる革靴をまずそうになめてた兄さん。 半殺しにした男を捨てて、タクシーに乗り込んだ。兄さんの住所は把握してたんで、すぐに言えた。到着した先は築五十年はたってそうなボロアパートで、二階の右端が兄さんの部屋だった。 兄さんを引きずって、パーカーの鍵でドアを開けて、家探ししました。薬を探してたんです。殺風景なワンルームでした。玄関入って右手に浴室のドアがあって、洗面所の戸棚にあるんじゃないかって、開けたのが間違いだった。 洗面所の棚に犇めく悪趣味な大人の玩具の数々。巨大な男根を模した黒いバイブ、卑猥な形状のディルド、滑らかなピンクのローター、アナルパール、プラグ、チューブ入りローション、箱詰めコンドーム。兄さんの商売道具の数々。 来るんじゃなかったって後悔した。見るんじゃなかったって呪った。 思い出が、打ち砕かれた。 「軽蔑したろ」 浴室の床に崩れ落ちて、背中をうなだれる俺に、玄関に倒れ込んだ兄さんが自虐した。 「辛いんだ、らくにしてくれ」 縺れる舌で、火照った顔で、震える手で頼まれた。兄さんを布団に引きずってって、服を脱がせた。ローターの音がうるさくなる。下着ごとジーパンを脱がすと、ピンク色のコードが尻の窄まりからたれていた。ぐっとコードを掴んで、一気に引き抜く。 「何時間入れてんだよ」 「ッぁぁッ」 ちゅぽん、間抜けな音がしてローターが排泄された。使い込まれたアナルは赤い媚肉が開いて、てらりと透明に光る、濃厚なローションが伝っていた。 「食事中もずっとかきまぜられてたのか。サラダやステーキ噛みながら、ケツでイきまくってたのか」 どうりで上の空なわけだ。凶暴な衝動に駆り立てられ、長時間ローターに犯され抜いて弛緩しきったアナルに、三本指を突き入れる。ぐちゃぐちゃとローションをかき混ぜて前立腺をいじめれば、淫らに蕩けきった顔で兄さんがねだってきた。 「亮、抱いて」 「その前に教えろよ。これ、あんただよな」 スマホを操作して『チューベローズ』のサイトを呼び出す。キャストとして一番目に掲載されている男娼は、トレードマークの眼鏡を外し、上半身裸にジーパンのみの兄さんだった。 どこで撮ったんだろうか。赤い壁紙を背景にしたベッドの上で、両方の乳首にリングピアスをし、鎖骨にチューベローズのタトゥーを彫った兄さんが、コンドームを咥えて挑発的に微笑んでいた。 「よく似た他人じゃないか」 兄さんは嘘吐きだ。 布団に仰向けたまま口角の片端を上げ、俺の顔に緩く手をさしのべ、囁く。俺は兄さんを組み敷き、パーカーの胸元を掴んで広げる。鎖骨に咲く純白のチューベローズ。 「知ってるか、兄さん。『チューベローズ』の花言葉」 危険な関係。戯れ。快楽。官能。 「先輩が言ってたっけ」 「『チューベローズ』のキャストは、みんな身体のどこかに彫られてるんだろ」 「よく調べたな」 俺は兄さんに欲情していた。目の前の兄さんは淫乱な本性を露わに熱っぽく潤んだ瞳を細め、俺の顔を手挟み、唇を啄む。 「ご褒美欲しかったんだろ」 ずっとあんたをさがしてた。いなくなってから毎日必死にさがし続けて、やっと会えて、これから幸せにできると思った。めでたしめでたしで結んで、ハッピーエンドで終われると思ったんだ。 俺の目をまっすぐ見詰め、男娼が告げる。 「鎖骨を希望したのは俺。脱いだら客が悦ぶ」 「やめろ」 「脱がせる方が好きな奴もいる。俺みたいに地味なのが見えない所に彫ってると、やたら興奮する変態がいるんだよ。で、いたぶるのに夢中になる」 「やめてくれ」 「ヤッてる最中タトゥーまわりの皮膚が赤くなって、チューベローズが燃えてるみたいで」 絶叫を上げた。