1 / 3

第1話

ブラック企業に勤めている鈴木一郎は限界だった。 というわけで、横領して逃亡した。 「ざけんなワレッ、いてもうたるどッ!!」 彼の最大の不幸は鉄砲玉とおなじエレベーターに乗り合わせたことだろう。 鈴木一郎はその名が象徴するとおり平々凡々な人生を送ってきた。 父親は会社員、母親は専業主婦。 長男だから一郎という、由来を知って脱力した安直なネーミング。 日本人の代表的姓鈴木と、推敲の手間を放棄してわかりやすさに特化した名前の組み合わせをネタに子供の頃からさんざんからかわれ、ややもすると優柔不断で自己主張ができない性格になってしまったが、普通すぎてむしろ個性的な名前の他は容姿・頭脳、全てにおいて可も不可もない中庸路線を極めている。 けっして裕福ではないまでも安定した収入のある中流家庭に生まれ育ち、地元の小中校を経てそこそこの高校からまあまあの大学へ進み、世間様に恥じる程の欠点もない代わり自慢できる点も見当たらぬパッとしない人生を歩んできた彼の悩み事といえば、履歴書だ。 履歴書の賞罰、趣味特技備考欄は書くことに困る。 読書感想文で表彰されたことも学校中の窓ガラスを叩き割って停学くらったこともない。 理由なき反抗や青春の勲章とは無縁に、ばっさり切ってしまえば安全第一のつまらない生き方をしてきたせいで、履歴書が非常にそっけない仕上がりになってしまうのが常に悩みのタネだ。 今の会社に提出する際も余白が眩しい用紙と睨み合い、さすがにこれじゃまずかろうと一時間ばかり悩んだすえにボールペンを舐め、趣味の欄に「人間観察」と付け足した。 履歴書の余白を埋めたい一心で人間観察を趣味にこじつけた一郎の目から見ても、おなじエレベーターに乗り合わせた男が堅気じゃないことはよくわかる。 「おうなんじゃないそのツラは、お口チャックでだんまりか。おどれは塗り壁か?そうやってぬぼっと突っ立ってガン利かせて、タッパだけで勝うたつもりか?」 むしろ一方的にガンつけてるのではと、突っ込みたいのをぐっとこらえる。 黒地に絢爛な金糸で虎を刺繍した今時はそれはどうだろうという派手派手しい革ジャン、逆立てた髪は日本人にはありえない金色、黄色いサングラスごしの双眸は気性の激しさを映して険悪に吊りあがる。 チンピラだ。 チンピラは大層怒っている。 原因は― 「……シカトかい。関西人とは話もできんちゅうんか。どうあっても通さん言うんなら……」 続く展開を予期し、ひっと耳を塞ぐ。 「力ずくでぶち破ったるわ!」 厚い靴底が扉にぶちあたる。 どう見ても堅気ではない。 そもそもエレベーターの扉に喧嘩を売ってる時点でまともな人間の範疇から外れる。 があん、があん。 間延びした轟音が棺を縦にしたような直方体の空間にけたたましく反響する。 靴底で激しく扉を蹴り穿ち、訛りまくりの関西弁でがなりたてる。 「エレベーターの分際で勝手にとまりよってボケカスが、お客さまを目的地まですみやかにお連れするんが仕事ちゃうんかい、それを何やチ―ンも言わずだんまりかい!?阿呆くさ、こんなムダな時間食いよるんやったら階段使うんやったわ、そっちのが確実やんけ!エレベーターならぴんぽんぱーんであっちゅうまにイける思て乗り込んだんが間違いやった、詐欺ちゃうかこれ」 ごつい靴でたてつづけに蹴りつける。 厚い靴底が扉の表面と激突、轟音と振動が狭い空間に響く。 そのつど一郎は首を竦め、懐の鞄を抱く。 「おどれがそのつもりなら考えあるでぇ、死んだ旦那に操を立てる未亡人の如くぴっちり閉じた股ぐら力づくで開けたるわい、言うとくけど容赦せえへんぞ、俺の太いのでおどれの秘密の扉を奥の奥までこじ開けて全てを暴いたる、淑女ぶってもあかんで、おどれが誰彼かまわず股おっぴらく淫乱てとうにネタ割れとんじゃい……」 ぜぃぜぃ息を切らしつつチンピラがドアを蹴るたび縦揺れが襲い、三半規管がぐわんぐわん攪拌される。 なんで俺がこんな目に。 人生が懸かってる大事な時に。 若者は完全にまわりが見えなくなってる。 サングラスに隠れた顔の造作は不明だが、がんがん狂ったようにドアを蹴りつける剣幕からは鉄火肌の気質が窺える。 おそらく、非常にキレやすい性格なのだろう。 このままじゃドアを破壊しかねない。 「フィストキックじゃあ!!」 「あ、あの、あのなーきみ」 刺激せぬようびくつきつつ、棒読みで呼びかける。 関わりたくないのが心の底からの本音だが、1メートルと離れてないのではそうもいくまい。このまま暴れられたら警備員が来てしまう。 トラブルに巻き込まれ時間をくうのは避けたい。一郎は今、罪を犯して逃亡中なのだから。 「……悪いけど、静かにしてくれないか。人様の迷惑だ」 「人て、具体的に」 「え」 「エレベーターは宙ぶらりん。ドアは開かん。騒音に迷惑する他人がどこにおる」 わざとらしく手庇を作り見回すチンピラに対し、小首を傾げ自信なさげに答える。 「俺?とか……」 「疑問形かい」 体ごと向き直ってサングラスをちょいとずらす。 レンズのむこうから覗く目は酷薄の一言に尽きる。 「うるさいか、俺は。ジャマか?」 「エレベーターが故障した時はじっとしてたほうがいいぞ……このビル電気系統がいかれてるみたいでさ、時々止まるんだ。五分くらいで直るけど」 「前にもあったんかい」 こくこく首を振る。 急激に殺気が萎み、怪訝そうな表情が取って代わる。 「―ちゅーか、あんさん、いつからおった」 「最初からいたけど……」 「何階から乗った」 答えようとして、口を噤む。 「なんや?言えへんのか?」 このがさつな若者が、あのブラック会社と関係あるはずないとおもいたいが…… 悶々と打算が渦巻く。 悶々と疑心が苛む。 早くも胃が痛くなってきた。 鈴木一郎は真面目で保守的でツマらない男だ。周囲にさんざんそう言われてきたし、自分でもそう思う。 よくいえば無難、悪くいえば凡庸。 大学生の頃までは自分はきっとそこそこの会社に就職し、そこそこの人と結婚してそこそそこの家庭を築くんだろうなあと将来設計ともつかぬ漠然さで想像していた。 そして当時、一郎が漠然と思い描いた「将来起こり得るかもしれないもしもリスト」のどこにも、「他人とエレベーターに閉じ込められ取り残される」というドラマティックな項目はなかった。 