55 / 66
第55話 会いたくて会いたくない
自動ドアを出ると、むわっとした空気が肌に纏わりつく。
「琳太郎」
聞きなれた低い声に、俺は思わずびくり、と身体を震わせた。
恐る恐る、声がした方を見る。
マンション入り口の横、街灯から少し外れたところに、黒い影がある。
闇に溶ける様な黒いパンツと、黒いTシャツ。
茶色に染められた少し癖のある髪。
二重の瞳を細め、俺を見ている。
「琳太郎」
「ち、千早……」
顔を見ると、いっきに色んな記憶が頭の中を流れていく。
千早に犯された日の事、その時の自分の感情、悲しみと、苦しさと……抗いようのない快楽。
足が震え動くことができずにいると、千早は小走りに近づいてきて俺を抱きしめた。
大丈夫だって思ったのに。
いざ千早を目の前にすると、どうしたらいいかわからなくなってしまう。
『心が疲れてるときは決めないほうがいいよ』
という、瀬名さんの言葉を思い出す。
今、俺は何かを決めたいわけじゃない。
俺の今の気持ちを伝えたい。
千早に。なのに、唇が動くどころか、息が苦しくなってくる。
「ち、はや……」
「無理に、喋ろうとしなくていいから」
苦しげに言い、千早は俺を抱きしめる腕に力を込めた。
「会えて、良かった」
俺は迷い、そして、重い腕を上げ、千早の背に回す。
なんだろう。
千早がなんだか小さく思える。
気のせい、かな。
「琳太郎」
「……うん」
「俺がお前にしたことはいくら謝っても許されるものじゃないって思ってる。お前を、こんな風にしたのは俺自身だ」
「千早……」
「運命の番なんて、最初は信じていなかった。なのに、俺の前に宮田が現れて。でも、彼は俺を拒絶した。そして俺は……お前を……」
そこで千早は口を閉ざす。
あの五月の日の出来事。
あの日、俺が千早を止めなかったら、こんなことにならなかったんだろうか?
でもそうなったら俺は、宮田と言う友人を失っていたことになる。
だからあの時の事、俺は後悔なんてしていない。
「千早、俺は……お前と、友達でいたかった」
高校から大学生になって、関係が変わるなんて思わなかった。
世界が広がるだけで、まさか千早とあんなことになるなんて思っていなかった。
きっと、元の関係になんて戻れはしないだろう。
それだけ俺と千早の関係は、歪なものになってしまっている。
身体は繋がっていても、心の繋がりは……切れてしまった。
五月の、千早の部屋で。
「……それを、壊したのは俺だ」
「うん」
「元には、もう、戻れないほど、俺はお前との関係を壊してしまった」
「……うん」
壊れたものを直すのは無理だろう。
でも……
「創る、ことならできるんじゃない……か?」
壊れたなら創ればいい。
その結果、同じものにはならないだろうけれど、別の形にならできる。
破壊と創造って、ペアみたいなもんだよな。
俺は、千早を抱きしめる腕に力を込める。
「琳……」
「俺……今はまだ分かんないけど……俺、千早に言いたかった。友達でいたかったって。俺は、千早と、一緒に……普通に、過ごしたかった……よ?」
最後は涙声になり、まともに喋れなくなってしまう。
千早は息を飲み、そして、
「ごめん」
と、泣きそうな声で言う。
どこで間違えたんだろう。
なんでこうなったんだろう?
誰のせいでも……ないと思う。
アルファとかオメガとか。
そんなの俺には関係ないはずだった。
なのに、そんな運命に縛られた友人たちが運命に翻弄されて……抗おうともがいている。
今まで知らなかった世界。
そう言う意味では、俺の世界、すげー広がったんだな。
千早。宮田。悠人さん。
彼らに出会わなければ俺、アルファとかオメガとかに関わることもなく、その苦しみや悲しみも、知ることもなかったんだから。
「琳太郎。最初は、俺、お前を番にしようと思っていた。運命の番の身代わりに。そんなの、間違っているとわかっていても止められなかった。いくら謝っても許されるわけじゃないけど俺は……今、お前と、一緒にいたいと思うよ」
千早の言葉は、最後の方は嗚咽交じりの声になっていた。
……千早、泣いてる?
こいつが泣いてるのなんて、見たのいつ振りだろう?
いや、ないかも……
一緒にいたい。
「……身代わりじゃなくて?」
「身代わりじゃなくて、俺は、お前がいいんだよ、琳太郎。オメガとか、アルファとかそんなものを越えて、俺はお前を選びたいってそう思ってる。お前がいなかったら俺は……運命の番に拒絶されたことでとっくに壊れていたから」
運命の番ってなんなんだろ?
こんなにも人を狂わせるものなのかよ?
ただひとりに拒絶されたことで心を壊してそして、俺の世界を歪ませて。
謝ってすむ話ではないだろう。
それは今の俺でも理解できる。
千早が悪いのは確かだ。
そして、千早自身、何が悪いのか理解している。
なら俺は……何を選んだらいい?
今はまだ、その答えを出す時じゃないんだろう。
「ご、めん……俺……」
出た声は涙交じりで、まともに言葉にならない。
すると千早は腕の力を緩め、俺の顔を見つめ両手で俺の頬に触れる。
その目には、確かに涙が浮かんでいた。
「無理に、答えを出さなくていい。俺が犯した罪は、そう簡単に償えるものじゃないから」
「ち、はや……」
「俺は、お前を選んだ。それに、嘘はないから」
千早の真剣な瞳に、俺の心が揺らぐ。
「千早、俺……まだ、何にも考えられなくて……」
言いながら、俺は視線を下に落とす。
俺はどうしたいんだ?
千早と……俺は。
「時間はいくらでもある。急いで結論を出さなくて、大丈夫だから」
時間はいくらでもある。
瀬名さんと同じことを言っている。
その時間を、俺は生かせるだろうか?
ともだちにシェアしよう!