聞きたくもないお喋りを止めさせるには、幼稚な挑発に乗るしかない。男を抱くのは初めてだったけど、兄さんが上手にリードしてくれたからちゃんと最後までできた。 「あッ、ぁぁっ、亮そこっ、イっ、奥まで当たってる、すげえ気持ちいい」 暗くて狭くて汚い部屋、薄っぺらい布団に仰向けた兄さんがシーツを蹴ってよがり狂い、チューベローズが幻の香りをふりまく。俺は泣きながら兄さんを犯した。兄さんを抱いてる最中にぶり返したのは苦い初体験の記憶。俺は13、相手は叔母だった。 叔母が兄さんを捨てたのは、弟と愛人契約を結ぶのに不都合だから。 「兄さん、ッ、締まる」 あの人の言うことならなんでも聞いた。俺がいい子にしてれば兄さんを引き取ってくれるっていうから、その言葉を信じて尽くした。 兄さんと一緒に暮らしたかったから。 救いたかったから。 なのにこの人は壊れて、俺も壊れて、兄と弟でヤッている。 「どうしてあとちょっと我慢してくれなかったんだよ、待っててくんなかったんだよ」 「亮、ぁンっあイくっ、ぁッふぁっあ」 「俺が迎えにいくはずだったのにッ、なんでッ」 涙が止まらなかった。兄さんの中は熱くうねって、ドクドク脈打って、夢中で腰を打ち付ける。 チューベローズが燃える。鎖骨にタトゥーを彫った男娼が、とめどない快楽に堕ちて喘ぐ。 「ぁ―――――――――――――――――ッ……」 仰け反り射精する兄さんを抱き締め、チューベローズのタトゥーにキスをする。 ……数日後、兄さんが越してきました。 浮気はいけないよ、記者さん。 アイツの所にも行ったんだろ?兄と弟に二股かけるなんてやるね。刑務所でもね、この手の噂はすぐ出回るんだ。やっぱり俺の目は節穴だったかな、あんたのこと買いかぶってたよ。 見たい?刺青。 ほら……近付きな。服で見えないギリギリの所にあるんだ。襟ぐりの深い服を着れないから、夏場は大変だった。 チューベローズって花。俺がいたデリヘルと同じ……亮の最新作と同じ名前の。本物はいい香りがするらしいぜ。 別に好き好んで入れたんじゃない、店のキャストは彫る決まりなんだ。コイツがある限り逃げられない。入れたのは15ん時、店と提携してる彫り師に頼んだ。しばらくは肌が炎症起こして痛痒かった、じき馴染んだけど。 記者さんも勘付いてたろ、俺と先輩の関係。 変に思わなかったか、なんでリングピアスのこと知ってんのか。施設で見た?連れション?はははは、ははははははははっ!そうだよな、可能性としちゃあるよな。でもさあ、養護施設の子が竿に痛いのしてたら目立ちまくるぜ? ああおかし、笑いすぎて素が出ちまった。亮のインタビュー記事まねて、気取った話し方で通す予定だったのに。結構上手くできてたろ? 先輩は恩人だよ、それは本当だ。同室の連中にいじめられてた俺を、口でするのと引き換えに助けてくれた。施設を出たあともずっと関係は続いて、仕事を回してもらったんだ。 あの人には感謝してるよ、おかげで学歴や資格がなくても食ってこれた。パソコン譲ってもらったし。 俺は『チューベローズ』の売り専だ。 家から|直《ちょく》で仕事に呼ばれることもあるし、そういうときはちゃんと準備をする。洗面所には道具一式がそろってた。客や先輩のプレゼントとか、自分で買ったのとか色々。 亮はSМに免疫ないからドン引いてたよ。兄貴の自慢のコレクションなのにな。 ……亮とヤッてから数日後、俺は叔母の家に居候することになった。 亮がボコったのは毎回俺を指名するお得意様、『チューベローズ』の上客。突然相手はおかんむり、先輩もブチギレた。スマホは震えっぱなし、半グレに殴り込まれるのは時間の問題。そもそも先輩が世話してくれた部屋だから、住所はばっちり把握されてる。