暇潰しに作成した「もしもリスト」で一番意外性ある項目は「お年玉付き年賀状で一万円あたる」。せめて十万円ぐらいは夢を見ればいいのに、せこい。 嵐が凪ぐ。 暴れ続けて体力を消耗したのか単純に飽きたのか、最後に一蹴り見舞うや一郎へと興味を移す。 「あんさん、このビルの人間か」 まずい。 大股で引き返してくるや正面にどっかと胡坐をかく。 「ものごっつ痺れたわ。あいつ強情じゃ」 「はあ……」 「蹴っても殴ってもよう反応せん。不感症じゃ」 淫乱よばわりの次は不感症か。どっちだ。 「お互い災難やな、こんなエレベーターに乗ってもうたばっかりに」 「まさか止まるなんて」 「セイテンノヘキレキ」 「むずかしい言葉知ってるじゃないか」 「泣かすぞ、ワレ。ガキかて知っとるわいヘキレキぐらい、常識じゃ。関西人がエレキしか知らん思たら大違いやぞ」 感心する一郎にガンをつける。修羅場をくぐった目つきの迫力に、おもわず懐のバッグを抱き直す。 ドアを蹴っても足を痛めるだけと遅ればせながら悟ったか、無反応の相手につっかかるのに飽きたか。 チンピラは隅っこで怯える一郎にロックオンし、ぶっきらぼうに話をふる。 「いつ動く」 「さあ……なるべく早いといいけど。わからないな」 「しゃあない、待つか」 「すぐ再開するさ。エレベーターがこなかったら待ってる人が騒ぐだろうし……」 希望的観測を口にし、四角い天井を仰ぐ。 一郎の視線を追って天井を仰ぎ、名前も知らない若者が嘆く。 「ボロいビルさかいガタきとんのか」 「テナント料もすごく安い。四階と七階は空きだし……電気も点いたり消えたりで、口が悪い近所の人は幽霊ビルって呼んでる」 「やっぱこのビルのもんか」 やってしまった。 動揺を見抜き、してやったりとほくそえむ。 「水臭いで、隠す事あらへん。俺もここに用があるんや」 「関西人……大阪?」 「ただ待っとんのも暇さかい、おしゃべりしよか」 フレームに指をひっかけサングラスを前傾、一郎を見る。 「青は競歩で黄色は走る、赤は猛ダッシュ」 「は?」 「さてなんや」 若者の目が挑戦的に光る。一郎は考え、おそるおそる告げる。 「信号、か?」 「ピンポン。冴えとんで、あんさん。大阪の人間はせかせか歩く。皆で渡れば怖くない、もとい、おどれ負けるかワイ先じゃ。ほなヨーイドン、チキンレースのはじまりや。東京もんはお上品やな、青に変わるまでちゃんと待っとる。ツンとすましてヤなかんじ」 「それがマナーだ」 「マナーがなんぼのマネーになるっちゅうねん、信号ちかちかはいざ勝負の合図やろ、血が滾らんかい?」 「パドック入りした競走馬じゃなし……関西人こそ血の気が多すぎだ」 「東京入りしてびっくらこいたわ、ドア開いてひと降りるまで電車乗らんと待っとんのな。大阪はおしくらまんじゅうやで」 「やっぱり大阪か」 「格好見てわからんかい」 若者が笑い、身をよじってジャンパーの背中を示す。 一郎は素直に頷く。 「ファッションがけばけばしいからそうじゃないかとおもった」 「ちゃうわアホ。虎や。虎といえばなんや?―阪神じゃ」 気分を害し、背中の虎を叩いてアピールする。注目点はそこか。 とりあえず無難な感想を口にする。 「………かっこいい革ジャンだな」 「せやろ?アメリカ村で買うたんや」 誇らしげに胸を張る。次の瞬間、声が凄味を含む。 「……で、どの球団贔屓じゃ」 巨人だと答えたら利発小坊主の逸話よろしく、実体伴って具現した背中の虎に噛み殺されそうな雰囲気。 というか、「阪神以外の球団あげたらどたまいてもうたるど」と顔にでかでか書いてある。 「野球は興味なくて……」 曖昧に言葉を濁し、俯く。 「はあ?」と素っ頓狂な声をだし、ぎょろ目をひん剥く。 「日本人に生まれて野球に興味ないてつまらんやっちゃのう」 余計なお世話だ。 どうせつまらない人間だ。 己を卑下し落ち込む一郎をよそに、若者はドアを睨んで呟く。 「バースがおったら一撃で吹っ飛ばしてくれるんやけど」 「ぶつかったら危ない。というか君バースの現役知らないだろ、まだ生まれてもないよ」 「ほならあんさんは知っとんのか?」 「知らないけど……」 「バースの破壊力ナマで見たことないくせにほざくなや」 「待て、いつバースを侮辱した?」 「バースの棍棒じゃドアのおかちめんこぶち破れん言うたやんけ、今」 「エレベーターの中で長くて固いものをぶん回すのは感心しないって言ったんだ」 「せやけど今ここにバースの使たバッドがあったら振るやろ?ファン心理として」 「振らない。人巻き込んで怪我させたら大変だ、気持ちはわかるけどエレベーターでぶん回すなんて非常識な自殺行為」 「かあっ!!」 痰を吐く真似をし、次第に熱くなりつつある一郎の主張を遮る。 「もしもの話しとんのに安全面の是非論じられても困るがな。そもそもドア開かん前提なのに、どないして屋上でて素振りするんや?」 「あ」 盲点だった。 「バッドでぶち破らんでも開けば苦労せんわ」 あほくさと片手をひらつかせる。 「これさかい頭でっかちはつきあいきれん。せやけど妙にバースに詳しいな」 「俺はよく知らないけど親父がファンで……」 「先言いや」 一転、砕顔。 どうやら親が阪神ファンなら子もファンという刷り込みがなされてる模様だ。 一郎の父親はあくまでバースファンであって阪神という球団自体のファンではないのだが、延命措置としてとぼけつづける。 関西人のタイガース信仰はやっぱり異常だ。 こっそり胸なでおろす一郎だが、一方で若者の感情の起伏の激しさ、躁鬱の振れ幅の大きさを危ぶむ。 こいつは危険だ、近寄らないほうがいい。 今、自分がなすべきことに優先順位をつける。 まず真っ先にすべきはバッグの死守。 さりげなくバッグを庇いつつ、すこぶる上機嫌な若者を観察する。 一郎もまた阪神ファンと思い込み、「今年の阪神は絶対優勝すんでなんたって監督が真弓や今までとは一味ちゃう」と熱弁する顔は生き生き輝いて屈託ない。 関西人と仲良くなりたきゃ阪神をほめたたえ巨人はクズと罵れという関西出身の友人のアドバイスに当時は笑ったが、あながち冗談でもなかったのかと思い直す。 