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5.傷痕(前)◆
事件は十六年前の梅雨に起きた。
当時澄人と泰徳は小学五年生で、その日の習い事は珠算だった。学校からの帰り、教室に寄って指導を受けた後、薄暗い雨の中紅林家に帰ろうとしていた。傘を差し、並んで歩いていた二人の前に、黒いワンボックスカーが停まった。澄人は反射的に前に出て泰徳を隠す。スライドドアが開いて覆面の男が雨音の中叫んだ。
「どっちが紅林泰徳だッ」
「僕だっ」
即答した澄人の腕が掴まれた。車の中に引きこまれながら、澄人が背後を確認すると、泰徳も訓練どおり澄人を指さしていた。傘とそろばんの入った手提げが手から離れる。そのとき我に返ったのか、目を瞠った泰徳の口が動きかけた。
――まずい。泰徳様が何か言おうとしている!
とっさに澄人は大声を上げた。
「澄人、助けを呼ん――」
口を手でふさがれた。ドアが閉まる。車は急発進した。澄人の体はフロアを転がる。すぐに目隠しをされ、口にガムテープらしきものを貼られた。ランドセルを奪われると後ろ手に手錠で拘束された。
「大人しくしてりゃ、すぐ帰れる」
男の言葉を聞きながし、澄人はほっとしていた。危うく泰徳が自ら正体を明かしてしまうところだった。澄人は泰徳の盾だ。いざというときは身代わりになるよう訓練されてきた。ついに役に立てたのだ。後は自分の身を守ればいい。
十五分は走っただろう。アスファルトから砂利を踏むような音と揺れに変わって、車は止まった。澄人は男の肩に担がれ、鉄製と覚しき階段を上っていく。ドアの開閉には軋んだ音がして、埃っぽい臭いの板敷きの床に下ろされた。雨がガラスを叩く音がしているから窓があるようだ。
男たちは声や足音から二人。車中での会話の内容から身代金目的とわかっている。澄人が子どもであり、拘束してあるからだろう。目の前に見張りの気配はない。
耳を澄ますと男たちの会話が聞こえてきた。
「電話するぞ」
紅林家にはすぐに繋がったようだ。
「お宅の坊ちゃんを預かった。返してほしければ一億――」
低く脅す言葉を口にしていた男の声のトーンが変わった。
「何ッ、こっちは息子の泰徳を預かってるって言ってるだろうがッ」
泰徳は無事帰宅したのだ。ならば澄人は白井の者らしく、自ら窮地を脱するのみ。紅林にとって澄人は駒に過ぎないのだから、主家を煩わせてはならない。
後ろ手になっている腕でできた輪を尻の下に回した。手錠の鎖の上を一足ずつ抜いて手首を前に戻し、目隠しと口のガムテープをはぎ取る。素早く開け放しの隣室とのドアの影に身を隠し、構えた。荒い足音が近づく。
入ってきた男の背後から飛びつくと、腕の輪の中に男の頭を取りこみ、顎下に手錠のチェーンを回し両足を浮かせる。ステンレスのチェーンが一気に男の喉に食いこみ、仰け反りながら男が背中から倒れてくる。それを横に躱すと、泡を吹いている男の腹に全体重を掛けて膝から飛びこんだ。ぐえっという呻きとともに痙攣して、男は気絶した。
「どうしたッ」
もう一人の男がナイフを手に駆け込んできた。
「あっ、テメエッ」
突き出されたナイフを避けながら入身 で背後に回りながら押さえ込み、膝を落として勢いをつけると男の体が浮いた。そのまま床に投げ落とす。一瞬ナイフが男の手から離れたが、蹴りとばすことはできなかった。男がナイフを拾いあげた。
「絶対、殺す」
振りかぶったナイフが正面から澄人の顔に襲いかかる。一瞬遅れて背後を取れなかった。刃を手錠のチェーンで受ける。きちきちと金属が擦れあう音がする。
男との身長差、体重差で澄人は上からのしかかられ、右膝をついた。とっさに横に倒れながら、左脚で男の膝裏を狙って回し蹴りを叩きこむ。男がバランスを崩した。その隙に澄人が起きあがろうとしたとき、男がナイフを振りおろした。
左脇腹に一瞬の冷たさと続く灼熱の痛み。息を呑んだが歯を食いしばって声をかみ殺し、再び振りあげられた刃から逃れようと身を捩った。躱 しきれず、先ほどとほぼ同じ場所をまた抉られた。
「うあっくぅぅ……」
声がこぼれた。このままでは動けなくなる。
男が自らの勝ちを確信して笑いながら、更にナイフを振りかざした。澄人はその手の動きを見つめながら、手錠のチェーンを張り、横薙ぎに払った。キンと鋭い音がして、ナイフが飛んだ。
男がナイフを追った。両手をついて起きあがった澄人は男の膝裏に足底を叩きこむ。男が床に這いつくばった。その首に素早くチェーンを引っかけ一気に締めあげる。のけぞりながら男が喉をかきむしる。
「ぐぇッ」
男から力が抜けた。澄人はぜいぜいと息を吐きながら必死に男を仰向けに返すと、白目をむいてひくついている。この男の腹にも両膝から飛びおりた。男が完全に動きを止めた。
澄人は男の横に倒れ込む。だがまだ気を失うわけにはいかない。制服のシャツのボタンを失血に震える指ではずす。胸の中から首に提げた携帯電話を取り出した。まず掛けるのは紅林家への直通番号だ。
「す、みと、です。おわり、ました」
それだけ言って切り、次に一一〇番へ通報する。名を名乗り、紅林泰徳の代わりに誘拐されたことを説明しているうち、どんどん寒気が増してきてついに気を失った。
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