完璧詰んだ。 で、大人しく匿われる事にした。コレクションに未練はない。叔母の家で暮らすのは気が引けたが、背に腹は代えられないもんな。 遅まきながら、亮の奴も漸く自分がどんだけヤバいことしたのか気付いたみたいだ。 俺に皺寄せがくるって理解した途端パニクって、半ば強引に連れ出して、叔母の家に軟禁した。 「『チューベローズ』からかかってきても絶対でるなよ」 くどいほど念を押された。よっぽど信用できなかったのか。 ボロアパートにもコレクションにも未練はない。ただパソコンには未練があった。中には書きかけの原稿が入ってる。ダメ元で取りに戻りたいと掛け合ったが、当然許しちゃもらえなかった。何考えてんだって逆に罵られた。 「今週中に書き上げないと締め切りに間に合わない、今度こそイケそうな気がするんだ」 「自分の立場わかってんのかよ、戻ったら加瀬ってヤツとその仲間にヤキ入れられるんだぞ!」 「お前のせいじゃないか!」 「じゃあほっときゃよかったのかよ!」 「ああそうだよ見て見ぬふりは得意だろ、売れっ子作家様は地べたを這うのが似合いの無能な兄貴にかかずりあってねえで通りすぎてきゃよかったんだよ!」 繰り返し衝突した。一日中激しい口論をした。しまいには亮が掴みかかってきて、揉み合ってるうちに床やベッドに倒れこんで、レイプの延長めいたセックスをした。 アイツも先輩と同じだよ。 セックスで躾けようとしたんだ。 一日一日と経過するのに比例し不安になった。先輩はどうしてる?俺はクビになるのか?15の時から十年近くウリで稼いできたのに…… スマホは亮に没収されて、先輩たちと連絡がとれない。亮がボコった客の容態もわからない。運悪い事に、亮が俺を連れて逃げる現場を目撃されてたんなら通りすがりってシラを切るのも難しい。 状況がわからないじゃ尚更不安は増す。亮は付きっ切りで見張ってる。窓から逃げようにもここは三階、無傷ですむ保証はない。 どうしたかって? 俺は右利きです。なのに右手を怪我した。原稿の締め切りが迫ってるのに困りました。 兄さんが見かねて代筆を申し出ました。俺が文章を読み上げて、兄さんがそれを打ち込むんです。 兄さんのタイピングは早かった。ブラインドタッチも余裕でこなしてました。 「すごいね」 「無駄に書いてないからな」 「無駄じゃない」 叔母から相続した豪邸の三階、兄さんを監禁した部屋のベッドに腰掛け、頭の中に浮かぶ文章を読み上げていく。兄さんは机に向かい、器用に手を動かし入力してく。 兄さんが代筆してたのは出版社に依頼された新作長編で、外国を舞台にした話だ。冷めた横顔をこっちに向け、兄さんが呟く。 「この主人公うじうじ女々しくないか?」 「そうかな」 「お前がモデルか」 「失礼だなあ」 否定はしなかった。喋ってる間もタイピングは衰えず、新しい文章をカタカタ打ち込んでいく。パソコンの青白い光を眼鏡のレンズが反射し、兄さんの表情を読めなくした。 「このままじゃバッドエンドになるぞ」 「実はまだ結末決めてないんだ」 「プロットできてないのか」 「八割がた作ったけど、あとは流れに任せようと思って」 「自分が生み出した物語に責任もてよ」 人魚姫は泡になりました。めでたしめでたし。 兄さんはできてる分の原稿に全部目を通し、複雑そうな面持ちで押し黙る。主人公の姉のモデルを察したのだ。 実の弟がずっと前から自分を調べ、チューベローズのタトゥーの存在を知ってた事を今知って、キーを叩く手がわずかに鈍る。 「安っぽい話」 「気に入らない?」 「駄作だね。汚いものを綺麗に書こうとするのが気に食わない」 「俺には綺麗に見えるんだ」 今も。