楽しそうな若者と反比例し、一郎の表情は強張っていく。 なまかじりの野球知識しか持たぬ故、おもに「そうか」「そうだね」「そのとおり」の三段活用に頼りきり、当たり障りない半笑いで場を濁す一郎に対し、若者が目を細める。 「時間は大丈夫か」 「え?」 「そのなり、会社員やろ。仕事とか、はよでんと困るんちゃうか」 スーツ姿の一郎を値踏みする目が険を含む。 「あ?え、違う、もう帰りだから。どうせこのあと仕事ないし、だから俺はいいんだけどさ」 慌てて首を振り釈明する。若者はツイと指を上げる。 「さっきから気になっとんのやけど、そのバッグ」 一瞬、思考が停止する。 「パンパンやな。なに入っとるんや」 咄嗟に嘘をつく。 「……下着とか……靴下とか……着替えとか歯磨きとか、お泊りセット一式」 「会社に寝泊りかい?大変やな、社会人も」 「まあ、な、らくじゃないさ。不況だ派遣切りだで人件費削減したぶん一人あたりの仕事量は増えてるから、徹夜で残業しなきゃ納期に間に合わないのさ。やっと仕事が終わって、さあ思う存分寝だめするぞってエレベーターに乗ったんだけど……はは、調子くるうよ全く」 「ドライアイには気ぃつけや」 ぎりぎりセーフ。なんとかごまかしとおせた。 一郎の言葉を疑うことなく同情する。 沈黙。五分経過。 「……まだかいな」 「まだだ」 「とうに五分たったで。五分たったら動きだすんちゃうんか」 「あくまで目安だからきっかりってわけには……なにかトラブってるのかもしれない」 行儀悪く片膝立て、人さし指で床を叩いてリズムをとる。 かつかつかつ。かっかっかっ……かかっ。 ピックで調弦するギタリストの如く床を爪弾き、胡乱な半眼で命じる。 「おもろい話せえ」 思わず聞き返す。 「俺が?」 「あんさん以外にだれがおる」 「え……いや、俺の話ツマんないから」 「んなのしてみなわからんやろが、やるまえから弱気んなるな。うじうじおどおどけったくそ悪い男やのー。暇つぶしになりゃええんや、こっちは。吉本のプロ芸人やなし、山あり谷ありオチありの三拍子なんぞ求めてへんわ」 一郎はがちがちに緊張する。若者はどんどん不機嫌になっていく。 イライラと危険な雰囲気。 若者はじっとしてるのがねっから苦手な性分らしい。 口を閉ざしてられるのは五秒が限界と来た。 不興を買って殴り倒されても困る。 「……あんまり期待しないでくれよ」 若者が「おう」と請け合う。軽く咳払いし、口を開く。 「こないだコンビニ行ったんだ」 「ほんで」 「煙草と週刊誌買って来いって言われて……俺、会社で一番年が若くて日が浅いから、上司や先輩にあちこちパシらされるんだ。で、この先にあるコンビニにとんでった。昼食のサンドイッチと一緒に言われたもの買って、店をぶらり一周してからでようとおもったんだけど、レジで会計中思いがけない事がおきた」 スーツのポケットから一枚の紙片を引っ張り出し、丁寧に皺を伸ばす。 若者の鼻先にかざす。 「合計777円」 「………で?」 「すごくね?777円。ゾロ目。キリ番だよ。パチンコだったらラッキーセブン大当たり。奇跡だ。ご利益あっかなーと思ってさ、記念に持ってきた」 「オチはどこや?」 「レシート7並び……」 「おどれだけがおもろい話か!!」 キレた。 「だから面白くないて言ったじゃないか」 「ヤマなしオチなしイミなしでも許す、素人ならしゃあない、せやけどおどれは客を喜ばそういう肝心のサービス精神がまるきり欠けとる、笑いなめとんのかい!?なんやその棒読み、なんやそのアクションの少なさ、間のとり方まだるっこしいわ、もちっと緩急テンポよく引っ張るとこは引っ張ってオチならオチで強調せんかい!あかん全然ダメやなんば花月から出直してこい、吉本入りなんぞ十年早いわ、第一オチ弱すぎじゃ!!」 「ヤマなしオチなしイミなしでも許すって言ったじゃないか!?俺吉本入んねーし」 「じゃかましボケ、口答えすな!ヤマのない話に山場を作る、オチのないネタにオチつける、それが芸人魂ちゅうもんや!ヤマもオチもなかったらこじつけい、そんくらいちと考えりゃわかるやろ、俺はテキトーに茶ぁ濁して守りに入る芸人が大嫌いなんじゃ!!」 「あっ、返せ!」 隙を突いてレシートをひったくり、ためつすがめつ嘲笑う。 「皺くちゃで汚いのう。どれ、日付……一週間も前やん。一週間も前に貰たレシート後生大事にとっとんのかい、みみっちいのー」 「ほっといてくれ、くじ運からっきしの俺にとっちゃゾロ目レシートはお年玉付き年賀状なみの価値があるんだ!」 レシートをぴんと弾いて豪快に笑う若者に食ってかかる。 売り言葉に買い言葉、若者への恐れや怯えを馬鹿にされた憤りが上回って自制をなくし、レシートを取り上げてくるくる回すその腕を強く掴む。 「しっかしわからん。パチンコやルーレットならわかるけどレシートで7がならんでそこまで幸せになれるなんて、どんだけ福と縁の薄い人生おくってきたんや?おどれの懐に金が入るわけでもないのに、けったいなやっちゃ」 「夢とかロマンとか!そういう概念聞いたことないか!?」 「夢とロマンで腹ふくれるか、こんなシケたレシート一枚に幸せみいだすくらいなら風俗行くわ。ええで大阪の子は、東京と違て愛想が売りでみな可愛い。東京の風俗嬢はお高くとまって好かん、まあそのお高くとまった口に俺のバッドしゃぶらすんも一興……」 「「っ!?」」 ゴトン、なにか固いものが落下する。 視界がぐらついた次の瞬間、縺れ合ってすっ転ぶ。 「バッグ―……!」 慌てて見回す。あった、すぐそこだ。 揉み合いの最中、片手で抱いてたのを落としてしまった。 素早く這いよるもバッグのそばに落ちた黒い鉄の塊に気付き、血の気が引く。 拳銃。 「………見たな」 地の底から沸くような、声。 「見よったな」 革ジャンの内側に隠していた拳銃を目撃され、迅速に跳ね起きるやサングラスを取り払う。 どうしてこんなところに拳銃が。 どうして拳銃なんか持ってる。 脳裏で膨らむ疑問の嵐。心拍数が急上昇し喉が渇く。 落ち着け鈴木一郎、ひとまずバッグの確保を最優先―…… 「させるか!」 足を払われ体ごと視界が旋回、天井が映る、暗くなる、したたかぶつけた肘と背中が痛む。 