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第58話 いつもと違う火曜日

 調子が悪いながらも、一日が過ぎていく。   「結城、昨日よりも変だよ、大丈夫?」  昼休み。  食堂で向かい合う宮田が心配そうに言ってきた。  正直、大丈夫じゃない。  夕方が近づくにつれ、確実に身体が不調を訴え始めていた。  変な汗は流れるし、胸に痛みを覚える。   「もう帰ったら? 僕送っていくよ?」 「だ、大丈夫だから」  言いながら、俺は首を横に振るが、宮田はひかない。 「家帰れば車あるから、送ってくよ、今日」  強い口調で言われ、俺は頷くしかできなかった。 「あぁ、ありがとう」  内心悪い、と思いながら、自力で帰るのも不安で、そこは宮田の言葉に甘えることにした。  何とか残りの講義を終え、時刻は十六時四十分。   「僕、車取りに行くから、食堂で待ってられる……?」  宮田の不安そうな声に、俺がどれだけ見た目的にヤバそうなのか、自覚する。   「外、雨だしさ、歩くのも大変だろうから少し待ってて」  その言葉に、俺は黙って頷いた。    食堂の窓際の席にひとり、俺は腰かける。  ここに人影は少ない。  俺はテーブルに突っ伏し、雨の降る外を見ていた。  庭に植えられた木から、滴が垂れていくのが見える。  梅雨はいつまで続くんだろ?  天気予報なんて気にしてないので全然分かんねえや。  検索すればいいんだろうけど、でも、そんな気力すら起きない。  俺、どうしちゃったんだろ? ほんと。  千早と離れたの、本当に正しかったんだろうか?  千早、もう帰ったかな。  スマホは相変わらずメッセージの着信を知らせない。  千早。  本当に俺の事……  違う。  千早に捨てられたわけじゃないことくらいわかっているのに。  なのに俺は、そう考えてしまう。  そう思ってしまうほど、俺は千早に依存していたんだろう。  少しあいつから離れて、わかったことがある。  俺は、千早からされたこと、きちんと認識しようとしなかった。  もし認識してしまったら、俺はとっくに、心を壊していただろう。  だから俺は……自分を守るために、千早に犯された、という部分を見ない様にしていた。  これは、宮田を守る為だと自分に言い聞かせて。  これは、千早の為だと言い聞かせて。  でも俺の心は確実に傷を負い続け、誤魔化しきれなくなってきて。  瀬名さんの言葉で俺はその異常さを認識することになって。  俺は、間違っていたんだろうか?  千早を拒絶していたらよかった?  そうしたら、あいつはどうなる?  起きたことはもうどうにもならない。  そんなのはわかってる。  じゃあ、どうしたらいいんだろう、俺。  これから。  千早と。  やべえ、千早のこと考えたら息が苦しくなってきた。  胸も痛いし。  ……また、発作?  過呼吸だっけ。  俺、やばいのかな。  頭の中に、土曜日の出来事が鮮明に浮かぶ。  千早の背中。  追いかけたかった。でも、追いかけちゃいけないんだ。 「……結城、ねえ、結城ってば」  降ってきた声に俺はゆっくりと顔を上げる。  霞む視界の中に、宮田の啼きそうな顔が映る。  あれ、もうそんなに時間が経ってる……? 「苦しそうだけど、大丈夫? 誰か呼ぶ?」  焦った様子で言う宮田に、俺は首を振る。  そんなことしなくていい。  誰にもこんなの喋れねえし。   「……結城……まさか……」  宮田が、驚いた様子で呟くのが聞こえる。  何がどうしたのかわからないが、俺はなんとか立ち上がり、 「大丈夫、だから」  と、かすれた声で言った。  宮田がなぜか、泣きそうな顔をしている。 「う、ん……とりあえず、行こうか」  俺は宮田に支えられながら、裏の駐車場へと向かった。  傘が必要かと言われると微妙な雨が降っている。  宮田の、青い軽自動車に乗せてもらい、俺は大きく息を吐く。  灰色の空。  降り続ける、小雨。  車内に流れる音楽はゲーム音楽だ。   「とりあえず、家まで送ればいい? それとも、うちで休んでいく?」  その問いに、俺は答えることができなかった。  息が苦しい。 「と、とりあえずうちに行くよ。最悪泊まったっていいから」  焦った様子で言い、宮田は車を動かし始める。  あっという間に彼のアパートに着き、車を降りる。  宮田のアパートに来るのは二度目だ。  俺は宮田に支えられつつ、彼の部屋に入る。  リビングで横たわると、宮田が毛布を掛けてくれた。  室内はむわっとしている。   