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第6話
小野里(おのざと)瀬奈(せな)は、ゆっくりと階段を昇っていた。
『あなたはつまらないの。あなたといても、少しも楽しくないの』
数日前に婚約者から突きつけられた言葉が、今も頭の中をぐるぐると回っている。
「つまらない……か」
足が重い。瀬奈が机を置いている医局は四階だ。夜勤明けに、この階段を四階まで上がるのはつらいのだが、朝のエレベーターはとても混んでいて、患者やナースを押しのけて、医師である瀬奈が乗り込むわけにはいかない。結局、二台ほど見送ったところで諦めて、よろよろと階段を昇り始めたのだ。
数日前、仕事帰りにたまには外食でもしようと歩いていたところ、高級フレンチレストランから、腕を組んで、肩を寄せ合って出てきたカップルに出くわした。それが、婚約者と……大学時代からの親友だった。
二人は、どこからどう見てもカップルだった。いやむしろ、瀬奈と婚約者よりも、もっともっとお似合いに見えた。思わず、その場から逃げ出してしまった瀬奈に、婚約者から三行半とも言えるメールが届いたのは、その数時間後だ。
「まぁ……そうかもな」
婚約者とは、学生時代からのつき合いだ。長いつき合いだしと、お互いの両親や周囲の友人たちにも強く勧められて、昨年婚約したのだが、整形外科医として、総合病院に就職したばかりの瀬奈は激務で、とても結婚の準備などできず、その予定をずるずると先延ばしにしてしまった。そのことで責められても仕方がない。婚約者は十分に待ってくれたと思う。
「はぁ……」
婚約解消には応じるつもりだが、何せ結納まですませてしまっているので、いろいろと面倒なことになりそうだった。慰謝料をもらう立場なのかもしれないが、はっきり言って、そんなことはどうでもいい。
「金なんて……別にもらわなくてもいいや」
別にお金があり余っているわけではない。ただ、面倒なのだ。
「疲れた……」
今の瀬奈にとって、仕事と睡眠の他に時間を取られることは苦痛以外の何物でもない。
「病棟回ったら……少し寝よう」
夜勤明けの手術日は最悪だ。本来であれば、ろくに寝ていない状態で手術などしてはいけないのだが、この病院の常勤整形外科医は瀬奈一人だ。非常勤医は二名いるが、やはり手術の執刀は術後を考えると、責任を持って術後管理のできる常勤医がすべきだと思う。というわけで、基本的に手術の執刀医は瀬奈が務めることになっていた。
「手術は午後だから……二時間くらいは仮眠できるかな……」
重い足取りで二階から三階へと上がっていく。ちょっとふらっとするのは、たぶん慢性的な睡眠不足のせい……いや、食事が貧しいせいか。
「何か食べてから……少し眠ろう……」
三階まで上がったところで一休みする。情けないことだが、今の瀬奈の体力では、一気に四階までは上がれない。ぼんやりと手すりにもたれて休んでいると、ポケットの中でPHSが震えた。
〝病棟かなぁ……〟
番号表示を見ると院長だ。びっくりしてPHSを取り落としそうになる。
「は、はい……っ」
五回コールの後、やっと出ると、やはり院長の不機嫌な声。
「すみません、お待たせしまし……」
『寝ていたのか』
「い、いえっ! すみません……」
口ごもる瀬奈に、院長は苛立った口調で言った。
『小野里先生ね、島に行ってもらうことになったから』
「は、はい……?」
一瞬、何を言われたのか、わからなかった。黙っている瀬奈に、院長はいらいらと叩きつけるように言う。
『だから、島だよ、島! 半年くらい……いや、一年くらいだな。島にね、行ってもらうことになったからっ』
院長の言う『島』というのは、ここから船で二十時間ほどかかる場所だ。診療所はあるものの常勤医がおらず、瀬奈の卒業した大学から半年交替くらいで、一名を派遣していたはずだ。しかし、一人での勤務という責任の重さや、誰一人知り合いのいない場所にたった一人赴くという孤独感に耐えきれず、ここ数年はリタイアが多かったとは聞いていたが。
「い、いえ、しかし僕は……ここの常勤で……」
『君がいない間は、大学から常勤を二人回してもらえる。かえって、こっちは手厚くなるんだよ。だから、安心して行きなさい』
喜色を隠そうともしない院長の声に、瀬奈は、ああ、これはもうすでに決定事項なんだなと思った。常勤医を熱望していた院長は、足元を見られた形だ。瀬奈を人身御供に差し出すことによって、常勤医を二人ゲットしたのである。
『君、まだ独身だっただろう? 今のうちにキャリアを積んでおくの、悪くないと思うが』
手術もなく、たぶん、業務の半分以上は専門の整形外科ではなく、内科の診療をしなければならない場所で働くことが、キャリアになるのだろうか。
『まぁ、来月には行ってもらうから、いろいろと整理しておくように』
「……はい」
瀬奈はがくりと肩を落として、頷いた。
そう、これは決定事項なのだ。自分に拒否する権利はない。
ポケットにPHSをしまい、瀬奈は深いため息をついた。
「まぁ……いいか……」
結婚の予定はきれいに吹っ飛んでしまった。この病院にも必要とされていないようだ。
「いつも……こうだ」
おとなしい瀬奈は、こんなふうに貧乏くじを引くことが多い。何を言われても、何をされても、言い返したりできない。抗うこともしない。婚約者も「優しいところがいいの」と言ってくれていたのに、つき合ううちに「つまらない」と言うようになってしまった。
「いつも……」
言いたいことはある。したいこともある。でも。
〝僕が我慢すれば……いいのかな〟
いつも壁を突破する前に、瀬奈は立ち止まってしまう。いつもいつもいつも。
ふと顔を上げると、窓に映る自分の顔がうっすらと見えた。
覇気のない青白い顔。まだ三十歳になったばかりなのに、生気の失せた顔はもっともっと老けて見える。
「どこかに……」
行ってしまおうか。
ぼんやりと考える。
〝ここには……僕の居場所はない〟
誰からも必要とされない。誰からも振り返ってもらえない。そんなこの場所に、僕はもういたくない。
重い身体と気分を引きずって、もう一階分の階段を上がろうとした時だった。
「うわ……」
突然のめまいが襲ってくる。ぐるぐると回り出す視界。ぐらぐらと揺れる足元。
〝倒れる……っ〟
反射的に手すりを掴もうとする。しかし、その指は。
「わ……っ」
つるりと滑ってしまう。掴みきれない。身体が一気に前に乗り出してしまう。
「落ち……っ」
まるで後ろから突き飛ばされたかのように、瀬奈の身体は手すりを乗り越える。
「わぁ……っ!」
支えるものを失って、瀬奈の細い身体は、三階の高さから転落していった。
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