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6.宣告(後)

 澄人はその場に崩れるように座りこんだ。目の奥が熱くなり見る見る視界が歪んできた。瞬きをすると熱い雫が頬を伝い、ぽたりと床に落ちた。一旦堰を切った涙はもう止めようがなかった。それどころか胸から嗚咽が込みあげてくる。歯を食いしばっても、もう押しとどめられない。 「うっ、く、ううっ、ひっ」  握った二つの拳で顔を覆い、ただ泣きじゃくるしかない。  泰徳に、切られた。  どんな言葉に置きかえてもその事実は変わらない。ずっと後を追って生きてきたのに、側にいることが生きる意味であったのに、脇腹の傷痕が泰徳の秘めていた過去の思いを呼びさましてしまった。  泰徳への思いを馬鹿正直にさらけださなければよかったのか。しかし好きなのは泰徳しかいなかった。十九年あまり、澄人は泰徳しか見つめてこなかった。泰徳の見る夢に憧れ、ともに在ることだけが心からの望みだった。それがいつか恋情へ変わっていたことに気づいた今、それをごまかすことは澄人にはできなかった。隠せなかった。主たる泰徳を求めずにはいられなかった。  分不相応な願いの(ばち)が当たったのだ。所詮影は紅林家のための駒。恋慕を抱き、あまつさえ情けを請おうとしたのが間違いだった。澄人は選択を誤った。そして、泰徳の側に在る資格を失った。  翌る朝、髭を剃りながら鏡に映る自らの顔を見た。冷やしはしたものの腫れた瞼は隠せていない。情けない顔を力なく嘲る、愚か者と。  泰徳のための朝食が要らないと思うと、自分の食事を用意する気にもならなかった。トースト一枚とコーヒー一杯。それだけを何とか腹にいれ、六本木駅に向かう。いつも立ちよっていたタワーマンションが嫌でも目に入る。顔を背け、駅へ急いだ。  出社してみると、既に泰徳が席にいて新聞を読んでいた。足を止めてしまった澄人に泰徳が気づいた。 「おはよう」 「おはようございます」  頭を下げて、席に行く。フロアにはまだ泰徳と澄人しかいない。澄人は財布を持って休憩コーナーに逃げた。  自販機でいつもは買わないカフェオレのボタンを押す。窓際のカウンターに紙コップを置き、ブラインドを開けた。スツールに腰を掛け、朝の街を眺める。  先週の金曜日まで、この光景はまぶしかった。今はどんよりと曇って見える。目を下に転ずれば、歩道を人々が歩いている。みな胸を張り、自信を持って目的地を目指しているように見える。  コップに口をつけた。カフェオレが甘い、思っていたよりもずっと。甘さが染みて胃が重くなる気がする。失敗した。  そう。失敗したのだ。泰徳への思いを、好きなどという卑近なレベルに落としてはいけなかった。あくまでも主として尊敬し、飼い犬のようにたまに頭を撫でてもらうだけで満足していなければいけなかった。  息を止めてカフェオレを一気に飲み干す。口の中に甘さが充満している。歯を磨きたい。澄人は席に戻ると、歯磨きセットを取り出した。 「白井君、ちょっと」  泰徳の声にびくっと体が反応した。はいと応え、課長席の前に行く。 「君に任せている新企画案だけど、次は私に提出する前に中島課長補佐のチェックを受けてくれるかな」  拳を握りしめる。これは澄人の案が稚拙という明確な宣告だ。 「中島君には私から言っておく。今後君がどうするかという問題もあるが、中島君とは連絡を密にして、しっかりブラッシュアップしたものを期待している」  また一歩泰徳に遠ざけられた。今後どうするかとまで言われた。これは不出来な仕事の結果だから仕方がない。それでも悔しさより悲しみの方が強かった。  泰徳の前から下がり、ラバトリーに行った。歯を磨きながら何度もため息をつく。途中、やってきた同僚に顔色が悪いと心配されたが、無理に笑って首を振った。何でもない。そう、何でもないのだ。泰徳の側に澄人がいなくても、会社も世界も、泰徳の生活すらも回るのだ。  朝礼の後、泰徳と中島智子(なかじまさとるこ)が会議室に入るのが見えた。澄人はパソコンの液晶画面に視線を固定し、よけいなものを遮断した。

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