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第1話 酒場の主人と図書館司書

 夕陽が差し込む窓辺で、町の酒場の主人が熱心に本のページをめくっている。  彼が読んでいるのは異国の料理について書かれたレシピ本だ。ひと気のない図書館の中、体格のいい男が集中して本を読んでいる。肩まで伸びた艶やかな黒髪と、まっすぐページに向けられている黒い瞳。切り盛りしている酒場の新しいメニューを考えているのだろう。時折、筋張った手でペンを持ち、何かをメモしている。 (木曜日はお店が定休日だから、今日も閉館までいらっしゃるんだろうな)  いつもと変わらない木曜日の夕方。酒場の主人――ジェスを見つめているのは図書館司書のエミリオだった。蜂蜜色の巻き毛に触れながら、エミリオは受付カウンターからちらちらとジェスの方を見る。閉館まであと十五分。集中しているジェスはそれに気づいているんだろうか。  声をかけるべきか否か悩んで、エミリオはそっとしておくことに決めた。少しくらい時間を過ぎても構わない。あんなに集中しているのだから、それを邪魔したくなかった。  酒場に顔を出したことは、実を言うとあまり無い。町の集会の後に無理やり連れて行かれたことはあったが、自らの意思で酒を飲みにジェスの店へ行ったことはなかった。  酒に強くないという自覚があるし、エミリオはもともと騒がしい場所が苦手な性分だ。この図書館のように、静かで落ち着いた場所が自分には一番あっている。淡いブルーの瞳が手元の小説に落とされる。本の返却も終わり、業務日誌もつけた。やるべきことはほとんど終わっている。あとは軽く掃除をして、戸締りをしたら業務終了だ。  耳をすまさなくても、たった一人の利用者であるジェスがメモをとるペンの音が聞こえてくる。レシピを書き写す姿が夕陽に照らされていて、真剣な表情の凛々しさに思わず見惚れてしまいそうになる。 (……いつ見てもかっこいいなぁ)  ジェスの姿に、エミリオは淡い憧れを抱いていた。高身長のジェスは日頃から鍛えているのかがっしりとしていて、タチの悪い酔っ払い相手に喧嘩をしても負けたことがないと図書館にくる女性たちから聞いていた。  幼い頃から本の虫で、ひょろひょろとした自分とは何もかも違う。性格も、地味で暗い自分とは正反対だ。豪快で話し上手で、彼の周りでは笑顔が絶えない。  太陽みたいなジェスと自分は正反対だから、勝手に釣り合わないと思ってしまう。だから、図書館に通ってくれるジェスをひっそりと見つめ、受付で本の貸し出しをするときに二言三言会話をするだけでよかった。それだけで幸せな気持ちになれた。  本当はもっと話がしたいと思っていたけれど、これ以上は分不相応だと思い込んでいた。 「エミリオ、エミリオ」  声をかけられてはっとして顔を上げると、目の前にジェスの姿があった。 「これ借りたいんだけど、今いい?」 「あ、は、はい、すみません」  慌ててジェスが差し出した本を受け取り、帳簿に管理番号を書き付ける。名前を呼ばれたことで心臓が高鳴ってしまい、文字が少し震えていた。  いつも堂々としているジェスと正反対のにいつもおどおどしている自分。  まるで違う生き物だ。エミリオは俯きながらジェスに本を手渡し、ジェスが図書館を出ていく後ろ姿を無意識に目で追っていた。

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