「違う、バッグ拾おうとしただけ―」 なんて不運なんだ俺は、エレベーターで狂犬とでくわすなんて。 弁解もろくにさせてもらえず力づくで組み伏せられる、床に後頭部が激突し鈍器で殴られたかと思うほどの激痛が響く、打撲の痛みに呻く一方手探りでバッグを追い求める。 あった! 手がバッグに届く、掴む、引き戻す。 「おどれの心配よりバッグの心配とは余裕やな」 苛立たしげに払われた手がジッパーをひきさげる。ばさばさ、大量の紙束がなだれおちる音。 ……―チェックメイト。 「………なんじゃ、これ」 若者の目が床一面にぶち撒かれた紙幣に吸い寄せられる。 「札束……モノホンの?」 札束の海に仰向け、計画の頓挫を悟った一郎はきつく目をつぶる。 転瞬、若者が動く。 胸元にぶらつくチェーンネックレスを毟りとるや、一郎を邪険に蹴り転がしうしろを向かせ、手首をまとめて縛り上げる。 「何するんだ!?」 「だまっとれ」 うつ伏せの姿勢でばたつく一郎を無視し、紙幣をバッグに突っ込んでいく。 「おい、それは俺の金」 片膝ついた若者が、床に転がった一郎の額に銃をつきつける。 「まともな出所の金ちゃうやろ」 喧嘩は幼稚園の頃以来の一郎がかなうわけない。 若者はバッグに金を回収し、銃を引っ込め、ドアの方へと慎重にさがる。死と直結した銃口の圧力が取り除かれ、全身が弛緩する。 「わけ、聞かせてもらおか。レシート小噺よか愉しめそうや」 バッグは若者の手に渡った。 失敗した。ドジ踏んだ。 階段を使えばよかった。急いでたんだ、早くビルをでたかった、俺のやったことがバレて会社の連中が騒ぎ出す前に。 早く彼女と落ち合いたい一心で、少しでも時間を短縮したくて、たまたま到着したエレベーターに駆け込んだ…… 「はよ言え」 若者が銃口を振る。地獄に繋がる銃口の暗さに目が釘付けになる。 死ぬのは怖い。心底怖い。 乾ききった唇を一舐め、ぎこちなく口を開く。 「横領したんだ、会社の金庫から」 一郎は平々凡々の人生を踏み外す事になった経緯を吶々と話し始めた。 「入社のきっかけは先輩の一言」 後ろ手に縛られた体勢からどうにか身を起こし、背中を壁に立てかけ一息つく。 「俺、本番にからきし弱いみたいでさ。読書感想文で表彰されるとか卒業生代表で訓辞読むとか、スポットライト浴びる経験と無縁できて、高校もフツーに受験だったから、長いこと上がり症だって気付かなかった。……授業でさされるのは平気なんだけど、変だよな」 面接になるとガチガチに緊張し、ろくに受け答えできない一郎を採る会社はなかった。 面接官との対面でしどろもどろの醜態をさらすまで、平均や標準という基準から逸れず慎ましく生きてきた自分に世間に恥じるほどの欠点はないと過信していたのだ。 『就職できねえんならさ、俺の会社来ないか?』 居酒屋のカウンターに突っ伏し、おごりで自棄酒をあおっていた一郎は、先輩の激励についふらふらとよろめいた。 『歓迎するよ』 「ところがこれがとんでもないブラック会社だった。知ってる?ブラック会社」 「あー。なんやけったくそ悪い会社のこっちゃろ?」 いまいちわかってない風情の若者に、ため息まじりに説明する。 「いや、間違ってないけどさ……色んな意味で悪質な会社のことだよ、実態は殆ど会社として機能してない。内定が異常に早くて、その時点でおかしいって気付くべきだった」 道を踏み外すきっかけとなったのは、尊敬する先輩の勧誘だった。 「厳しいノルマ、長時間労働、理不尽な仕打ち……労働基準法すれすれ、どころかぎりぎりアウト。ブラック会社って一口にいっても色々あるけど、俺の会社はとくにフクザツで……ぶっちゃけると、ヤクザのフロント企業だったんだな」 救いの手をさしのべたのはサークルOBの先輩だった。 一足早く社会に出たその先輩が、卒業を目前に控えた時期に希望した会社に落ちまくり、すっかりへこんだ一郎を居酒屋で励ましながら、「俺の会社に来るか?」と言ってくれたのだ。 深く考えもせず、もちろん疑うこともせず、先輩の誘いにとびついた。 まわりの友人たちが要領よく内定を貰い就職を決めていく中、ひとり取り残され追い詰められていたのだと、今ならいくぶんか冷静に分析できる。 「いざ就職してみて、あれ、なんか変だなっておもった。上手く言えないけど雰囲気かこう……殺伐としてて。ぴりぴりしてて。社員もガラ悪いし。仕事でわからないこと聞こうとしたら『忙しいんだ、自分でやれ』って怒鳴られて、言われたとおりにしたら『勝手なことすんじゃねえ』ってどやされるくりかえしで、酷いときは椅子ごと蹴倒された」 上司の理不尽な叱責の数々をおもいだし、伏せたまなざしが暗澹と沈む。 先輩に唆され入った会社は、良心経営とは対極路線の消費者金融だった。 「表向きは巧みに偽装していた。あんな会社だって知ってたら絶対入らなかった」 実際働きだすまで、その実態は巧みに伏せられていた。 形ばかり行われた会社説明も嘘ばかり、ヤクザのフロント企業の常として上司はそっち系の幹部で、社員にも明らかに堅気じゃないとおもわれる人々が多数含まれていた。 きちんとスーツを着て定時に出社する一郎の方がむしろ場違いだった。 騙されたと判明した時には手遅れだった。 「人身御供だったんだ」 全ての元凶たる先輩は、一郎と入れ代わるようにして行方をくらました。 上司―頬に傷のある―は、先輩の行方をおそるおそる尋ねた一郎に同情と嘲弄が相半ばする目をむけて、事のからくりを暴露した。 「辞めたいって申し出たけど上が許さなくて、辞めたきゃ代わりを連れてこいって言われて……俺に目をつけた」 「ネズミ講やな、まるで」 銃をぽんぽん投げ上げながら若者があきれる。 あるいは愚痴をもらす相手を間違えたのかと、世間知らずの若さと愚かさを悔やむ。 大学時代からなにかと相談に乗ってくれた先輩だった。 心のどこかで甘えがあった。 面接に全敗しまいっていた時、ひょっこり大学に顔を出した先輩にここぞと将来の不安をぶちまけたのが原因なら、一郎にも非はあるのだ。 弱みを見せるから付け込まれる。 信じるから裏切られる。 つまりは一郎がばかだったのだ。 