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第76話 穏やかな風

「お前らナチュラルにいちゃつきすぎじゃねえ? 全部聞こえてんだが」  果物ナイフと皿をトレイに載せて渡す時、ユーリがにやにやしながらジェスに向かって言ってきた。 「お前らさ、一応隠そうとしてるっぽいけど……それなら外であんな見せつけんなって。聞いてる方は面白いがな」 「この人ったら、患者さんが来ないからってあなたたちの会話に聞き耳立ててるのよ。ごめんなさいね」  ユーリの妻がそっと近づいてきて言う。「俺の仕事が暇なのは良いことじゃねえか」と返すユーリは、まるで子どものように頬を膨らませていた。 「あ、はは……」 「そうだ。こいつを貸すのはいいけど、皮剥くときに怪我すんなよ。いいな?」 「はい、気をつけます。……色々と」  扉を閉めていてもそんなに聞こえるものなのか、とジェスは小さく唸り、部屋に戻った。しかし、ベッドから窓の外を見ているエミリオが視界に入っただけで気をつけようと思った気持ちがどこかへ飛んでいってしまう。  片方だけ開けた窓から風が入ってくる。エミリオの柔らかい髪が風に揺れているのを見て、ジェスは声もかけずに見惚れてしまった。 「……ジェスさん?」 「あ、わ、悪い。ちょっとぼーっとしてた」  風に当たるエミリオの儚げな雰囲気に息を呑んだ。  ――触れたい。  エミリオの姿を見て、反射的にそう思ってしまう自分がなんだか情けない。もっと紳士的に、もっと落ち着かなくては。 「どうかしたんですか?」 「……先生が俺たちの会話に聞き耳立ててるって」 「えっ!!」  エミリオは咄嗟に口元を覆ってあたふたし始めた。  驚いたり恥ずかしかったりすると、こんな風にすぐ顔を赤くするところが可愛い。眺めていると本当に表情豊かで楽しいし、視線が重なるだけでジェスの理性は脆く崩れてしまいそうになる。 (いやいやいや、ガキじゃあるまいし、落ち着け俺……)  エミリオの前で何度そうやって自分に言い聞かせただろう。多分、数えきれないほどだ。  大人の余裕なんてものはない。エミリオの前で余裕をかましたことなんてない。いつだって本能のままに抱きしめたくなってしまう。 「ま、まあ、すぐ飽きるだろ。ほら、リンゴ剥いてやるよ」 「もう……ユーリ先生何やってるの……」  握った拳の小ささに胸がキュンとする。ジェスはベッドのそばの椅子に腰掛けて、リンゴを手に取った。しゃりしゃりと皮を剥いているのをじっと見つめるエミリオは、子どものように無邪気な顔をしている。  慣れた手つきできれいに剥いているのが面白いのだろう。 「やっぱり上手。僕がやるとガタガタになっちゃうんですけど、ジェスさんのはきれいです」 「毎日包丁握ってりゃあ、これくらいどうってことなくなるよ」  微笑んでエミリオの目を見ると、じんわり朱に染まった顔を隠すように俯かれてしまった。 (くそ……可愛い)  すっかりエミリオの虜になってしまっていることをひしひしと感じながら、ジェスは手元のリンゴに集中した。

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