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0.儀式前日(2)

 車は本邸に到着した。車番が遥のために恭しくドアを開けてくれる。 「ありがと」  降りながら遥はにこっと笑いかける。車番はそんな遥にいっそう深く頭を下げた。  始めはこのような扱いはあまりに分不相応で嫌だった。自分でやるからいいと言ったこともある。が、今はすべてを任せることにした。きっかけは樺沢達夫からの『お願い』であり、遥自身もそれを納得できたからだ。  桜木と離れ、正面玄関から入るのも慣れた。ただ隆人が一緒にいない、全くの一人でというのは今までなかったから、どうしても身構えてしまう。  玄関の両側に並んだ者たちが一斉に頭を下げる。 「お帰りなさいませ」  そして一番奥の正面、上がり框の向こうで世話係の束ねである樺沢碧と樺沢紫が、両手をついて深く頭を下げた。 「お帰りなさいませ」 「ただいま戻りました」  遥もうなずくように頭を下げた。  本邸の主は代々の鳳である。その鳳である隆人とつがいをなす遥もまた本邸の主であり、本邸を守る樺沢にとっては帰りを待っていた主だ。 「ご移動お疲れ様でございました。お部屋の方でおくつろぎくださいませ」  靴を脱いであがった遥を碧が先に立って凰の部屋まで案内してくれる。遥のコートは紫が持って後ろからついてくる。  遥は碧の背を見つめる。 『何か変わったことは?』  隆人なら部屋への移動中に、碧にそう訊ねるだろう。だが遥にはまだそんなことはできそうにない。  確かに樺沢は遥を主として扱ってくれるが、遥自身の気持ちはせいぜいが「主見習い」というところだ。本邸の者たちに気安く言葉をかけることはまだできない。  格式張っていることに慣れていないため、正直遥には本邸は居心地悪い。それが本音だった。  凰の部屋についた。  使用人口へ回った則之たちは来ていない。  遥のコートを紫が寝室のクローゼットにしまいに行っている間に、碧が言った。 「申し遅れましたが、達夫は先ほどより隆人様からのお電話を受けております。後ほどご挨拶に参ります」 「わかった」  碧が非常に言いにくそうな顔をする。 「先の折りにお命じいただきました茶のお仕度一式は、あちらにさせていただきました」  示された方向のキャビネットの上にポットや急須や茶筒、湯飲み茶碗がひとそろい置いてある。  遥はにっこりと笑った。 「あ、ありがとう」 「繰り返しの問いをお許しくださいませ。本当にご自分でなさるのですか?」  その心配げなようすに苦笑が浮かぶ。 「自分の部屋で自分の飲みたいお茶を、飲みたいときに淹れるのくらいは自分でやらせてくれ。そういう風に俺は育ってるんだ」 「ご無礼を申しました。足りないものなどございましたらすぐにお申し付けください」  碧が寝室から戻ってきた紫とともに頭を下げた。 「失礼をいたします」 「うん。ありがと」  遥は二人を笑顔で見送った。  ひとりになるとやっと一息つけた。  窓の外には護衛がいるだろうし、すぐに桜木家の者もここへ来るだろう。それでも、今は気を抜ける瞬間だ。  遥は早速茶器のあるキャビネットのところへ行った。とりあえず自分と一緒に移動してきた世話係を含めた四人分を用意する。  隆人のように傅かれて平然としていることは遥にはできない。つい恐縮してしまい、挙動不審になってしまう。  だが、隆人やそのつがいである遥に傅くことを自らのすべてをかけた仕事であると考えている者たちがいる。プライドを持ってその務めを果たそうとしている。その顔をつぶすことは主といえども許されない。  遥が樺沢の仕事を受け入れることにしたのは、それが主となった遥の仕事であり、義務と理解したからだ。  ただ、理解はしても気持ちがすぐについていくわけではない。  遥には今までの生活から身に備わったものがある。特にプライベートな部分であまり手を出されると、そのこと自体がストレスだ。  たとえば茶を飲むようなことは誰に気兼ねすることなく自由にやりたい。だから茶を淹れるための道具を用意してくれるよう達夫に申しいれた。  当初樺沢の者にはそれを困惑された。陰で「凰様は樺沢の働きがお気に召さないのだろうか」と嘆かれていたらしい。  結局は隆人が間を取り持ってくれた。 「遥はお前たちを拒絶しているわけではない。こいつは自分の食事の仕度もすべて自力でできる男だ。自分でできることを誇りにしている。凰となったとたん茶の一杯を淹れることさえそれができないのは、遥からするとプライドを傷つけられているようなものだ。