「後輩身代わりに足抜けなんて薄情な先輩やなあ」 「あとで知った、先輩も俺と似たようなルートで引きずりこまれたって。加害者だけど被害者なんだ。大学でて、最初に入った会社が借金でつぶれて……そこの社長をハメた相手がいまの会社。経済学部出がいれば箔がつくしハッタリ利くって拾われたんだ」 「借金のかたに売り飛ばされたんか。時代錯誤やな」 「先輩は……悪い人じゃない。色々相談にのってくれたし……元カノにふられたときは一晩つきっきりで慰めてくれた」 「甘ちゃんやな」 自分を騙して裏切った先輩が憎くないといえば嘘になる。が、本気で憎みきるには楽しい思い出が多すぎる。 一郎は鬱々と続ける。 「ヤクザの出向企業だから当然社員もそっち系の人ばっか。仕事は……借りた人間を自殺寸前まで追い詰めるようなえげつない取り立てをして、無理矢理金を回収する。わざと騙して借りさせたり、子供を引き合いにだして脅したり」 「お約束やな」 「俺は常に営業成績最下位だった。ノルマの半分も果たせなかったよ」 伏せた顔が苦渋に歪む。 「おちこぼれ。人間のくず。死んだほうがいい。労災おりないのが癪だけど」 「ネガティブ全開やな」 「最後以外全部上司に言われた台詞だ。毎日、毎日ね」 唯一頼りになる先輩に置き去りにされ、社員とは名ばかりのヤクザがくだ巻く事務所にひとり取り残された一郎を待つ運命はさらに過酷だ。 「社員には厳しいノルマが課され、最下位の人間にはペナルティが待つ。誰が一番多く判押させたか、一番多く利息を回収したかで優劣が決まる。それはしかたない、サラ金の性質上しかたないって割り切ってる。けど……」 死ねだのクズだの誹謗中傷を書き殴った紙を自宅のドアにはりつける、友達と下校中の子供をつかまえて「お前の父親は借りた金も返せない最低の人間だ」とふきこむ、そうやって責務者とその家族を追い込んでいく。 気弱な一郎が胃を病むのは時間の問題だった。 「俺と同じネズミ講スカウトで引きずり込まれたヤツもいたけど、いつのまにかどこかに消えた。行方は知らない。正直知りたくない」 過酷で劣悪な労働条件に耐え切れず脱落する同僚は後を絶たなかったが、一郎は制裁を恐れるあまり、それすらできないでいた。 会社を裏切ることもさりとて己の良心を裏切ることもできず、毎日が針のむしろ。 「俺には、できない」 一郎は普通の人間だ。 平凡な人間には平凡な意地とプライドがある。 他の誰かを苦しめてまで優秀な人間でありたいとは思わない。 一郎は平凡なりに頑張って日々を生きている。 世界の恵まれない子供たちに愛の手をと書かれたコンビニの募金箱には行くごと一円玉と五円玉を寄付せずにいられない。千円札を払うほど大胆にも太っ腹にもなれないが、そうやって一枚か二枚の硬貨と引き換えに得られるいいことをしたという満足感を愛する。 どこまでもどこまでも善良な小市民である一郎には、職場が課すノルマは、あまりに辛い。 ノルマの達成と引き換えなければいけないものは、一円玉、五円玉よりはるかに高く付く。 結果、入社以来常にノルマ達成度は最下位であり続けた。一郎は常に上司や先輩から責められ虐められ続けた。 「罰ってなんや」 気のない様子で聞かれぎくりとする。 「社長の肩揉まされるとか先輩のパシリとか机拭きとか、大方そんなとこやろ?そんで音をあげるなんて情けない」 「ちがう」 一郎の声音があんまり深刻だったせいか、壁から背中をおこし、少しばかり興味を引かれて促す。 「言うてみ」 銃口を振る。 一郎は押し黙る。 「言え」 「言いたくない」 「額に油性マジックで肉て書かれた?」 「前髪で隠せばすむ」 「引っ張るなや」 「言えない……」 強烈な羞恥がぶりかえし、体が勝手にわななく。 「言えるか、あんな、あんな……!」 嘲笑、蔑笑、冷笑。 事務所に渦巻く太い哄笑、下品下劣な濁声で笑う先輩たち、折り畳んだ足が自重に痺れ行く責め苦にじっと耐える、自分を取り囲むサディスティックな目、目、目……無数の目。 『とっとと脱げよ』 『上も脱ぐか、潔く。真っ裸のほうが覚悟決まるだろ』 『なんなら手伝ってやろうか。ほら、足あげろ。脱がしてやっから』 『見ろ、こいつ面白いガラはいてるぜ。黄色地に縦縞なんて阪神タイガースかよ!』 『下は~んし~んタイガ~ス、なんつって』 どっと笑いが沸く。 かたくなに俯き、彼らが飽きて終わりがくるまでただひたすら耐え忍ぶ。 『はやくしろよ、みんなお待ちかねだ』 『暇じゃねえんだよこっちは。今月もノルマ最下位のお前が体で詫び入れたいっていうからわざわざ面子集めてやったんだ、感謝しろ』 木刀が傍らの床をしばく。 これ以上待たせば手がでる、また青痣作るのはごめんだ、さあ腹をくくれ―…… 「あんさん?」 「…………っ………」 「ひどい汗や」 銃をおろし、若者が心配そうな顔をする。 「チェーン、ちとゆるめたろか」 自分を労わる若者を無視し、呟く。 「俺、は。限界だった」 毎日毎日小突き回され、逃げ出さなければ心が壊れていた。 「ありがちっちゃありがちやな」 「笑えよ」 「ぬははは」 「本当に笑うな」 嘘臭い笑い声をあげる若者をきっと睨みつける。 「あんな会社辞めてやる、願い下げだ。だけどただじゃやめない、慰謝料をもらってく」 「金庫破る度胸ようあったな」 呑気に感心する若者に、少しだけ表情をゆるめて告白する。 「彼女のおかげだ」 変わるきっかけをくれたのは、今付き合ってる彼女だ。 「財布代わりに上司に連れてかれたクラブで知り合った。隣について、水割り作ってくれて……酔っ払ったら介抱してくれて。メルアド交換して、ずっとメールのやりとり続けるうちに親しくなって、一緒に暮らすようになった。こんな情けない、何のとりえもない俺のことをなんでか気に入ってくれてさ。水商売だけど全然そんなかんじしない、家庭的ないい子なんだ」 それまで辞めよう辞めようとおもいながら上司の制裁が怖くて言い出せずずるずる続けていた、先輩たちの辱めも悔し涙を呑んで耐え忍んだ、けれど彼女と出会い一緒に暮らし始めてこのままじゃいけないと目が覚めた。 彼女は素晴らしい女性だ。 彼女とならきっと幸せを掴める。 