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第56話 喪失

 「あいつから電話が来て、俺、すぐにお前を連れ返そうと思った。けれど……あいつに俺がお前の心を壊してると言われて……分かってはいたけど、人に言われるとけっこうくるな」  そして、千早は苦笑する。  あいつ、て、悠人さんのこと、だよな。  さっきの電話でそんなこと言ってたし。 「連れ戻す、なんて考え自体おかしいのか、顔を合わせるのはいけないのか。悩んで俺は、ここに来た。俺はお前をずっと手元に置いておきたかった。閉じ込めて、俺だけのものにしたかった。俺の父親が『母親』にそうしていたように」  千早の、母親。  家に遊びに行っても、泊りに行っても会うことは一度もなかった。  アルファの母親だから、オメガ、なんだよな……  瀬名さんの親も母親を閉じ込めてると言ってたな。宮田の知り合いのオメガも、閉じ込められてそれを当たり前だと思ってると。それが普通なのか?  俺の髪を切ってくれたオメガの美容師さんみたいに、外で働く人もいるのに。  俺も、そうなっていたかもしれないのか。  そう思うと、胃が冷えるような思いだ。  閉じ込められるなんて、俺はそんなの……受け入れられない。  俺の頬から手を離しそのまま手を俺の肩に置く。そして千早は俯き、苦しげに息を吐く。   「今からでもそうしろと、叫んでる……」 「ち、はや……?」 「今からお前を連れ帰って……そうしたらずっと、一緒にいられる?」  まるで、自分に問い掛けるかのように千早は呻く。  明らかに様子がおかしい。  五月の、俺を部屋に連れ込んだ時の様子に似ている。  そう思うと、足が震えてくる。   「お前はオメガじゃないのにな。俺の本能は、お前をオメガとして扱えと訴えてくる。そんなの間違ってるのに」  震えながら、千早は嗚咽混じりに呟いた。 「なんで、そんな事になるんだよ……」  怯えた声で俺が呟くと、千早は首を振る。 「俺の本能は、どこかおかしくなっているんだろうな。それは自覚しているよ。宮田に拒絶された時から少しずつ。たぶん、あの五月の出来事が一番大きいかな。あの時俺の本能は、お前を番にしろと叫んでいた」  本能がおかしくなる。  それがどういうことなのか俺にはわからない。  千早が正常じゃなかったのはわかる。でも、今もそうなのか……?  さっきまでの言動は普通だと思う。  でも今は……?  狂気と理性の間で、揺れ動いてるみたいだ。  千早が顔を上げる。  獣のような瞳をしてるのに、顔は苦しみで溢れてる。  この瞳で見られると、俺は囚われた草食動物のようになってしまう。  逃げることなど許されず、喰われるのをただ待つだけの。  背中を汗が流れていく。  これは、暑さのせいか、それとも恐怖のためなのか。  逃げなくちゃ、とっさにそう思うのに、俺の身体は全然動かない。  どうしたらいい、俺。  このまま俺は……どうなるんだ?  怯えていると、千早が目を閉じた。  そして、次に開いたとき、獣の影は消えていた。  黒い双眸に、俺の顔が映ってる。  泣きそうな顔で千早を見ている。 「お前の前で俺は、ただの人、だったのにな」  ただの、人。当たり前な事なのに、すごく重い。  俺たちにとって当たり前な事が、当たり前じゃないんだな、千早にとっても……宮田や、瀬名さんにとっても。   「運命は俺の手から逃げていき、だから俺は別の運命を掴もうと思った。掴みたかった。お前の意思など関係なく」  それは、千早がそんな愛情しか知らないからだろう。  束縛することが愛情だと俺は思わないけど……でも俺は、本来なら選ばれることなんてないのに、選ばれそして、その愛情を注がれていた。  狂い壊れるほどに。   「今は……何にも考えらんなくて……俺……ごめん、千早」  今の俺は、千早の想いに答えることができない。  それでも、千早の想いはわかったし、俺の想いも言えた……かな?  千早は首を振り、 「会えて良かった」  と、哀しげに微笑む。   「俺は、運命に抗いたかった」  運命なんて俺考えて生きたことねえよ。  なのに、この二か月近く、その言葉を何度も耳にした。何度も考えた。  もし、千早がその運命から逃れられたら俺と、ちゃんと向き合えるのか?  千早の片手が俺の頬に触れ、顔が近づく。  心のどこかで、俺は千早に恐怖を抱いてる。  