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第35話 癪には触る
俺は、もやもやしながらバイト時間を過ごした。
閉店時間まではあっという間だった。
いつもなら二十時にはかなり客がひくのだが、今日は違っていた。
線路の電線に何かが引っかかっているため、電車が止まっているらしい。
二十一時過ぎに仕事を終えて改札前に行くと、人がたくさんいて、電車が止まっている旨がアナウンスされていた。
まじかよ……
再開にはまだしばらくかかるらしい。
親呼ぶか? でも家からここまで、車で片道三十分以上かかる
それとも千早……いいや、千早に連絡したら泊まらされそうだし、それだと困る。
明日の講義に使う物は家だ。
なんとしても帰らないとだけど、これ、何時に帰れるんだろう……
途方にくれていると、背後から肩を掴まれた。
さすがにもう慣れた。こんな事してくるのは、ひとりしかいない。
振り返れば案の定、白い帽子を被った瀬名さんが笑って立っていた。
「やあ、結城」
「瀬名さん……何か用ですか」
思わず冷たい声で言ってしまうが、彼は気にする様子もなく言った。
「困ってるみたいだから声かけたんだけど、送っていこうか?」
言いながら、瀬名さんは手に持った鍵を俺に見せつける。
それは車の鍵だった。
え、うそ、まじで。
それはありがたいけれど……でも、瀬名さんと、車の中でふたりきり……
大丈夫なのか……?
「そんな、不安そうな顔しなくても大丈夫だよー。変なことはしないよ、たぶん」
「たぶんて……」
でも、電車はいつ再開するかわからない。
親の迎えだって、時間かかるし……どうする俺。
悩んでいると、瀬名さんに腕を掴まれてしまう。
「悩んでると時間が過ぎていくよ。ほら、行こう?」
「え、あ……」
俺の返事を待たず、瀬名さんは俺の腕を掴んだまま歩き出す。
背に腹は代えられないか。
駅員さんが、スーツ姿の客に説明している姿が視界に映る。
それを横目に通り過ぎ、俺は腹を決める。
「す、すみませんお願いします」
「そうそう。素直に従えばいいんだよー」
と言い、瀬名さんはどんどん歩いていく。
駅から出ると、迎え待ちやタクシーに並ぶ人々が多くいて、駅前のロータリーが混みあっている。
この時間にこんなに人がいるのは珍しい。
「今朝、遅刻しかけてここまで車で来たんだよね」
「あれ、瀬名さん電車通学なんですか?」
瀬名さんの通う大学は、この駅から電車で十五分ほど行った町にある。
瀬名さんが車通学かとか、電車通学とか聞いたことがなかったな。
「あ、僕? 普段は電車だよ。車の方が時間かかるからね。電車の方が楽だし。駅まではいつも自転車なんだけどねー」
「実家ですか?」
「ううん、ひとり暮らし」
そんなことを話しているうちに、駅から少し離れた立体駐車場にたどり着く。
エレベーターで上まで行き、着いた先にあったのは、黒いハッチバックの車だった。
車に乗りエンジンがかかると、瀬名さんに住所を聞かれた。
彼に住所を伝えるのはちょっと嫌だったけど、仕方ない。素直に伝えると、瀬名さんはカーナビを操作して目的地をセットする。
到着予想時間は四十分後。まあ、それくらいかかるよなあ。
車が動き出し、駐車場を出て夜の街を行く。
電車が動かないせいか、駅に向かう道は少し混んでいた。
車の波を見つめ、俺は今日瀬名さんに言われたことを考えていた。
『君がしなくちゃいけないことなの?』
という瀬名さんの言葉は、仕事中も頭の中で繰り返されていた。
なんで瀬名さんはそんなこと言ったんだろ?
この人には、何が見えているんだ?
「アッシーて、ちょっと憧れてたんだよねー」
などと、いつの時代の言葉かわからないことを言い、瀬名さんは楽しそうに運転している。
せっかくふたりきりだし、沈黙しているのも耐えられない。
俺は意を決し、瀬名さんに聞くことにした。
「あの、瀬名さん」
「なんだい?」
「あの、ロッカーで言ってたの、どういう意味ですか?」
車内は暗いため、瀬名さんの表情はよくわからない。
「どれのこと?」
「あの、『君がしなくちゃいけないことなの』って……」
俺の口から出た声は、若干震えている。
何だよ俺、緊張しているのか?