「先月、実家の父親が倒れて困ってるって相談された」 「………まさか………」 「半分は父親の手術費にあてて……もう半分で、彼女と逃げる」 「駆け落ちかいな」 口笛を吹く。 「彼女も騙されてこの世界に入ったんだ、本当はいい子なんだ。無理矢理うちの社長の愛人にされて」 「待て、社長の愛人に手え付けたんか」 「知らない間にそういうことになってたんだ」 目を見開く若者に対し、さも心外げに否定する。 「誠実そな見かけによらずやるなあ。よ、スケコマシ」 「俺は真剣に彼女を愛してる、幸せにしたいと本気で思ってる」 「その手段が横領か?せこっ。横領した金で女と幸せになるつもりてとんだ悪党やな、自覚ないさかい手におえん」 「真剣に恋したことないヤツに言ってもむだだ」 「頭沸いとんちゃうか。ひょっとして運命の相手とか血液型の相性とか真に受けるタイプか?きしょ」 「俺だって今まで運命とか馬鹿にしてた、けど彼女と出会って……そういうのもありかもしれないって思えたんだ。君みたいに軽薄な遊び人にはわからないだろうけど、永遠に」 「アホぬかせ、俺こそ誠意の人じゃ。女を飢えさせんようたっぷり愛情注いどる。クンニには毎回十五分以上かけるし」 「たとえがいちいち下品だ」 「浪速のフェロモンタイガーて呼ばれとる」 サングラスをかけなおし、親指の腹で自分をさす。 「……かっこ悪。すごくかっこ悪い」 両親よりネーミングセンスが悪い人間がいたなんて衝撃だ。 気を取り直し、断言する。 「彼女と幸せになるためなら会社を敵に回したっていい、上等だ。あとで扉を開けて金庫がからっぽで驚く連中の顔、想像しただけで笑いがとまらない」 横領した金は逃亡資金、最愛の人と手に手を取り合って幸福な未来を築く為の投資。 「今日は社員が出払ってる、俺ひとり留守番をまかされた。事務所がからになるのはわかってたから、成功したら彼女と落ち合う約束で、計画を実行に移した」 「ちょい待ち!」 若者がまったをかける。 愕然とした表情。 「事務所からっぽ?だれもおらんのか?」 「?そう言ったじゃないか」 「は?聞いてへんわそんなん」 「だって今言ったから」 「からっぽ……だれもおらん……留守?なんやねんそれ、ちゅーことはなにか、エレベーターが動いても意味ないやん、まるきり無駄足やんけ。せっかく東京くんだりまで来よったのに」 様子がおかしい。 片手で苛立たしげに髪を掻き毟りかきあげて、右手に預けた拳銃を落ち着かなげに振る。 誤って引き金に置いた指がおちそうで、どうか頼むからこっちにむけないでくれと発狂せんばかりに祈る。 「話がちがう。兄貴はそんなこと言うてへんかった」 兄貴? ぶつぶつ呟きつつ頭を掻き毟り、壁に寄りかかる一郎を血走った目でにらみつける。 「いつ帰ってくんねや?一日中留守にしとるわけちゃうやろ」 「二・三時間後には帰ってくる……はず」 「社長の沖田もか」 「どうして名前を……」 口に出し、ようやくばらばらの断片が結びつく。 まさか。 「その銃で……なにするつもりだ」 「聞いとるのはこっちや」 「うちに用があるのか」 「ドタマにぶちこんでジブンの立場思い知らせたろか」 ニヒルに笑い、指にひっかけた銃をくるくる回す。 「さっさと答えい、社長はいつ帰ってくる」 「午後三時ごろ……今日は本部に呼ばれてる」 「本部?―ああ、ヤクザの会合か。洒落た言い回しやん」 「社長がそう言えって徹底した。自分たちは『社員』なんだから迂闊に組の名前をだすなって……」 「形から入るたちか」 くつくつ、喉の奥で引き攣るように笑う。 目を伏せて記憶の糸を手繰る。 一郎が働く―正確には働いていた―会社の事務所はビル五階。 五階からエレベーターに乗り、地上で降りる予定だったが、三階でドアが開き若者がのりこんできた。 背を向け操作盤近くに立ち、ボタンを押す。一郎の位置からでは何階を押したのかわからなかったが、下り専用の先入観から当然三階より下だろうと思い込んだ。 ドアが閉まり、エレベーターが稼動するかと思ったら一揺れが襲い、完全に停止した。 大金を詰めたバッグを持ち、気が急いていた一郎にとって、エレベーターの一時停止と新たな乗員は招かざるトラブルでしかない。 そこではたと気付く。 「待て、おかしい。事務所は五階だ。うちに用があるなら一階から直通でくればいいのになんで一旦降りた?」 辻褄の合わない行動を訝しむ。 本来、一郎が不測のトラブルに見舞われる事はなかった。このエレベーターは下り専用で、行きの人間とかちあうことはない。 一階から五階をめざすなら、もう一基の昇り専用に乗ればいい。 「は?どっちが昇り下りて決まっとるん?」 「じゃないと上と下行ったり来たりでタイムロスだろ」 「知ったことか。ほならどっちが上で下か貼り紙はっとけ、初めてきたのにわかるかい、間違えて乗ってもうたわ」 なるほど、若者の主張にも一理ある。 ビルの人間にとって右が下りで左が昇りは共通認識だが、初めて訪れた外部の人間は混乱する。 しかしまだ不可解な謎が残る。 「どうして三階でおりた。目的地は五階なのに……」 「言うたない」 「エレベーターは禁煙」 縛られた姿勢で顎をしゃくり壁の貼り紙を示すも、若者は笑って一本咥える。洒脱な動作。 「ドア開くの何時間後かわからん。喫わなやっとれんわ」 箱の底を叩いて一本呼び出し、一郎の方へ掲げてみせる。 「あんさんもどや」 「いらない」 「真面目やな。極限状況でマナー厳守か、明日どうなるかもわからんのに」 「生き延びるって誓ってるから」 若者がきょとんとする。気恥ずかしさをごまかし、ぼそぼそと付け足す。 「……支えてくれる人がいる」 一郎の告白を聞き、若者は不敵に笑む。それまで見下していた人間を見直したような顔。 軽く手を振り、煙草の箱を投げてよこす。 「ばかか君は。手を縛られてるのにどうやって喫えっていうんだ」 自分で縛ったくせに忘れたのか。 四角い天井に煙が揺らめき立ち昇っていく。 一郎はおずおず聞く。 「その銃で……社長を殺すのか」 「……日ぃ間違えた」 肯定したも同然だ。 「無人事務所に殴りこみかけても意味ない。とんだ笑いぐさや」 「恨みがあるのか……?」 社長の指示による過酷な取り立てで離散した一家や自殺した人間、破産した会社は数知れず。 