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第2話 静かな町

 オルデルの町は豊かな緑に囲まれている。王都・フィルニオから東に遠く離れたオルデルは、穏やかな人々が暮らす静かな町だ。  エミリオは朝早く起き、窓を開けた。暖かい風が小さな部屋にふわりと舞い込んでくる。心地よい空気を胸いっぱいに吸うと、昨晩読んでいた本を革製の鞄の中に入れた。  読みかけの冒険小説は、昼休憩の間に続きを読もう。エミリオは清潔な白いシャツにベージュのパンツを合わせ、身支度を整えると町はずれにある家を出た。  図書館へ向かう途中、老夫婦が営むパン屋でサンドイッチを買うのがエミリオの楽しみだ。店に入ると優しい声で「おはよう、エミリオ。調子はどう?」と話しかけてくれるナタリアおばさんに、エミリオは笑顔で応える。おばさんは今日は小さなクロワッサンをおまけで入れてくれた。  香ばしい匂いのする紙袋を片手に店を出ると、眩しい太陽に思わず手をかざして日よけにする。 「いい天気だなぁ……」  子どもたちの元気な笑い声、木々がざわめく音――すべていつも通りだ。  変わらない日常に感謝し、エミリオは図書館へと歩き始めた。  赤いレンガ造りの図書館に着いたら、まずは掃除を始める。開館時間までの間に、利用者が気持ちよく過ごせるように床を掃き、棚や窓を拭くのだ。王都の大図書館とは違って一人で管理できるほど小さな図書館は、エミリオの庭だ。  今日もいつもと変わらずほうきを手にして、隅からほうきで掃除を始めた。図鑑に歴史書、小説や絵本など、小さいながらも厳選された本がずらりと並んでいる。  そして料理本のコーナー。オルデルの郷土料理について書かれているものや、異国の色とりどりの珍しい料理が載った本――エミリオはこの棚の前を通るたび、ジェスのことを考えてしまう。  ジェスは元々王都で生まれ育ち、三年ほど前にこの町へやって来た。エミリオは、彼と初めて会った日のことを昨日のことのように思い出せる。 『ここにある料理本の中で、一番わかりやすい本を借りたいんだけど』と言って、突然現れた背の高い男性。雨の日だというのに、ジェスの笑顔は太陽のようでうまく言葉が出てこなかった。  料理本のコーナーで目当ての本を探している間に、ジェスの話をたくさん聞くことができた。酒場を開きたいのだとか、まだオルデルに来たばかりで分からないことばかりだから案内してほしいとか、笑顔で語るジェスはきらきらしていてエミリオは圧倒されてしまった。  掃き掃除をしながら、ジェスと一緒に本を探した料理本のコーナーに辿り着くと思い出してしまう。あの時のジェスの笑顔と弾むような声。なぜ栄えている王都からこんな不便な田舎町にやって来たのか理由は聞けなかったが、明るい性格のジェスはすぐにオルデルに馴染み、酒場は町の人々にとってなくてはならない社交場となった。 「――あれ?」  ふと、エミリオは足を止めた。昨日ジェスが座っていた席の下に白いハンカチが落ちている。彼の落とし物だろうか。拾い上げて広げてみると、端の方に赤い糸で“Jess”という刺繍がしてあった。これは推測に過ぎないけれど、ジェスが自分で名前を入れたとは思えない。エミリオはぼんやりと手元のハンカチを見つめ、この刺繍の意味を考えた。

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