「エアコンいれたから、しばらくしたら冷えるからね。ちょっと我慢して」  ごめん、も、ありがとうも言えず、俺はただ、丸くなって寝転がるしかできなかった。   「結城……」  その手が、俺の頭に触れる。  俺はとっさにその手をぎゅっと握った。 「え、ちょ……」  宮田の手、温かい。  大きく息を吐き、気持ちが落ち着くのを待つ。   「……大丈夫、だからさ。僕、そばに、いるから」  つっかえながら宮田が言い、俺は黙って頷いた。  どれほどの時間そうしていただろうか?  気が付いたら俺は眠っていたようだった。  夢を見た。  千早の背中を追う夢を。  すぐそこにあるのに、千早に手が届かない。  苦しくて、辛い夢。   「ち、はや……」  名を呼び、はっとして目を覚ます。 「あ、起きた?」  宮田の声に、俺は混乱して辺りを見回す。  見慣れない部屋。  俺のそばで膝を抱えて座る、宮田の姿。  流れている音は多分、テレビの音だろう。  徐々に意識が覚醒し、どうして宮田の家にいるのか思い出す。  あぁ、そうだ。  苦しくなって、俺、宮田の家に連れてきてもらったんだっけ? 「よかった。どうしようかと思ったよ。落ち着いた?」  そう問われ、俺は身体を起こしながら辺りを見回す。  時刻は、十八時前。  一時間弱、寝てたのか、俺。 「あ……うん。悪い、俺、調子悪くて」 「大丈夫、だよ……びっくりはしたけど」  それはそうだよな。  俺だってこうなるまで過呼吸とか知らなかったし。 「落ち着いたなら良かったよ……ねえ、結城」 「何?」  宮田を見ると、なぜか顔を伏せている。  何かを悩むかのように、視線を動かして。 「あのさ……ちょっと聞こうか悩んだんだけど、でも、その苦しそうなのが関係あるのかもって思ったから聞くんだけど……その首の傷、まさか、彼につけられたの?」  その言葉に、俺は心臓を鷲掴みにされたような気分になった。  首の傷。  千早に噛まれた痕。  俺は思わず右手で首に触れる。  見ることはできない首の傷に。  そして俺は、無言で頷いた。 「身代わりの意味がずっとよくわかんなかったけど……まさかそんなことになってるとは思わなかった。ごめん……僕、無関係なんかじゃない、よね」 「……お前には関係ないよ」  即否定すると、宮田は驚いた顔をする。  そして、身を乗り出し、俺に迫ってきた。 「なんで? 僕が無関係なわけないでしょ? だって、僕が彼を拒絶したから。あの日、あの場所から逃げたから、結城は彼に噛まれるような関係になったんじゃないの? 違うの? 僕の知らない所でそんなことになってるなんて……」  宮田、お願いだから、その先を言わないで。  わかってる。だけど、それを言われたら俺は……  宮田の目に、涙が浮かぶ。 「僕はそんなの、望まないよ。結城を苦しめてまで、僕、今の生活を守りたいなんて思わないよ」  わかっていたことだけど、いざ言われると苦しいな。  その言葉。  それでも俺は宮田を守りたかったし、千早の心を守りたかった。   「わかってるよ、そんなの」 「結城……」 「それでも俺は、お前を守りたかったし、千早を、守りたいと思った」  すると、宮田は大きく目を見開く。 「守りたいって……」 「人が苦しむ姿って、見ていたくねえもん」  そうだ。  俺が今の立場になろうと思った一番の理由はそれだ。  人が苦しむ姿は見たくない。  だから俺は……納得していなくても、千早の申し出を受け入れたんだから。   「で、でも、本来は僕が彼と対峙すべき問題じゃない? 僕が『運命』を拒絶したから、結城は彼に……」 「千早、苦しそうだったから」  俺が言うと、宮田は口をぎゅっと結んだ。  きっと、宮田にはわかるんだろうな。  運命に拒絶された、っていう意味が。  宮田もまた、それを見ない様にしていたのかも。  自分の行動によって、ひとりの人間を、狂わせたんだから。  宮田が俯く。   「……僕はちゃんと、向き合わないと、だね」  苦しげにそう呟く。  向き合うってどうするんだ、こいつ。  宮田は首を振り、そして顔を上げて腕を伸ばし、俺の首に抱き着いてきた。 「ちょ……」 「僕は結城が苦しむ姿、見ていたくないよ。ごめんね、見ようとしなくて」 「宮田……」 「僕の運命への決着は、自分でつけないと。ごめん……ありがとう」  宮田の腕に力がこもる。  ありがとう。  その言葉に、少しだけ救われる気がした。  俺のした事は、無意味じゃないと。

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