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第1話
ACT1
僕は闇の中にいた。
底知れない真の闇。どこまでも墜ちていきそうな……上も下もわからない本当の闇。
怖い……怖い。
手を伸ばして、何かを掴んだ。柔らかくひんやりとした感触。そして……ふわりと僕を包む甘く濃厚な香り。
〝花の……香り?〟
意識がふうっと浮かび上がる。同時に、すべての感覚が戻ってくる。
僕を包むのはとろりと甘い花の香りだ。少し寒い。そして、軽やかな小鳥のさえずり。
「ここは……」
目を開ける。光は蜂蜜の色。僕の上に広がる空はきれいな薄紫。
「ここは……どこ……?」
視界いっぱいの空を見て、僕は自分が横たわっていることに気づく。
倒れたのか? 転んだのか? とりあえず起き上がって……僕はまた呆然とすることになる。
「ここは……」
僕は、咲き乱れる白い花がふわふわと散る中に横たわっていた。なんの花だろう……とても甘い香りのする美しい花。そうだ……この花は……マグノリア。いつ咲く花だっただろう……。そう考えて、僕ははっと我に返る。
ここは……どこだ? ここは……何か……違う……。
ゆっくりと視線を巡らせると、花びらの間から見えたのは……白亜の城だった。いや、とても大きな邸宅なのかもしれないが、真っ白な石で作られた見上げるほどに大きな建物は、どう見てもお城だった。それも……おとぎ話の絵本で見たような。さらに視線を上げると、本当に童話から抜け出したような尖塔までもそびえ立っている。僕は信じられないものを見ている思いで、思わずつぶやいてしまう。
「なんで……こんなもの……」
「おまえは誰だ」
唐突に響いた声に、僕は驚いて振り返った。
「誰……?」
ふわっとした白いブラウスとベージュっぽいぴったりとした膝までのキュロット、膝から下は白いソックスに包まれている。肩から羽織ったマントの真紅が艶やかで、とてもきれいだ。そこにすっと立っていたのは……。
〝……本か何かで見たことある……〟
そう……こんな人もおとぎ話の絵本で見た……あれは……いつ? どこ? 頭がひどく痛い。混乱している。
「おまえはなぜ、こんなところにいる」
よく響く、はっきりとした声。ゆっくりと目を見開いて、僕はその人を見つめる。
〝……きれいな……人だ〟
さらさらと風に揺れる髪は、背中の真ん中くらいまであり、透き通るようなプラチナブロンド。僕を見つめる瞳は、湖の色の深いブルー。すっきりと涼しげに整った顔立ちは、落ち着いた大人のもので、年の頃は二十代の半ばから後半くらいだろうか。
「どこから入ってきた。どうやって、衛兵たちの目をごまかした」
「いえ……」
戸惑いながら、掠れた声で答えかけて、僕ははっとする。
〝何、この言葉……〟
彼がよく響く声で綴る言葉は、僕がまったく聞いたことのない言葉だった。それほど、いろいろな言語を知っているわけではないが、それでも、ある程度ポピュラーな言語なら、話したり意味を取ったりすることはできなくても、なんとなく何語かくらいは想像がつく。しかし、その僕のボキャブラリーの中に、彼の話す不思議に美しい響きを持つ言葉はなかった。
「わかりま……せん……」
彼の問いに答えて、そして、僕はまた驚愕する。
〝僕は……何を言っている……何を……聞いている?〟
まったく知らないはずの言葉を、僕もまた口にしていた。なんのためらいもなく、当然のように。たとえて言うなら、ちょうど同時通訳のような感覚だろうか。二つの異なる言語が、僕の頭の中で二重写しになって響いている。
「ここは……どこですか……?」
思わず尋ねた僕に、彼は少し驚いたような顔をしてから、ふっと軽く笑った。
「おまえは、ここがどこか知らずに迷い込んだというのか?」
「あ、いえ……」
衛兵がいるというなら、ここはおそらくやんごとなき人の住む場所なのだろう。
〝お城に王子さま……? まさか……ね〟
「まぁ……いい」
彼は柔らかな笑みを浮かべたまま、すっと手を伸ばした。僕の白く細い腕を軽く掴んで、身体を起こしてくれる。
「こうして見る限り、どうやらおまえは非力なようだから、暗殺者ということもあるまい」
妙に物騒なことを言うと、彼は肩にかけていたマントをすっと外した。黒に近い深い赤のマントを開くと、僕の身体の上にかけて、くるっと包み込んでくれる。そして、そのまま軽々と抱き上げられた。
「え……っ」
びっくりして、びくりと身体を震わせてしまった僕だが、彼は動じることもなく、すっと足を踏み出す。まったくためらいのない仕草だ。
「暴れると落とすぞ」
「え、あの……」
すらりと細身に見えた彼だが、どうやらしっかりと筋肉はついているらしく、僕をお姫さま抱っこで抱き上げても、その足取りは軽快で、重さなど感じないかのように、少し早足でお城の中に入っていく。
「あ、あの……っ」
「ここは私の私室だ。誰も入ってはこない。ゆっくりと休むがいい」
ふわりと僕をベッドに下ろしてくれる。大きな白いベッド……硬いベッドだけれど、寝心地は悪くない。
「身体が……傷だらけだ」
彼に指摘されて、僕はその時初めて、とんでもないことに気づいた。
身体を包んでくれていたマントを彼が外すと、僕は……何も着ていなかった。下着すら着けていない裸だった。あまりの恥ずかしさに飛び起きようとしたが、彼は少し笑っただけだ。
「おまえの肌は柔らかいのだな。おまえが倒れていたあの花園には、柔らかな棘のようなものがある草木もある。あれで傷ついたのだろう」
彼の手が、僕の頬に軽く触れる。少しひんやりとした滑らかな手が、僕の頬をそっと撫でて。僕はふと、彼と視線を合わせた。
〝え〟
彼の瞳を見つめた瞬間、身体の奥がざわりとした。身体の一番深いところに突然熱いものが溢れる泉が湧いた……そんな感覚だ。
〝なに……これ……〟
お腹の奥の方がじわりと熱い。そして、なんだか喉が渇く……。思わず乾いた唇を舐めてしまって。これは……この感覚は……知っている。
「あ……」
彼の髪がさらりと額を滑って……見つめる瞳はオッドアイだった。
左右の瞳の色が異なるのがオッドアイだ。彼の瞳は、左がダークブルー、右が銀色に見えた。たぶん、透明度の高いグレイなのだろうが、光の入り方なのか、銀色に輝いて見えて、その瞳を見た瞬間に、僕の全身は燃え立つようにかっと熱くなった。
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