でも、それよりも大きいこの感情は……わかってはいるけれど今の俺に、その感情の名前を認識する余裕はなかった。   「ありがとう、琳太郎」  額にわずかに唇が触れ、そして、千早は離れて行く。  やだ。  離れたくない。  やだ。  今一緒にいたらきっと俺の傷は、増えていく。  わかってるんだ。  今は離れたほうがいいって。  なのに。  捨てられるような気持ちになるのは何でだよ?  涙で視界が歪む。   「ち、はや……!」  とっさに俺は千早に手を伸ばし、その腕を掴む。  すると彼は驚いた顔をして立ち止まり俺を見る。   「琳太郎……?」 「お、れは……」  そこで言葉が詰まる。  捨てないで。  怖い。  言葉がまとまらない。 「そこまでだよ、琳太郎」  後ろから抱きしめられそして、千早から引きはがされてしまう。 「あ……」 「言ったでしょ? 心が苦しい時に大事なことを決めようとすると判断を見誤るよ」  瀬名さんの声。  千早の表情が、一気に険しいものになる。   「瀬名……悠人」 「また呼び捨てにするの? まあいいや。そう言うことだから、今は僕が預かるよ。いいよね、千早君?」  挑発するような言い方が、瀬名さんらしくない。  その声は千早のあの声と同じ響きを持っていた。  聞いた相手を従わせる、威圧的な声。  それを聞くと俺の心は委縮してしまう。  ――その声は、嫌いだ。  千早は視線を反らした後頭を下げそして、 「ありがとう、ございます」  と、苦しげな声で言い、こちらを見ることなく背を向ける。  俺は去る背中に思わず手を伸ばす。  待って。  置いて行かないで。  。   「琳太郎」  耳元で、瀬名さんの落ち着いた声が響く。 「ほら、落ち着いて。汗かいてるから、中で水を飲もう」  その言葉に俺は、嗚咽でしか答えられなかった。  瀬名さんの部屋。  何とか着替え、ベッドに寝転がる。  俺は丸くなって震えて、ただ泣くしかできなかった。  千早に捨てられた?  違う、そうじゃない。  わかっているのに。  喪失感が半端ない。 「琳太郎」  名前を呼ばれたけれど動くことができず、俺は毛布を被ったままでいた。  すると、毛布がはがれ、肩を掴まれたかと思うと、顔が近づき唇が重なる。  唇の隙間から水が流れ込み、口の端から漏れてシーツを濡らしていく。  大半の水は俺の口の中を流れ、喉奥へと侵入していく。  唇が離れ息をつくと、またすぐに口づけられ、水を飲まされてしまう。  と同時に、舌が入り口の中を舐め回された。  何をされているのか、理解が追い付かない。  しばらく舌が俺の口の中を弄んだあと、唇が離れそして、瀬名さんと視線が絡む。  眼鏡をかけていない瀬名さんの顔は、ドキッとするくらい綺麗に整っている。  彼はにこっと笑い、 「落ち着いた?」  と言った。  落ち着いた、だろうか。  自分ではよくわからない。  瀬名さんの指が俺の頬を撫で、 「酷い顔になっちゃったね」  と言い、目元に口づけてくる。   「ちょ……なに、して……」 「泣いている子は放っておけないんだよ」  だからってキスするかよ?  ていうか、水を飲ませる手段、キス以外にあるよな?  ねえ、あるよな? 「たぶん混乱して追いかけようとするんじゃないかと思ってさ。ちょっと様子見てたんだよね。行って正解だったよ」  それについては図星過ぎて何も言い返せない。 「僕は今、君を彼に渡す気はないよ。それは彼も十分理解したでしょ? だから琳太郎。君は今、ここにいたらいいよ」 「悠人……さん」 「だからとりあえず、今日は僕と一緒に寝ようね。だってー、今日は僕の誕生日をお祝いした日だもん。それくらいのお願い、聞いてくれるよね」  いや、もう日をまたいでいるとか、その理屈なんか変じゃないかとか色々突っ込む余裕はなく、瀬名さんは俺の隣に寝転がりそして、俺をぎゅうっと抱きしめた。  匂いがする。  瀬名さんの纏う、優しい匂いが。 「もう疲れたよ僕は。寝よう。そしていい夢見て、いい気分で起きようよ」  そして瀬名さんは大きく欠伸をした。  いい夢を見て、いい気分で……か。  いい夢ってなんだろうな。  ……分かんねえよ。  俺は瀬名さんの胸に顔を埋め、 「おやすみ、なさい」  と何とか口にして目を閉じた。 「おやすみ琳太郎。いい夢を」 

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