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1.主従の朝(前)

 午前六時、白井澄人(しらいすみと)はカードキーを操作盤のセンサーにかざし、タワーマンションのエントランスフロアに入った。フロントカウンターに立つコンシェルジュに笑顔で頭を下げる。 「おはようございます!」 「おはようございます、白井さん」  コンシェルジュも挨拶を返してきた。住人ではない澄人がカードキーを持ち、毎日ここへ来ているのは管理会社も承知している。部屋の所有者が出入りの許可を与えた者として登録されているのだ。  エレベーターホールでまたカードキーをかざす。エレベーターに乗るのにもカードキーは必要で、行き先階もカードキーのデータで自動的に設定される。高速エレベーターが静かに上昇していく。  三十七階でドアが開いた。茶褐色のカーペットを踏みしめ、目的の部屋に向かう。ホテルの中を歩いているようだ。  玄関ドアのハンドル部分にカードキーをかざすとダブルロックの解除音がした。静かにドアを開けて中へ入る。シューズクロークに入り自分専用のスリッパに履きかえ、まずキッチンに向かった。ビジネスバッグを隅に置き、手に提げていた袋から取り出した弁当箱を白い大理石風クォーツストーンの調理台に載せる。スーツの上着を脱いでバッグの上にかけ、リビングに行った。  遮光カーテンを開けると、朝の光が一気に室内を満たす。白い本皮のソファ、波打ち際を思わせるオフホワイトからエメラルドグリーンにグラデーションするカーペット。今日もいい天気だ。  浴室のチェックに行くと使われた形跡はなかった。ならばシャワーを必ず浴びるだろう。澄人は寝室に向かった。軽くノックをしてドアを開け、中へ入る。ダブルベッドに人が寝ている。 「おはようございます、泰徳(やすのり)様。カーテンを開けます」  上掛けの下でこの部屋の住人がもそりと動いた。  カーテンを開けると差しこむ日射しで敷きつめられたカーペットの海中のような青さが際立った。上掛けの白さとのコントラストが美しい。  ベッドで逞しく長い腕が伸びをする。 「朝か……おはよう、澄人。今朝も可愛いな」  (あるじ)(たわむ)れの言葉を澄人は微笑で受けながす。 「おはようございます。シャワーを浴びられますか?」 「ああ」  澄人はウォークインクローゼットから着替えを用意する。ベッドを出て、ジムで鍛えた逞しい体を改めて伸ばしているのが二十七歳になったばかりの紅林泰徳(くればやしやすのり)である。三月生まれでまだ二十六歳の澄人が仕える主であり、仕事では同期にもかかわらず上司だった。  泰徳がシャワーを浴びている間に、書斎と作りかけの建築模型のあるホビールームの確認をする。テーブルや机を拭いてソファや棚の埃を払う。床掃除は出勤するときに起動するロボットクリーナーの仕事だ。  キッチンへ戻った澄人は手を洗うと、調理台で弁当箱の中身を皿に盛った。今日は梅むすびと鮭むすびに、卵焼き、牛肉のしぐれ煮、ほうれん草胡麻和え、里芋の煮物に漬物だ。弁当箱のままでいいと泰徳は言ってくれるが、電子レンジで温められる物は温かく食べてもらいたい。茶の仕度をして、弁当箱を洗った。  髪を拭きながら下着一枚の姿で泰徳がダイニングに来た。まず茶を出す。 「昨夜、(いたる)と別れた」  その言葉に澄人ははっと泰徳の顔を見て、さようですかと頷き、朝食を運ぶためキッチンに戻った。  ほっと安堵の息がこぼれた。結城至(ゆうきいたる)は中堅商社社長の子息で、今まで泰徳が付きあってきたセフレの中では飛び抜けて美形だった。しかしその性格に難があった。泰徳の前ではしおらしい。だが裏では泰徳が並行して付きあっている他の相手に嫌がらせをして仲を引き裂いたり、澄人に罵言を浴びせてきたりした。最近では泰徳もそんな結城の言動に気づいたと見え、逢瀬が間遠になっていた。  トレイに載せた皿と箸を泰徳の前に並べる。 「かなりごねられたぞ」  それはそうだろう。泰徳は東証一部上場企業の社長令息だ。涼やかな眼差しに高い鼻梁、唇はやや薄いが、整った顔だちをしている。いつもにこやかで人の気持ちを明るくさせるし、セフレにもプレゼントを惜しまない気前の良さもある。別れたいとは思うまい。 「泣き落としなどという面白いものを見せてもらった」  結城はもう泰徳のセフレとしての価値を完全に失ったようだ。 「安心したか?」  不意の言葉に澄人は顔を上げた。泰徳が興味深げに見つめてくる。澄人はにこやかに頷いた。 「はい」  泰徳が声を立てて笑う。 「正直でいい。いただきます」  箸を取って泰徳が朝食を口に運ぶ。 「お前は始めから至が気に入らないようだったな」 「他の方を(ないがし)ろにしていましたので」 「お前の目は確かだった。だんだんずうずうしくなってきて、物をねだるだけでなく、この部屋に来たいとしきりに言いだした」  ああ、と澄人は思った。泰徳はこのプライベートな空間に他人を入れたがらない。今までの恋愛で、泰徳本人よりそのバックの紅林家の名や金が目当ての者が多すぎたせいもあるだろう。他人を簡単には信用しないのだ。  泰徳が箸を止めた。 「お前は俺にもっと厳しくしてもいいんだぞ。セフレなど持つなとか、せめて一人にしろとか。お前の忠言なら聞く覚悟はある」  澄人は頬が赤らむのがわかり、うつむいた。 「その、恋愛は、きわめて個人的なことですので、そこまで踏みこむことは、わたくしの、職分を、越えます」  つっかえながら答えると、ふっと泰徳が笑ったようだった。 「相変わらず硬いな、お前は」  からかいとわかっていても、ますます頬が熱くなる。 「泰徳様がお好きになった方なら、それは特別なお方です。わたくしは泰徳様のお気持ちを尊重するだけです」  視線を上げてそれだけ言うと、澄人は素早く一礼して洗面所に逃げた。だからその時の泰徳の表情は見なかった。  昨夜、泰徳が留守の間にタイマーでセットしておいた下着や靴下などの洗濯物を浴室に干す。それが済んだら寝室へ行ってシーツの交換とベッドメイキングだ。ワイシャツとシーツはコンシェルジュを通してクリーニングに出すため、ランドリーバッグに畳んで入れる。ゴミは後で各階にあるゴミ置き場に持っていくつもりだ。今の澄人は護衛というより正に世話係であり、ハウスキーパーである。

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