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第5話

「案ずるな。すぐに迎えに来る。おまえを……私の隣に迎え入れるための準備が必要なのだ」 「僕を……」 「そうだ」  リシャールは頷く。 「愛している、セナ。忘れるな。おまえは……私のものだ」  耳たぶを震わせる熱いささやき。身体の奥に深く愛された感覚が蘇る。 〝愛して……いる……〟  当たり前のように与えられた言葉。 〝僕は……この人を愛している……〟  愛しくて、離れたくなくて、恋しくて。  そう、人はきっとこれを恋と呼び、愛と呼ぶのだろう。  恋をするのに、時間は必要だろうか。人を愛するのに、順番は大事だろうか。  嵐の中を駆け抜けるような、そんな恋の始まり。  それは運命と呼ぶべきものなのかもしれない。抗うことを許されない、生まれ落ちた瞬間から二人に定められたものなのかもしれない。    「……はい」  うなじまで染めて、こくりと頷いたセナの瞼に軽く口づけて、リシャールは馬上の人となった。 「シモン、セナを頼むぞ」  シモンがすっと片膝をついた。両腕を交差して、胸の前に当て、深く頭を垂れる。 「お任せくださいませ。セナさまは大切にお預かりいたします。その日が来るまで」  シモンの言葉にしっかりと頷くと、リシャールは少し切なげにセナを見つめ、そして、何かを振り切るかのように一気に走り去っていった。 「リシャール……」  あっという間に視界から消えていく愛しい人の姿。立ち尽くすセナの肩をシモンの大きな手がそっと抱き寄せてくれる。 「セナさま、どうぞ、中へ」 「……」  セナは少し怯えるように、シモンを見上げた。いかつい感じの容姿だが、その瞳はとても優しい。 「あの」  ひんやりとした石造りの館の中に入り、ゆっくりと広い廊下を踏みしめる。中はどうやら二つのエリアに仕切られているようだ。エントランスを入って、右側は人が大勢いるらしく、がやがやと賑やかに声が聞こえるが、シモンがセナを招いた左側のエリアはしんとしていた。 「僕は……ここにいてもいいのでしょうか」  どういう尋ね方をすればよいのかわからず、セナは小さな声で言った。 「僕は海のものとも山のものともしれない者です。そんな僕をどうして……」 「私は幼少の頃よりリシャールさまをよく存じ上げております」  シモンは穏やかな口調で言った。 「あの方のご気性やお立場は十二分に理解しております。あの方が仰ることには間違いがありません。リシャールさまがあなたを守れと仰せになったから、私はあなたを大切にお預かりし、お守りする。ただ、それだけのことです」  シモンはそう言いながら、一つの部屋のドアを開けた。美しい花の咲き乱れる庭を見渡せるその部屋には、可愛らしいベッドと小さな木のテーブルと椅子とチェストが置かれていた。ちょうど、一人で寝起きするのにぴったりのこぢんまりとした部屋だ。 「さぁ、こちらです。この館には、私ともう一人しか住んでおりませんので、ゆっくりとおくつろぎください」 「え……?」  セナは少し目を見開いた。 「もう一人だけ?」 「はい。ニコラという、親族の子供が一緒に暮らしております。後ほど、ご挨拶いたします」  シモンの言葉に、セナは首を傾げる。 「先ほど、たくさんの人の声が聞こえたような気がしたのですが……。僕の気のせいでしょうか」  セナの戸惑い気味の問いに、シモンはおやと笑った。 「セナさまは耳がよろしいのですね。実は、この館には、病を得たり、けがをしたりした者が助けを求めてくるのです」 「病やけが……?」 「シモンさま、どちらですか? シモンさま!」  その時、甲高い子供の声がした。はっと顔を上げるセナに、シモンは微笑みながら頷いた。そして、声を張る。 「ニコラ、ここだ! マグノリアの部屋だ」  少し不規則なパタッパタッという足音がして、ドアが開いた。 「シモンさま!」  元気な声がして、さっと風のように飛び込んできたのは、栗色のふわふわとした髪が可愛らしい少年だった。年の頃は十二歳くらい。この子がニコラなのだろう。 