「あー、あれねー。だって、不思議だからさー」
いつもと変わらない明るい声で、瀬名さんは言った。
「何が不思議なんですか?」
「君に執着する彼の存在も、それに従う君もだよー。本来、オメガにするようなことを、そうじゃない君にやってるわけでしょ? アルファにとってオメガなら誰でもいいのに、そうしないでわざわざ一般人(ベータ)を囲うなんて、僕には理解不能なんだ」
オメガなら誰でもいい。
なんかそう言われると引っかかる。
「ベータなんてただ面倒なだけだと思うんだよね。試しに寝てみたけど、どうってことなかったし」
……今さらりと何言った、この人?
駄目だ、瀬名さんと話してると俺の常識が狂い出す。
言われた内容を頭の中で繰り返し、俺は疑問を口にする。
「……寝たんですか」
「うん。オメガは面倒だから、ベータはどうなのかと思ってさー」
この人の貞操観念、どうなってるんだ?
試しに寝てみたって、それにのっかってくる相手がいたってことだよなあ……駄目だ、俺には理解できない。
「オメガが面倒ってどういうことなんですか?」
「アルファがオメガに執着するように、オメガもアルファに依存するんだよ。僕にはその愛情が重くてさ。一度寝ただけで番だと勘違いされたこととかあるから、面倒で」
またさらりとおかしなこと言っている。
とりあえず、瀬名さんはワンナイト……だっけ? 一夜だけの関係を厭わないんだろうな。
……俺の知らない世界だ、それ。
「それにさ、オメガの、アルファに迫れば抱かれて当たり前な風潮も嫌いなんだよ。高校の時、発情期の子に求められたけど、逃げるの大変だったんだから」
そんなことあるんだ。
てっきりオメガは一方的にアルファに囲い込まれて犯されるだけなのかと思ってた。
千早が、俺にしたように。
「求められたって何あったんですか」
「『抱いて』って言われた。学校で。その子、わざと発情期に僕の前に現れてさ。そういうの、僕だめなんだよね」
俺の常識がもろく崩れ去りそうだ。
いくらなんでも学校でそんなのやるか、普通。
「……大変なんですね、アルファとかオメガとか」
「まあ、面倒だよね。本能で求めあうんだもん。まあ、僕はそこまで本能が表に出にくいっていうか……理性の方が勝るから、誰でもいいとか思えないんだけど」
ワンナイトが平気みたいな話をした後に、誰でもいいと思えないと言われても、説得力の欠片もない。
あれか? 特定の相手を作りたくないって事なのか?
「だからさー。君の彼はなんで君を番にしようとしてるのかなって思ってさ。ねえ、何で?」
そんなことを聞かれても、理由を話せるわけがなかった。
まず、瀬名さんが信用できるかと言ったら……微妙なところだ。
ただ話している限り、貞操観念は確かにおかしいけれど、それ以外の俺や千早に対する評価はまともだと思う。
「俺には……よくわからないです」
「ってことは、君は納得して今の立場にいないって事?」
この人、本当に言いにくいことを言う。
そう言われると、俺は押し黙るしかなくって、でも沈黙は肯定と同じで。
「やっぱりそうだよね。どう見ても苦しそうだもの」
「ていうか、何でそんなに俺の事、気にするんですか? アルファの匂いがするから?」
その時、車が赤信号で止まる。
瀬名さんは俺の方を向いて、微笑んで言った。
「人が苦しむ姿って、見たくないからだよ」
「あ……」
この人は、ほいほいと俺の心を抉る言葉を口にする。
俺が苦しそうに見える。
前も言っていたっけ、幸せそうに見えないと。
「しかも、うなじに噛み痕あるしさー。気になっちゃうよね」
信号が青に変わり、車がまた動き出す。
人が苦しむ姿は見たくない……か。
そうだ、人が苦しむ姿なんて、見たくない。
だから俺は、千早に無茶な要求されて、それを受け入れて。
でもそれって、正しいことなんだろうか?