昔も。過去形じゃなく。 カタカタと打鍵の音が響く。目を瞑り脳内の文章を読み上げる。少し呆れた声色で兄さんが言った。 「主人公が引き取られた後、孤児院に残った姉は虐げられて心を病む。彼女を救ったのは先に出た先輩だ」 「『救った』なんて書いてない」 「結果的にそうなった」 「胸にタトゥーを彫って売春させたのに?そのせいでもっと壊れていったのに?」 膝の上で組んだ手が軋む。爪が手のひらに食い込んで痛みが苛む。 「彼女は悪い奴に利用されたんだ。痛いことが気持ちいい事だって、無理矢理思い込まされた」 目を覚ましてくれ。 頼む。 「花売りイコール娼婦ってのはメタファーとして安っぽくないか。チューベローズが指名の符号ってのも」 お願いだから、兄さん。 「クライマックスは姉貴がホテルに泊まってる主人公を訪ねる所?帰国前に姉貴を抱く所?売春の斡旋人をブチ殺して、ブツを切り取る所かな」 彼の声は愉快げに弾んでいた。躁に振り切れたテンション。手遅れ、なんだろうか。 まだわからない。 「兄さん」 「なんだよ」 「その小説に書いてあることが、本当だったらどうする?」 打鍵の音が止む。ベッドから腰を浮かし、兄さんの背後に静かに立ち尽くし、おそるおそる口を開く。 「主人公が頭のイカレた殺人鬼で、大好きな姉をぶっ壊した連中に復讐してたら」 兄さんの行方を施設に尋ねに行った時、真実を知った。林洋平、柿沼昴、曽我部龍太郎。 兄さんと同室だった三人が、金持ちの未亡人の世話になってるいけすかない弟くんに、ご丁寧に全部教えてくれたよ。 兄さんは気付いてたのか、全部加瀬が仕組んだ事だって。加瀬が林たちに兄さんをいじめるように仕向けた事、味方面して取り入って庇護と引き換えにオモチャにした事、全部兄さんを堕とす為の企みだったって、知ってたのかな。 アイツのせいで、アイツらのせいで、兄さんの性癖がねじまげられた。 「俺が殺した」 デビューしてすぐ林たちが会いに来た。目的は強請り。売れっ子作家の兄貴がゲイでドMの男娼なんてスキャンダル、マスコミがほうっておかない。口封じに一人頭ニ百万、六百万よこせと脅された。 俺のことはどうでもいい。六百万で兄さんの名誉が守れるなら安いものだ。許せなかったのは兄さんを馬鹿にしたこと、笑いながら影踏みの話をしたこと。 林が調子にのって、加瀬が横流しした兄さんの動画を見せびらかしたのが決定打だ。 どんな動画?……最低に猥褻なハメ撮りですよ、それ以外に説明いりますか。林が言ってました、加瀬のドラゴンと兄さんのチューベローズは同じ人が彫ったって。プロの仕事ですね。 ねえ記者さん、俺ホントは全部知ってたんですよ。8年ぶりの再会に驚いたふりしたけど、その前に会ってたんです。知ってたんです。 知ってたけど知らないふりで知りすぎないようにしていた。 知りすぎたら狂うから。 俺には金があった。叔母から相続した遺産と印税。ですから、ね、プロにお願いしたんです。尾行と身辺調査は興信所、殺しは殺し屋。世の中金さえ積めばなんでもやってもらえるんです、どんなエグい拷問もね。 信用できる業者にお願いしたんで、証拠隠滅は完璧でした。兄さんに皺寄せ行かないのを一番に重視しました。林たちはもともと素行が悪かったし、加瀬とマブダチってわけでもないから、三人そろって消えた所でばっくれたって思われるだけです。 俺さえ口を割らなきゃ、兄さんは安全だ。 どうせ一人殺すも二人殺すも同じです。三人も四人も大して変わらない。クズの始末を頼んでも心は痛まなかった。 俺は人殺しだから。 亮が特別に教えてくれた。 最初の犯行は17の時。叔母は事故死じゃなかった、アイツがやったんだ。