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1.大晦(2)

 空気は澄みきり、差し染める光はまぶしく、風は弱い。ほっと息を吐くと白くなったが、寒さに堅くなっていた体の力は抜けた。  前を歩く隆人に手を引かれてついて行く。 「今朝はずいぶんと穏やかだ」  滝の水音に混じる隆人のつぶやきにやはりと思った。肩越しに振りむいた隆人は笑っている。 「お前の行いがいいのだろう」  その笑顔に体が熱くなった。恥ずかしいのでもないし、欲望の生じた熱さでもない。そんな自分に戸惑っていると、隆人に引き寄せられて胸に抱かれた。触れあう隆人の唇がとても熱く感じる。それがいっそう体の芯を(あぶ)る気がした。  滝から立ち上る霧のような水のしぶきはやはり冷たい。それを含んでじっとりと重くなっていく浴衣を脱ぎ、いつもの大石の上に置く。  慣れたようすで隆人が足下から水の中へ入っていくのを遥もまねて足を差しいれ、息を呑んだ。冷たいという言葉では表現できない感覚だった。痺れるような痛みだ。 「そんなところで止まると、本当に入れなくなるぞ」  隆人の声に遥はおそるおそる中へ身を進めていく。何とか腿のあたりまでは入ったが、また止まってしまう。  全身の毛穴が体内の温もりを逃がさぬためにきゅっと締まっているのがわかる。気がつけば鼓動が信じられないくらい速くなっている。 「遥?」  まるで風呂の中にでもいるかのようにくつろいで見える隆人が信じられない。文句の一言も言いたいが、唇が震えて言葉が出ない。  隆人が遥のいる浅瀬まで戻ってきた。隆人の体からしたたる水も確かに冷たい。 「こんな中途半端な入り方の方がよほど体に悪い。完全に入ってしまえばもっと楽になる」  幼少の頃から禊ぎを繰り返してきた男の弁だから、それが事実なのはわかる。しかし、どうにも思い切れない。  隆人が苦笑した次の瞬間、遥の体は抱き上げられていた。そしてそのまま隆人がざぶざぶと深い場所に入っていってしまう。尻から背が冷たい水に触れたとき、ひっと息が詰まった。 「ゆっくり息をしてみろ」  耳元で言われた言葉に一生懸命従おうとする。ようやく遥の体も肩まで水の中に入ることができた。  震えるような吐息がこぼれた。 「大丈夫だ。ゆっくり呼吸を整えろ」  少しずつ楽になっていく。隆人の腕が離れ、自らの足で水の中に立った。  隆人の手のひらが遥の顔をなでる。じっと見つめられている。  衝動に突き動かされて隆人の首に腕を回し、唇を重ねた。そして抱き合いながら、頭まで水の中に沈んだ。  あらかじめ聞かされてはいたが、水に入る前や中にいるときより、水から上がった後の方がつらかった。空気の流れが絶えず肌を刺していく。肌の上の水滴が凍りそうだ。  いったん水から上がりかけたのに水の中へ戻った遥は、隆人に強引に腕をつかんで引っ張り上げられた。脱いであった二人分の浴衣にくるまれるとそのまま抱き上げられ、出入り口まで運ばれた。  建物の中に戻るや何枚ものバスタオルに体中を拭かれた。そしてバスローブを羽織った隆人に浴室に連れていかれ、すぐさま浴槽の中に浸けられる。あっという間の出来事だった。  冷え切った手足の指先や、縮こまった性器にじわじわと湯の熱がしみこんでくる。やっと飲み込んでいた息が吐けた。  ふわりと隆人の胸に抱き寄せられた。隆人はくっくっと笑っている。むっとしてしまう。 「そんなにおかしかったか、俺は?」 「あまりに予想通りだったのでな」  唇をへの字に引き結ぶ。確かにさっきの自分は格好が悪かったと思う。禊ぎはもっと厳かなもののはずなのに、そんな雰囲気はかけらもなかった。  隆人の指が遥の髪をすく。 「気にするな。初めての冬ならばあんなものだろう。お前が同じようになると困るので言わなかったが、中にはどうしても水の中に入れなかった凰もいたらしい。それに比べればきちんと水に入れたお前は優秀だ」  ほめられるのは気分がいい。大したことでなくても、認められることは自信に繋がる。 「次はもう少しうまくやる」 「是非そうしてくれ」  隆人の指がそっと顎に触れた。求められるていることを察して目を閉じ、顔を上向ける。だが隆人の唇が触れたのは額だった。  いぶかしく思い隆人を見上げると、隆人に引き離された。焦らされているような気になってくる。  隆人の方も問いたげな顔をした。 「何だ、その顔は」 「キスしそうなのに、しなかっただろう?」 「するわけあるまい?」 「どうして?」  訊ねたら隆人に驚かれた。そして次に顔をしかめられた。 「遥、お前、定めを全部読んでいないな?」  答えられなかった。  確かに一部飛ばした覚えがある。定めを読むときにずっと付きそってくれていた諒が席を外した隙に、ところどころごまかした。  隆人がため息混じりに「やれやれ」とつぶやいた。叱られるかと思うと首をすくめてしまう。

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