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8.理想の未来へ(4)
「紅林に付き従う影は常に重責を担い、緊張を強いられる。戦闘になれば怪我もする。重傷を負うほどの大役を果たした者は重責から解放してやるのが主の取るべき道だ。それを理解しなかった十一歳の俺は、お前を手放したくないと言った。命に関わる重傷を負わせたのに、子どものわがままで」
澄人は顔を上げた。
「それは違いますっ。俺も、俺も泰徳様のお側から離れたくなかったんです。だから必死でリハビリし、補習を受け、稽古に励みました。続けてお仕えできることを信じて」
泰徳の手が澄人の髪から頬を撫でる。
「そうだ。お前は頑張ってくれた。お前の精力的な努力と、お前以外に教室内まで立ちいって俺を守れる人材がいなかったことで、俺は引きつづきお前を影とすることが認められた」
紅林家当主の妻が妊娠するとそれを受けて、白井家でも同学年の子を生 すように努める。だから五月生まれの泰徳の影は三月生まれの澄人しかなり得ない。現に兄や弟では泰徳と学年が違いすぎた。
泰徳の瞳は哀しみを帯びている。
「だが、主と影はいつかは別れる。適性に合わせて道は分かれていく。俺たちも自然にそうなるべきだった。だが俺は、中等部でも高等部でもまだあがいた。お前を俺の適性とレベルに限りなく引きあげ、側に置きつづけた。幼かったお前にあんなひどい怪我を負わせたのに、その後も俺の進みたい道にお前を引きずりこみ、お前に適した道を選ばせなかった。すべては俺がお前を離したくなかったからだ」
澄人はごくりと唾液を飲みくだした。
「そして今までお前はずっと、ずっと俺に付いてきてくれた。これは異常なことだ」
泰徳がソファから下りて、澄人の前に膝をつき、頭を下げた。
「すまなかったっ」
澄人は土下座する泰徳に驚き、慌てて腕を掴んで起こそうとした。
「やめてくださいっ。俺なんかに頭を下げないでくださいっ」
しかし泰徳は顔を上げない。
「この前脇腹の傷を見て、俺がいかにお前を束縛してきたか思い知った。もう俺しか見ない人生から自由にしてやらなくてはと思った。お前自身の人生を歩ませるべきだと――」
「俺は泰徳様のお言葉どおり、もう自由です。世話係でも影でもありません。自由になったのをいいことに、紅林泰徳という一人の男の側に居たいと勝手を言っています。俺には泰徳様しかいません。泰徳様のことしか考えられません。泰徳様が俺の今後を思ってくださったのはよく理解しています。ですが、俺は泰徳様と暮らす未来しか欲しくありません。どうかお顔を上げてください」
泰徳が下を向いたまま首を振る。
「それならば尚のことだ。縋ってくれたお前を突きはなした。すまない、澄人」
「謝らないでください」
「俺しか知らない、初恋すら経験のないお前は、俺が命じれば何の疑いもなく体を差しだしてくれただろう。だからこそ、なし崩しにお前と深い関係になってしまうのは間違いだ、離れるべきだと思ったのは本当だ。だが、だが、俺は――」
泰徳の大きな体が震えていた。
「遠ざけてからわかってしまった。俺は白井澄人という人間を心底愛している。お前を他の女にも男にも、誰にも触らせたくない」
泰徳の告白に澄人は目を見開いた。
「お前がここに来なくなって、胸が張り裂けるように痛んだ。仕事中も目がお前の姿を追っていた。まだお前が近くにいてくれることを確かめずにはいられなかった。役を免じたのは俺自身なのに、そのせいで俺の部下である必要がなくなることすらお前の父親に指摘されるまで気づかなかった、愚か者だ」
泰徳の声が涙を帯びている。澄人もまた震えが止まらない。
「顔を、どうか泰徳様、お顔を上げてください」
泰徳がらしくないほどおずおずと顔を上げた。
「いつお前に謝罪すべきか悩んでいた。俺が悪いのだから。それなのに拒絶されたお前からここへ来てくれた。まだ俺を望んでくれた。今度は俺が頼む番だ」
泰徳の声が強まった。
「お前とこれからもずっとともに歩きたい。俺の側にいてくれ。頼む、澄人」
また泰徳がカーペットに額をつけた。
澄人の胸の奥から何かが込みあげてくる。それは喉で詰まって砕け、嗚咽となった。
「う、く……、うう、う」
涙があふれて止まらない。愛する人に求められていたと知った歓喜に心も体も震えている。
泰徳の背に身を投げかけ抱きしめる。熱い雫が泰徳のシャツに落ちる。それに気づいたのか、泰徳がゆるゆると身を起こした。
泰徳と見つめあった。泰徳の両手で澄人の頬が包まれた。唇を口づけで塞がれる。何度も。繰り返し。息を継ぐため開いた歯列に泰徳の厚い舌が押しいってきた。思わず泰徳の腕に指を立ててしがみつく。舌は澄人の舌の付け根を撫でまわし、歯列の裏を撫で、上顎を蹂躙した。未知の感覚が体の芯に湧く。口腔内で遊ばれているだけなのに、体がほてってくる。混じりあった唾液が口の端から顎へ伝う。澄人の体から力が抜け、泰徳の腕の中にくったりと収まるしかなかった。
「澄人、お前のすべてが欲しいっ」
染みこんでくる言葉に、澄人は頷きながら掠れた声で応じた。
「俺も、泰徳様が欲しいです」
顎先にかかった指で上向けられた。羽のように軽いキスがかすめてから、一旦ソファに座らされた。
寝室から泰徳が持ってきたのは直腸洗浄の薬剤だった。泰徳が何か言いかけたのを、澄人は微笑みで遮り受けとった。
「わかっています」
済まなそうに、しかし愛しげに泰徳の指が髪を梳いた。
「シャワーも浴びてこい」
「はい、お借りします」
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