長期休暇でたまたま帰ってた時に、階段から突き落とした。結果、打ち所が悪くて即死。ツイてないよな。明確な殺意があったかどうか…… 「兄さんの事で喧嘩になって、カッときた」 本腰入れて俺をさがそうとしない叔母にじれて、毎度の如くやりあって、しまいにキレた。 叔母の死には事件性がないと判断された。ぶっちゃけ自首しても大した罪にはならなかった、13の時からされてきた事を考えりゃ情状酌量だよ。 でもね。アレでうじうじ女々しい奴だから、内心ずっと気に病んでたんだ。自分が叔母さんを殺したって…… だから言ってやったんだ。「お前のせいじゃないよ」って。 あんたが何もしないならここを出て一人でさがすと言って反対されて叔母を突き飛ばしたのも、俺のハメ撮り動画にキレて林と柿沼と曽我部に殺し屋を差し向けたのも、全部巡り合わせが悪かっただけでお前はちっとも悪くないんだって慰めてやった。 そんなわけあるかよ。 全部お前が悪いんだよ。 亮は俺に、俺だけに謝ってた。叔母さんも林たちもどうでもいい、俺に申し訳ない、自分のせいで兄さんの人生めちゃくちゃだと泣いて詫びていた。 ……なあ記者さん、『チューベローズ』読んだんだよな。主人公の独白……アレ全部亮の写しだよ。聞いたままを書いたんだ。 書いてる途中で亮が泣きだして代筆どころじゃなくなったから、慰めてやった。アイツは俺に逆らえない。俺とのセックスに溺れて、引き返せない位おかしくなってた。 亮は服を脱がなかった。なんでだろうな、今さら恥ずかしがることもないのに。俺は全部見せてるのに……見られちまったのに。 亮のそばで亮がすらすら諳んじる文章を打ち込んで、どこまでいってもコイツにはかなわないって思い知らされた。 結局の所俺の小説は全部昔読んだ本の焼き直しで、亮みたいなオリジナリティーはなかったんだ。亮の小説には問答無用で読者を引きずり込む力があった。広く訴えたいメッセージがあった。 俺はただ、俺を見てほしかっただけ。作文上手だねって褒めてほしかっただけ。 それだけ。 兄さんに裏切られました。 記者さん……片桐景文をどうおもいましたか?何回も面会してるならいい加減気付きましたよね。あの人は被害者ぶるのが上手いけど、それは計算ずくなんです。 考えてもみてください。なんで兄は8年ぶりに弟に会うのに、パーカーとジーンズだったんでしょうか。 まあ、あの服で仕事に行ってたみたいだから考えすぎかもしれないけど……俺が仕立てたスーツは結局一回も着てくれなかったな。 最近考えるんです。 兄さんはひょっとして、自分がみすぼらしく見えるように計算してたんじゃないかって。同情を誘って金を引き出す為に。記者さんは8年ぶりに兄弟と会うのに、そんな恰好でいきますか? 募金した……本人がそういったんですか。じゃあ考えすぎかな。 俺が駅を通った時は募金なんかしてなかったけど、入れ違いになったんですかね。 俺が知ってる兄さん。SМ男娼デリヘル『チューベローズ』一番の売れっ子。鎖骨に花のタトゥー。乳首にリングピアス。小説家志望。一人暮らし。加瀬とデキてた。サイトの掲載写真は眼鏡オフ。 プロフィール曰く、嫌いなものはマドレーヌとパスタとキッシュ。好きなものは放置プレイと窒息プレイ。備考欄に「ひとりっ子」と追記あり。 あの人は息をするように嘘を吐く。 子どもの頃からそうだった。 ……叔母を殺したのは、ずっと前に言われた事を覚えてたからです。 『叔母さんは金持ちだから、叔母さんちの子になれば遊んで暮らせる。叔母さんが死んだらお前は大金持ちだ。その金でお兄ちゃんを助けてくれ』 叔母さえいなくなれば、遺産を好きに使って兄をさがせる。