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46.そういうのじゃない

 つい数時間前にそんな事があったもんだから、遙の背中に触れる時、変な緊張感があった。出来るだけ気にしないようにしながら、集中集中と心の中で唱えてそっと指を置く。  ここの所、遙は苦しそうにしてる事がなくなったし、オレも抑え付けるって意思をあまりしなくて良くなった。喋りながらだったり、急に照れ臭くなっての「お前難しい顔ばっかしてっから、凝ってんじゃねえの」なんて言って押してみたりして、これ何の時間だっけな? って、一瞬忘れそうになる日もあるくらいだった。 「っく……ぅぁ……」  なのに今日に限って、初めて数分も経たない内に目の前の人は背中を丸め、ベッドに顔を埋めて、くぐもった声を吐き出していた。  シーツを握る指の白さが痛々しくて、耐えるように飲み込む息遣いは不安になる。無理に集中しようとしなくたって、何とかしてやらなきゃって気持ちが掌にこもった。 「はっ……ぅ……っ!」  一際大きく体が跳ねた勢いで手が離れる。まずい。慌てて触れ直そうとすると、その直前で遙が身を捩り掌は空を切った。もう一度、と伸ばした腕も掴んで止められる。 「な、何? どした?」 「何か、ちょっと……あの、一度……待…………っ」  オレの手首を掴んでいた遙の手が、不意に離れる。ひぅっ、と小さく鳴いて体を竦める姿に焦りを感じた。 「いや、待てじゃないだろ何やってんだよ」 「大丈夫、だからっ……その……兎に角、今はっ」 「おい、じっとしてろ!」  なのに、こっちの心配を他所に遙は逃げ回る。捕まえた、って思ったところをよろめきながらも器用に避けらる。オレは完全に意地になった。 「一人で何とかしようと、すんなって──」  右腕をするりと抜けた体に向かって、進路を断つように左手を伸ばす。それを避けられる事は想定済みで、本当の目的は後退した先にある壁だ。 「言ってんだよ!」  遙の顔の横を抜けた掌がタンッと壁を打ち、終わりの合図を鳴らす。逃げられないようにもう片方の手を添えた時、待て待て! と慌てた様子で静止の声が上がった。 「ほんとうに、少し、待ってくれ……。然程痛くは、ないのだが……っ、内側が……爆ぜる、ような……」  珍しい。遙がぜぇはぁ言ってる。  そんな姿で頼まれたら、無理にでもどうこうしようっていう気は流石に失せた。半信半疑のまま追及は我慢したが、ふと、今の体制が引っかかった。  これ、もしかして壁ド……。  違う。絶っ対違う。タンッ、だったから。そっちじゃねぇし。ガバッてした体制になってるけど、勢いでそうなっただけだし。あと、ほら。殆ど背変わんねぇから、見下ろし気味なのが新鮮だなって。本当それだけだって。  でも、両腕の間に閉じ込めているその人の、耳まで赤くなった顔がすごく気になる。  前髪からちらっと覗いてる眉が、頼りない感じで下がってる。耐えるみたいに目を閉じたら、長い睫毛がうっすら濡れた。両手で覆った口から吐息を溢して震えてるのが、弱くてちっちゃい生き物みたいで、なんか、もう──。  ぶわっ。と、熱風が体を駆け抜けた。  一気に頭に上った血液がダクダクと流れ落ち、指と足の先まで火照らせて行く。その熱さを自覚して、また心臓が跳ねた。  ヤバい。何か分かんないけどヤバい。っていうか、まずいだろ。でも、まずいって何が? 体制とか、オレとか、合ってんのこれ?  訳分かんねぇ疑問がぐるぐる回って、何でなのか遙の方を見ていられなくなる。  なぁこれセーフ? どこまでいったらアウト? いや何基準のセーフとアウトだよ。混乱したまま脳内で壁と対話してたら、とんっ、っと何かが腕に軽くぶつかる感触がした。 「昴。」  弱く名前を呼ぶ声がよく知った人のもので、あぁ当たったのは遙の頭かと、ぼやけた思考に浮かぶ。ついうっかり寄越してしまった自分の視線が、潤んだ上目遣いの黒とかち合った。 「もぅ、だいじょぶ……。」  掠れた呟きと一緒にそっと服を握られた瞬間、頭と心臓が爆破した。 「んっ」  力一杯引き寄られた遙から少し苦しそうな声が溢れたけど、大丈夫もごめんも言う余裕がない。むしろ肩を掴む指に一層力がこもった。  腕を背中に回さなかったのが理性からなのか、そういう感情じゃなかったからなのか。頭に手を添えなかったのが恥ずかしいからなのか、必要がなかったからなのか、もう分からない。  ただ、今までとは絶対に違う、誰にも思った事のない感情で「早く治ってくれ」とひたすら思い続けていた。

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