俺の凰はそういう人間なのだから、お前たちもそれは承知してもらいたい」  それがあってやっと遥は本邸の自室で自分の手で茶をいれる自由を得た。  鶴の一声とはこのことだろう。  両方を立て、両方に譲歩を求める言い回しに感心させられ、主とはただ威張っていればいいわけではないと学んだ。  凰になるまでの期間の隆人は遥にとって理解しがたい、許し難い存在だった。  今は違う。  少なくとも懐に入ってしまった遥を大切にしてくれていると思う。それが鳳の義務であるのは事実だが、そうであってもかけられるいたわりの言葉はやはりうれしい。そして、遥の今までの暮らしをきちんとわかってくれていることもありがたい。  ノックされた。 「はい?」 「達夫でございます。よろしゅうございましょうか」 「どうぞ」 「失礼いたします」  ドアが開き、樺沢達夫と桜木の三人が入ってきた。  達夫が深く頭を下げる。 「お帰りなさいませ。お出迎えに参上できず、申し訳ございませんでした」 「ただいま戻りました。隆人からの電話だったんだろう? 予定通り明日の朝こちらへつくのか?」  そう訊ねながらソファに回ってすとんと腰を下ろした。  これは以前達夫に、「お知らせすることが多いこともございますので、わたくしの前ではどうかお座りになってください」と頼まれたためである。確かに隆人は達夫の報告などは座って聞く。遥もそれに倣うことにした。 「はい、ご予定通りとのことでございました」 「で、今日は何だっけ? 寺に行かなきゃいけないんだって?」  達夫が重々しくうなずく。 「はい、瑞光院へ隆人様のご名代として年越しのご挨拶にうかがっていただき、あわせて御本家のお墓を参っていただきます」  それに対し遥はせっかちに聞きかえした。 「俺ひとり?」 「いえ、わたくしもお供させていただきますし、桜木の衆も護衛としてともに参ります」 「いつ? 今すぐ?」 「慶浄院主には遥様のご都合次第とお伝えしてございますので、いつでもよろしいかと存じます」 「じゃ、一休みした後の三十分後くらいでいいかな?」 「かしこまりました。それで準備の方、整えます」  遥は真っ直ぐ達夫を見た。 「墓参りのとき、桜木のうちの一人を桜木の墓参りに行かせる」  達夫がわずかに顔を(しか)めた。 「それはいかがなものでございましょうか」  遥は身を乗りだした。 「これは決定事項だ。桜木が二人で不安だと言うのなら、既に来ている桜谷や滝川をつけてくれ」 「かしこまりました。準備をさせます」 「よろしく。ありがと」  達夫が出ていくのに対して則之たちは頭を下げていた。  加賀谷の一族の中の上下関係は遥にはわかりにくい。  分家同士の格は何度言われても飲み込めない。五家の序列もきちんと聞くまではわからなかった。  五家の中の上下関係は現在第一が桜谷、第二が樺沢、第三が滝川、そして家としての一族への復帰はかなっていない桜木が続く。瀧岡は家として存在していないために、序列から除かれている。 「遥様、本当によろしいのですか?」  則之が立ちあがった遥に訊ねてきた。  遥はキャビネットに戻って、湯を入れたままになっていた急須から茶碗に湯を注いだ。 「いいんだよ。こんな機会でもなけりゃ、お前たちも墓参りできないだろう?」 「お気遣いいただき、ありがとうございます」 「さ、茶が入ったぞ。飲め」  遥は盆に茶碗を四客載せ、テーブルに運んだ。桜木の者は手を出さない。これも遥がそう躾けたからだ。初めは抵抗されたが、今は遥の性格を把握したのか諦めたのか、大人しく遥の出す茶を飲むようになった。もっとも遥も東京のマンションでは、できるだけ桜木に任せるように気をつけている。  時間をおきすぎた茶は白い茶碗の底が透けて見えないくらいの濃さになってしまっていた。遥はテーブルに茶碗を置く。 「悪い。濃くなり過ぎた」 「ありがたく頂戴いたします」  則之たちがカーペットに膝をついて茶を飲むのを眺めながら遥も茶碗に口を付ける。  所詮は遥の自己満足かもしれない。でも、自分の淹れた茶を人が飲んでくれて、ほっとした顔を見せてくれるのはうれしいのだ。だからこのくらいは許してもらいたい。  凰となり庇護下に入ったことでいろいろ与えてもらっているのは確かだが、遥からもさまざまなものを与えている、隆人にも加賀谷一族にも。主張すべきことは主張していかなくては精神衛生上よくないし、腹の内を割って話をすることは必要だと思う。特に隆人とは。  遥は渋い茶を飲みほした。

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