兄さんをさがしだして一緒に暮らせる。 だから俺は。 ……油断したのがいけなかった。 セックスを終えて眠りに落ちて、次に目が覚めたら兄さんはいなくなってた。スマホも消えてた。加瀬に連絡をとったと直感して、燃える血が逆流しました。 行き先はアパートしか思い付かない。慌てて追いかけた。なんで戻ったんだ、そんなに加瀬がいいのか、俺じゃだめなのかって胸の内で叫んだ。車から降り立ち階段を駆け上がり、施錠もされてないドアを開けた。 「兄さん!!」 夕闇迫る殺風景な部屋の中、布団の上。加瀬が兄さんに跨って首を絞めてた。兄さんは苦しみもがいて、 「っ、ぐ」 さよならするように、手の指を第二関節まで曲げて。 靴のまま上がり込んで、テーブル上のノートパソコンを掴んで、加瀬を殴打した。一撃で手ごたえがあった。加瀬は前方に突っ伏し、兄さんは間一髪息を吹き返す。 「生きてた……」 激しく咳き込む兄さんの背中をさすり、落ち着くのを待って加瀬を見る。既に事切れていた。 俺が殺したんです、記者さん。一人殺したら何人でも一緒だから…… 可哀想に、片桐亮はマスコミの食い物にされた。 こっちはいい迷惑だよ。住んでた部屋を殺人現場にされ、挙句愛用のパソコンを凶器に使われて。 証拠物件として警察に押収されちゃあもうもどってこないよな。どのみち壊れてるか。 何か言いたそうだな記者さん。事件の顛末に納得してないのか? しかたない、あんたとの付き合いもこれで最後だ。取材も今日で最終回、疑問に答えてやるよ。 まずはおさらい。容疑者は小説家の片桐亮、被害者は半グレ……もとい無職の加瀬明。事件発生日は11月10日未明。さらに亮には余罪がある、逮捕後に叔母殺しと林・柿沼・曽我部の委託殺人を自供したんだ。 亮は主犯、俺は従犯。死体遺棄を手伝っただけじゃ大した罪に問われない。亮の車で死体とスコップを運んで、奥多摩の林に埋めただけ。 ベストセラー作家が犯人の猟奇殺人なんて話題性抜群だろ、世間様がほうっておかない。片桐亮は今じゃ一種のカリスマ、悲劇のヒーローだ。 生まれ付いての天才。幼くして両親と死別。叔母の養子となるも13から17まで性的虐待をうけ続けた。 みんな大好きだろ、不幸で可哀想な過去持ちのシリアルキラー。おまけに顔がよいときた。 世間の連中……特に女は同情的だ。兄貴の復讐を代行するなんてあっぱれだって、ネットじゃ絶賛されてるらしいな。 亮が事件の直前に書き上げて出版社に送った小説は『チューベローズ』のタイトルで無事世にでた。 それでめでたしめでたしじゃだめなのか。これ以上何を知りたいんだ。 ……矛盾してる? 俺が危ない時にのんびり続きを書くわけない?それ以前に、右手を怪我してたのに書けるわけないって?そうだな、もし完結したならそういったはずだな。 なんでアパートのドアが開いてたのか? 先輩が殴り込んでくる予想をしてたのに、鍵をかけなかったのか? バールのようなものでこじ開けられたっていうのはどうだ。そんな痕跡ない?冗談だって、言ってみただけ。 なるほど、記者さんはわざと開けっ放しにしてたって思ってるんだ。 じゃないと亮が入ってきて、都合よくヤッてる所を目撃できないもんな。 おいおい、俺が先輩を唆したってのか?さすがに勘繰りすぎだ。プロフィール……ああ、窒息プレイの事ね。俺が頼んだとでも? ていうか……俺の方から呼び出したって、マジでそこまで考えてる? 証拠がなけりゃただの妄想だ。スマホは見付かってない。 あんたは多分こう考えてるんだろうな、主犯と従犯が逆じゃないかって。兄貴が全部仕組んで、弟ははめられただけじゃないかって。 全部結果論でしかない。 