破滅に追いやられ怨恨を抱く彼らが復讐を企ててもなんら不思議はない。 「横領して逃げた人間が偉そうなこと言えた立場じゃないのはわかってる、だけど人殺しはやっぱりだめだ。うちの社長は最低最悪なヤツだから恨みを買ってもおかしくない、殺されても仕方ないって常々思ってきたし、俺自身何度も殺してやりたいっておもった。度胸がなくて実行に移せなかったけど」 「ええやん、代わりに殺したる」 「駄目だ!」 断固として拒否する。 銃を交互に投げ渡す手がとまり、まともに一郎を見る。 「……考え直せ。君はまだ若い、あんなくだらないヤツのために人生棒にふるな」 ドラマの受け売りじみて安っぽい説得の台詞を重ねる。 若者が鼻白む。 「横領犯が殺人犯に説教かい」 「俺は手遅れだけど君はまだ殺ってない」 言下に訂正すれば、一瞬真顔になる。 一郎は既に金庫を破って金を持ち逃げした横領犯の身、しかし彼はまだ罪を犯してない、今ならまだ…… たまたまエレベーターで一緒になっただけの尊大でキレやすく扱いにくい若者を、生来のお人よしと人生の先輩として使命感から、更正に導こうと意欲を燃やす。 「俺の想像があたってれば君の復讐には正当性がある……はず。うちの取り立てはきびしかった、沢山の人が不幸になった。銃を手に入れるのも大変だったと思う、簡単に手に入るもんじゃないって知ってる、インターネットで買えるにしても安い買い物じゃないだろ?銃を手に入れたって事は本気か、少なくとも覚悟があるってことだ。そこまで追い詰めたのはうちの社長で、多分君の家族にもひどいことをして……お姉さんがソープに売り飛ばされてお父さんがマグロ漁船に売り叩かれて君は親戚中たらい回し」 哄笑が炸裂する。 「あ、あんさん、ちょお待て、俺の姉貴?と親父?がどうしたて?妄想激しすぎ!」 笑いすぎて涙目になった若者がぜいぜい切れた息の狭間から突っこむ。 「今時ソープとマグロ漁船て!十年前の発想やで、あんたホンマにサラ金のひとか」 「……うるさいな、向いてなかったって言ったじゃないか」 「生憎と俺に姉貴はおらん。親父は……往生するやろ。憎まれっ子ナントカ、や」 後半は憎憎しげな口調になる。 深呼吸で笑いの発作を終息させ、サラ金会社で働いていたにもかかわらず、事情に疎い一郎に簡単に説明する。 「いまは効率よく人を金に換えるルートができあがっとる。借金返済できんかったらまあブナンに臓器売買ルートやな、切り身でバラ売りが一番回収率よくてお得や。むこうの仲介業者と組んでビザも安く手に入るし……ばれんよう後始末もばっちり」 「説教されなくても知ってる、二年働いてたんだから。……腐った実態は見て見ぬふりで」 「一番ずっこいな」 「知ってる……」 自分が会社という前線において戦わず逃げる卑怯者だということは、ブラック会社に勤めた二年間で思い知らされた。 悄然とうなだれる一郎になにをおもったか、鞄を傍らに置いて腰を上げ、猫科の獣を彷彿とさせるしなやかさで歩み寄る。 視界に翳りがさす。 正面に跪き、親指と人さし指で一郎の顎を摘まむ。 「生憎と私怨ちゃうんや。『命令』や、上からの」 シケた顔すな、モクがまずくなる。 顔色の浮かない一郎に発破をかけ、自分が喫っていた煙草をとり、一郎に咥えさせる。 「!えほえほっ」 「あ。煙草喫えん人?」 背中を丸めて咳き込む一郎に悪びれず笑いかけ、平手でその背中を叩く。 「一気に深く喫うな。ちぃとずつ鼻から逃がすんや」 若者が煙草を一回抜いてアドバイス、再び口に突っ込む。 アドバイスに従い、喉から鼻へと煙を抜く。 「……手……ほどいてくれないか」 「逃げるやろ」 ドアに一瞥払い、飄々とした若者を恨めしげににらむ。 「どうやって?」 一本とられた形の若者が渋面を作る。 「ほどいたらバッグ取り返しにかかるやろ」 「駄目か……」 「リーマンも大変やけどヤクザのがしんどいで、兄貴分には逆らえん」 「何の話だ………?」 「言うたろ、命令」 隣に座りこむ。 一郎の唇から煙草を奪い取り、それを深く吸って鼻から煙を吐く。 「……使いまわしじゃなくて新しいの吸えばいいのに」 「残り一本や」 「じゃあ自分で喫えよ」 「お裾分けじゃ。一緒に閉じ込められたのも何かの縁」 頼んでもないのに余計な事を。 「腐れた縁だよ……」 行動が全く読めない。 煙草を介して唾液を交換する。 ちっとも美味いと感じない。舌が麻痺して、一切の味がわからない。 「……開かんな」 「バッグを返せ」 「くどい」 「俺の金だ」 「あんさんが横領した金やろ」 「必要なんだ、やり直すために……」 「新しい人生を切り開く為に、か」 会話は途絶えがちになる。続けようと口を開くたび、半開きの唇にふざけて煙草が突っ込まれるからだ。 一郎が深々一服するのを確かめて、唾液が付着したそれを抜く。 しばらく無言で煙草を吸いまわす。 「せやけど物騒やな、事務所の金庫にぽんと札束おいてあるなんて」 「……管理を任されてた」 「信頼されとるやん」 「馬鹿にしてるんだ、俺に会社を裏切る度胸ないって」 ノルマを果たせずお荷物扱いの一郎ができることといったら、事務所の留守番と帳簿付けくらいのもの。 「それを逆手にとった。パチンコや取立てで先輩たちが出払う時間をたしかめて、事務所に一人きりになるのを待って……」 「よお番号わかったな」 エレベーターに乗り込んでから初めて笑い声をだす。 「それがさ、傑作。もしかとおもって試してみたらビンゴだった。あのエロ社長、愛人の誕生日を暗証番号に設定してた」 「……うわー」 「お約束だろ?」 「引くわ」 「ああ」 しみじみと頷き、きっぱり言う。 「会社への未練もさっぱり消えた」 開かなかったら諦めるつもりだった。ロックが解除された瞬間、心が決まった。もう後戻りできないと、生まれて初めて体験する武者震いで痛烈に悟った。 若者が煙草をもぎとり確認する。 「暗証番号吹き込んだの、ひょっとして女か」 「ああ」 一呼吸の沈黙を挟んだのち、思案げに口を開く。 「……あんさんが盗んだ金、な。搾り取ったヤツに返すんが筋とはおもわんか」 「は?」 