今の状況、納得しきれない自分がいる。
それはそうだろう。
だって俺はオメガにはなれない。
俺は絶対に、運命の番になんてなれないんだから。
いくら千早に求められて抱かれても、この関係はいつか終わる。
千早は運命に抗うとかなんとか言っていたと思うけれど、そんなの可能なんだろうか?
いやでも、それは宮田も一緒か。
彼もまた、運命に抗っているんだから。
「結城はあの人とどうなりたいの?」
「え? どうって……」
そう言われると困ってしまう。
どうなりたい? だって、未来なんてあるのか? この関係に。
悩んだ末に出た言葉は、
「わ、わかんないです」
だけだった。
瀬名さんと話していると、俺、丸裸にされてしまいそうだ。
「じゃあさ、やっぱり俺と寝て見ない?」
「それだけは絶対にないです」
それだけは悩まず即答すると、瀬名さんは声をあげて笑った。
「ははは。そうだよねえ。君は本当に嫌だと思ったら拒否するよね」
それはそうだろう。嫌だと思うことをやりたい奴はそうはいない……
「あ……」
瀬名さんの言葉の真意に気が付き、俺ははっとする。
千早との関係を、俺は本当に嫌だとは思っていない。嫌だったら最初から拒絶しているだろう。今みたいに。
嫌じゃないけれど、この納得しきれない感情はなんなんだろうか?
「僕と寝てみるのもありだと思うんだけどなあ」
「そんなことしたら、俺、二度とバイトいけなくなると思いますからやめてください」
「それは困るねー」
そう言った瀬名さんは、全く困る様子はない。むしろ楽しそうだ。
本当にこの人、何考えてるんだろう?
わからない。
アルファって変人なのか?
そんな話をしていると、予定よりもだいぶ早く家の近くに着く。
住宅街の、車が二台、どうにかすれ違えるくらいの通りに車が止まる。
「もう着いちゃったー。遠回りすればよかったかな」
「やめてください、遠回りってどこ寄るつもりですか」
呆れつつ俺が言うと、彼は俺の方を向き、にやっと笑う。
「僕は強引なことはしないよー。信用ないなあ」
「できるわけないじゃないですか。何回俺に、寝よう、って言いましたっけ?」
会うたびに言われている気がする。
瀬名さんは笑ったまま、俺の問いには何も答えなかった。
「ねえ、琳太郎」
急に名前を呼ばれ、腕を掴まれてしまう。
驚きその手と瀬名さんの顔を交互に見ると、彼の顔が近づきそして、唇が触れた。
……て、ちょっとまて。
俺は我に返り、瀬名さんの身体を押し返す。
「な、な、何やってるんですかあんたは!」
「ははは。君は嫌なことはちゃんと嫌だって言う子だよねー」
「当たり前じゃないですか! なんで瀬名さんにキ、キ、キスなんてされなきゃいけないんですか!」
やべえ、言ってて恥ずかしくなってきた。
「だってー、暗い顔していたから」
「そう言うのいらないです、勘弁してください」
「僕は君に笑ってほしいだけだよ」
そんなことを笑顔で言われると、なんだか気恥ずかしい。
そういうのは恋人に言えばいいのに、全く。あ、でもいないのか。
「瀬名さんは俺とどうしたいんですか?」
「寝たい」
聞いた俺が悪かった。
帰ろう。
でもこの人と話して、少し気持ちが軽くなったような気はする。
その事実を認めるのは正直癪だけど。
「寝るのは勘弁してください。でも、送っていただいたのと話できたのはよかったです、ありがとうございます」
言いながら頭を下げると、瀬名さんの手が俺の頭に触れる。
「ほんと、かわいいよねー、結城」
「そんなこと言われても嬉しくないです」
「えー? でも顔、真っ赤……」
「暗いからわからないですよね? 適当なこと言わないで下さい」
俺は瀬名さんの手から逃れ、車のドアを開ける。
「また、今度ゆっくりデートしようよ」
「デートはしないです」
「つれないなあ。気が変わったら連絡……」
「しません」
俺は言い切り、勢いよくドアを閉めた。
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