「すぐにいらしてください! 湖の一族の者が馬から落ちたと!」 「ニコラ」  シモンが落ち着いた口調で少年をたしなめる。 「静かにしなさい。リシャールさまの大切な方がいらっしゃるのだぞ」 「シモン……さん」  セナがそっと言う。 「僕のことはお構いなく。ここに置いていただけるだけで」  そして、セナはふっとニコラを見た。栗色の髪と大きな栗色の瞳がとても可愛らしい美少年だ。無意識なのか、彼は右膝を軽く曲げて、足を浮かせるような形で立っている。 「君……足をどうかした?」 「え」  ニコラが少し後ずさり、そして、痛いと微かに声を上げた。セナはさっとニコラに駆け寄る。 「さ、座って」  部屋の中に導き入れて、椅子に座らせる。そして、その前にすっと膝をつくと、少年の足首に軽く触れて、その動きや腫れ具合を確認する。 「……少し挫いているようだね。痛いだろう?」  見上げたセナの瞳を見て、ニコラはびっくりしたように固まっている。セナはそれには気づかずに、周囲を見回した。すぐにシモンが気づいたらしく、すっと姿を消し、じきに戻ってきた。 「セナさま」  差し出されたのは、白い布を長く切ったものと薬草をつぶして、やはり布に塗りつけたものだった。包帯と、おそらく湿布の代用になるものだろう。 「こちらを」 「ありがとう」  シモンが差し出したものを受け取り、セナはニコラの足首にその薬草を当てて、くるくると器用に布を巻いていく。それは明らかに手慣れた仕草だった。 「……これでいい」  布の端を挟み込んで止めて、セナは微笑んだ。 「無理をしないように。今日と明日くらいは、あまり走ったりしない方がいい」 「……」  コクンと頷くと、ニコラはぱっと立ち上がり、少し足を引きずりながら、足早に部屋を出ていってしまった。 「いい子なのですが」  その後ろ姿を見送って、シモンが苦笑しながら言う。 「あの子が生まれてじきに母親を亡くしまして。一族の間をあちこち行ったり来たりしながら育ったもので、少し人を恐れるところがあります。すぐにセナさまにも慣れるかと……」 「あの」  シモンの言葉に、セナは少しためらいながら言った。 「その……さまはやめてください」 「はい?」  シモンが軽く首を傾ける。セナはうつむきながら言う。 「リシャールにさまが付くのはわかります。でも……僕は」 「……わかりました」  セナの遠慮がちな抗議に、シモンは優しく頷いた。 「それでは……セナと呼ばせていただきましょう。あなたも、私のことはシモンと」 「いえ、それは……」 「それでは……マスターとお呼びしましょうか?」  いたずらっぽく笑うシモンを、セナはびっくりしたように見つめてしまう。 「マスター……?」  シモンはニコラが座っていた椅子をテーブルの下に片付けながら言った。 「どうやら、あなたはけがを手当てする術を心得ておられるようだ。先ほどの手際など、私よりもはるかに慣れていると拝見しました。私は薬草の調合などには、それなりの知識がありますが、いわゆるけがの手当てはあまり得意ではありません。ニコラの方が上手いくらいです」  セナは意外な指摘に思わず固まってしまう。 〝僕が……けがの手当てに慣れている……?〟 「あなたはおそらく、ここに来る前にはそうした仕事をしていたのでしょう。ニコラのわずかな足取りの不自然さに気づいた目。ためらいのない手当ての仕方。そして……先ほどのあなたは、今のあなたと違って、怖ず怖ずとしたところはまったくなく、とても自然に振る舞われていたようにお見受けしました。いかがでしょう?」  確かに、けがの手当てをする時、不思議と手慣れた感覚があった。 〝僕は……人のけがの手当てをしたことがある……〟  一瞬、ふらっとした。思わず、テーブルに手をついてしまう。 「セナ……っ」 「大丈夫……」  頭の中で、少しずつ開いていた記憶の扉が、一気にぱぁっと開け放された感じがした。  そこから溢れるのは……光ではなかった。  光ではなく……それは。

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