百歩譲って俺が焚き付けたんだとしても、アイツがパソコンで先輩の頭をかち割るのは想定外だ。 そうだろ?ちがうか?それとも本当は逆で、嫉妬で理性が飛んだ亮が先輩と揉み合ってる隙に……。 ……あ。 あー……盲点だった。手に怪我した亮がパソコン持ち上げるのはホネだよな。 仮に持ち上げるだけなら可能でも致命傷は与えられない。 亮はなんて?脳内麻薬で痛みが麻痺した?……はは。一人殺すも二人殺すも同じ、四人も五人も大して変わらないってか。 五人殺したら、死刑確定だよな。 四人でも同じか。 最初の質問覚えてるか?俺が房で読んでるのは『チューベローズ』、片桐亮が作家生活に終止符を打った本。 記者さんは疑ってるんだね、本当に亮が書いたのか。 亮がまだ寝てるうちに、俺が結末まで持ってったんじゃないかって。 『チューベローズ』のラストで衝撃の事実が判明する。斡旋人を殺したのは実は姉貴で、主人公は真犯人を庇って死刑を求刑される。 どうなるもこうなるもここで終わりだ。俺は天才じゃないから、バッドエンドなんだ。 片桐靖奈。林洋平。柿沼昴。曽我部龍太郎。加瀬明。 以上五名、俺が殺しました。兄さんは嘘吐きです。あの人の偽証を真に受けないでください。 何年も何年も酷いことされ続けて、壊れちゃったんです。 加瀬の性器を切除したのも俺です。『チューベローズ』の主人公にならったんです。 あんな汚いモノが好きな人に出たり入ったりしてたなんて、許せないじゃないか。 記者さんは想像力逞しいですね、景文を庇ったなんて本気で思ってるんですか。 俺が殺人を委託した業者にも裏がとれたでしょ?叔母の家から加瀬の性器が押収されたでしょ? ほら、証拠はそろってる。 やったのは俺です。 俺はいいんです、夢が叶ったから。もういちど兄さんに会うためだけに生きてきたから。 叔母を殺したのは兄さんが帰ってこれる場所を作りたかったから。 でもそれ、縛り付けるのと同じですよね。 あんなに憎んでたのに、俺は叔母のやり方でしか好きな人を愛せない人間に成り下がってたんです。 独房にひとりになると考えちゃうんです。 俺が家を捨てて、どこか遠い場所で兄さんと暮らしたいって言ったらOKもらえたのかなって。 なんで呼ぼうとしたのかな。閉じ込めようとしたのかな。俺は兄さんと逃げる覚悟がなくて、だから兄さんはどん底まで転がり落ちて、バッドエンドしか書けなくなっちゃったんだ。 本当はハッピーエンドが書ける人なのに。 ……違います。違いました。兄さんはまだ書けるんです、生きてる限り続くんです。 刑務所をでたら、きっと傑作が書けます。俺は信じてる。 唯一にして最大の後悔がそれですよ、兄さんの新作を読まずに死ぬこと。 俺の死刑が何年後何か月後になるかわからないけど、兄さんにはなるべく早く出所して、今度こそハッピーエンドを書いてもらわなきゃいけない。 俺、片桐景文のファンなんです。 ただ一人の。 ……記者さんにお願いです。あなたが気付いた事、どうか警察には言わないでください。記事にもしないで。 取材を受けといて勝手なお願いなのは重々承知です。それが無理だっていうなら、兄が小説を書き上げるまで待ってください。 そっちの方が衝撃度が上がって売れるでしょ?悪い取引じゃないはずです。 ……仕方ない。特別ですよ。 色んな記者さんが取材を申し込んできたけど、これを見せるのはあなたが最初で最後です。 兄が……景文が言ってませんでした?俺はセックスの時、絶対脱がないって。内緒で彫ったんですよ、おそろいの場所に。 チューベローズ。

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