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49.水底から仰ぐ終着点

◇◆◇  水を吹くんだ布が肌に張り付く。  血液と肉片と泥と土埃の代わりに持ち帰った淀みが、水中に溶けて行った。  しかし、拭えない倦怠感が浄化の不足を訴えている。予定を詰め込み過ぎただろうか──。  現在の居住地区から北上した土地に、あの人達は眠っている。  借り物の姓と同じ綴りが刻まれた墓碑の前で目を閉じる。子を持たぬ人達で、同年代も皆旅立っていたけれど、干涸らびた草花や古い添え物の残らない一区画は、生前の人柄を表すようで嬉しかった。  明日やって来る花々の事を考え、小振りな一束だけを置いて立ち去る。今日は寄りたい所もあった。  道すがら視界の隅に映った、湖の名を掲げた標識。ある、という以上の意味を持たなかった場所へ彼が提案してくれた「いつか」が加わると、特別の予感が漂った。  皆で旅行に行ってみたいと言っていた友人の希望も、叶えられるかも知れない。果たして、ボートはあるだろうか?  緋に炙られた鉄紺の空が地上へ流れ落ちて行く中、数十キロばかりの寄り道をした。  黒。人では夜目が利かぬ闇。  人類の発展が目覚ましい昨今において、灯り一つない場所は減りつつあるが、文明の力を以てしても制する事の出来ない暗闇が時折、特定の場所に訪れる。  ケラケラと、あるいはギチギチと。不快な呻めきが木霊する。それらを全て鎮めれば、月と星とが帰還を祝ってくれた。  寝起きする場所などここでも構わないのだが、どこ泊まんの? と何気なく尋ねた彼を安心させる為に手配した宿泊施設へ向かう。  ここには一泊だけして、後は知人の所へ。  初めからそうするつもりだったかのように答えた後ろめたさが追いつく前にと、宵闇を駆け抜けた。  これまで御尽力いただきありがとうございました。  柔和な笑みと共に向けられた別れの挨拶は、この身の糧とならなかった。  土地の守り主と自然とが張り巡らせた加護は、今や全て人工物に取って代わられた。それでも無事でいられる地も増えたが、ここは違う。あちらこちらが、ひっそりと崩れ始めている。  守護者が力を取り戻すまではと、藁をも掴みたかった過ぎし日の者達へいたずらに手を差し伸べた結果、他者が付け入る隙を与え、こうなるまでに諭せなかったこの身の罪は、決して軽くはない。  どうしてあの時無理にでも止めてくれなかったのか、と。恨み言であっても聞ける機会は訪れるだろうか。  真上よりも僅かに低い位置にあるであろう太陽をどっぷりと覆った雲と湿ったにおいが、その期待への解に思えて仕方がなかった。  貝と魚と珊瑚の装飾が美しい門扉。料理人に扮した甲殻類の看板。半分は魚で半分は人間の女性の像が、豊かな髪を靡かせる。感謝と親しみを込め、陸の至る所に再現された生き物達の多くは、海中に攫われた。  物資の行き渡らない人々や気力を失ってしまった者へ、幾度か姿を変えて配給の食糧を届ける。故郷を離れる痛みを伴ったとしても、逃がし、生かす事を優先させた。  友人達と居る時に食事を拒否してしまっては、彼等と同じく不自由なく暮らせている人々への皮肉になりかねないが、今日だけは別だ。何も口にせずとも、訪れた先の人々が向けてくれた感謝がこの身を潤す。  靴と衣服の泥を土に返して次の場所へと向かおうとした矢先、どうっ、と崩落の衝撃が空気を震わせた。  青に次いで皆が愛した暖色に染まる波の音が、その残響を穏やかに飲み込んで行く。  必死に腕を伸ばしていた所為か、胴と足に空いた穴から血に見立てた物を流すのを忘れていた。  事態に気付いた者達の時が止まった一瞬後、未知の外敵に対する恐れと混乱は、逃げ惑う気配と共に辺り一帯に広がった。  遅れて滲む赤を見て力の衰えが過ったけれど、この騒動が数刻の休戦に繋がった事の方が今は重要だ。容赦のない日差しは、撃った者も撃たれた者も問わず、双方が盾となり守っている幼き者達を弱らせている。頭上のものが最も過酷な位置に来る前に、水だけでも届けてやらねば。  疑われる者にも、疑う者にも、等しく安らかな夜を。  それしか与えられなかった。  地平線から登る一瞥に急かされた時計塔が、間も無く夢の終わりを告げる。  走れ、救え、満たせ、叶えよ。  望まれるままに向かっていた終着点は、初めから辿り着けない場所にあった。 ◇◆◇

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