「元はソイツらの金やろ」 トンと先端を叩いて灰を落とし、さぐるような目で一郎の横顔を見る。 「あこぎにしぼりとった金の上に胡坐かいて幸せになろうなんて、ちと虫がよすぎちゃうか」 「…………」 「どないした」 「いや……正論吐くからびっくりして」 さっきまで無茶苦茶な行動してたくせに。 毒気を抜かれて呟く一郎に対し含み笑い、ふうっと煙を吹きかける。 「正論だってわかっとるやん、ジブンで」 人の不幸の上に胡坐をかく。 横領した金で好きな人と幸せになる。 間違った事をしてると、自分でも思う。 けど 「借りたヤツからしたらあんさんかて連中の一味やさかい、ギゼンシャぶんなや」 「好きでやってたんじゃない、しかたなく」 「会社裏切ってヤクザ敵に回してどこまで逃げきれんねん。女も道連れにするんか」 責めるでも詰るでもない、ただ淡々と指摘する口調に猛烈な反発が湧く。 「!―ぐっ、」 これまで溜め続けたやり場のない怒り、鬱積し続けた感情が一気に内圧を高め爆発し、自由になる足で若者の鳩尾を蹴り飛ばす。 「じゃあどうしろってんだ、一生パシリでガマンしろっていうのか、罵られて嘲られてばかにされて毎日毎日死にたい死にたいって思いながら会社行って上司にへこへこして先輩に蹴られてへらへら笑って、そんな人生でガマンし続けろっていうのかよ!!」 どうしてこんなヤツに説教されなきゃいけない、一郎が味わってきた苦悩も葛藤も何も知らないくせに、今日会ったばかりたまたまエレベーターに乗り合わせたムダに態度のでかいガキが訳知り顔で知った口を…… 「飼い殺しはいやだ限界だうんざりだ、もう限界だ、俺だって今まで精一杯やった必死に付いていこうとした、無理に無茶をかさねて胃を壊した、だけどぎりぎりまで耐えた、やりぬいた、でもそれでも駄目だっていう、まだ頑張りが足りないっていう、じゃあ辞めてやるよあんな会社、すっぱりさっぱり縁切りだ、せいせいする!!」 そうさ、俺の人生からすっぱりさっぱり消してやる。 身をよじって立ち上がる、手が使えないせいでよろめくもなんとか持ちこたえる、床に転がって悶絶する若者の姿に先輩たちに泣いて土下座する自分の醜態が被さる。 ったくダメなヤツだなあイチローちゃんは、今月もノルマ最下位かよ?取り立て手ぬるいんだよ、仕事先に毎日張って脅すくらいの事はやんなきゃ……ああん、できない?弱音吐くんじゃねえ、やるんだよ仕事なんだから……いちから根性叩きなおしてやる…… 「うっ、ひぐ」 くぐもった鼻声でしゃくりあげ、倒れた若者を夢中で蹴りつける。 仕返しされるのが怖いという保身の感情を上回る激しい怒り、毎月毎月課されるペナルティ、揃い踏みした先輩たちの眼前に二時間正座させられた、下半身素っ裸で自慰を命じられた。 下品な揶揄と卑猥な野次の数々を思い出し、自制心が脆くもふっとぶ。 あの時できなかった分、今ここで衝動を爆発させる。 床に転がった無力な若者めがけ肩といわず腰といわず腿といわず蹴りをくれる、暴力がもたらす高揚で体が火照る、上司や先輩もこんな気持ちだったのか…… 脛にガツンと一撃。 「!!あがっ、」 瞼の裏で火花が爆ぜ、前のめりに傾ぐ。転倒に次ぐ衝撃、憤怒の形相にぎらつく眼光の若者が革ジャンのポケットから抜き放った銃でしこたま脛を殴りつけたのだ。 受け身もとれず床に倒れた一郎を獣の如く組み伏せる、鳩尾を蹴られた拍子に唇から弾けとんだ煙草が涙と鼻水と脂汗とでぐちゃぐちゃの一郎のすぐ目と鼻の先に転がっている。 「煙草の礼がこれか?」 ゴツゴツ額に銃口をねじこみ、危険極まりない笑みを刷く。 「頼んでないだろ、そっちが勝手に……ひっ!?」 銃口を使い、器用にトランクスを下ろしていく。 「じゃかあしい、ばたつくな」 露になった下肢を視姦され、羞恥に顔が赤らむ。 「そない暴れると手元が狂って引き金ひいてまうかもな」 黄色いサングラスの奥でにぃと目が反る。 「ブラック会社に食い潰されたくらいでべそかくな、ボケ。人生の厳しさってもんを叩きこんだる」 「誰かいませんか!」 「監視カメラつけとくんやったな。ケチったツケが回ったんや」 「俺の責任じゃない、管理者に言え!」 「叫んでも喚いてもむだや、だあれも助けにこん。さっき実証済み。あンだけ派手に暴れても駆けつけんかったさかい。むこうは真っ暗闇、一歩踏み出せば奈落にまっさかさま」 一寸先は闇。 「俺らの状況とよぉ似とるやん?」 若者の唇が首筋を這う。 「俺は五階を押した、せやからここは四階と五階の中間か……想像してみ、あんさん。エレベーター支えるワイヤーがブツンと切れてもたら」 「即死にきまってるじゃないか、常識で考えればわかるだろ!」 「せや、心中や。そうなりたいか?」 躁的な哄笑が爆ぜる。 「古いビルなんやろ?ワイヤーも傷んどるはず」 芝居くさく眉をひそめ大仰に声をひそめ、一郎の不安を巧みに煽り天井を仰ぐ。 「暴れると落ちてまうかもなあ。ぐしゃり、棺に早代わり。これがホンマの死刑台のエレベーター」 「悪趣味だ!」 「そらどうも」 反省の色などまるでない態度で肩を竦める。 「なにするつもりだ」 「レイプ」 耳を疑う。 「おと、男同士だぞ……!?」 動揺に上擦る声を無視、一郎の上腕をねじり荒っぽくシャツをはだけていく。 「俺と心中するか帰って彼女としっぽりか選べや、あんさん」 「彼女に決まってるだろ!!」 「せやなフツウ。目え瞑っとれ、あっちゅーまに終わる」 「辻褄あわないぞ!」 「セイゾンホンノウに火ぃ付いたんや」 若者の言動は理解しがたい、非常識を通り越して狂気に近い、平穏な人生を送ってきた一郎には到底共感も理解もしがたい。 「―!ぅあっ、」 自分しか触れたことない箇所に他人の手が触れる。 「ひ……この状況でどうしてそうなるんだ……?」 顎が落ちそうにがくがく震える。 視線をおろしぎょっとするのも無理ない、こんな異常な状況だというのに若者は勃起している。 混乱の極みで慄く一郎にぐいぐいと己自身を押しつけてくる、ズボンの生地を押し上げる突っ張りが熱く脈動、一郎を押さえ込んだのとは逆の手で己のズボンを下ろし下半身を露出させる。 「どや、浪速のフェロモンタイガーのお手並みは」

ともだちにシェアしよう!