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第63話 選ぶとき

 七月十六日土曜日。  十三時からのアルバイトの日だ。  先週までは雨続きだったが、今週は曇りの日が続いていた。  今朝も曇りで、俺が家を出て駅に着いた頃には、雨と雷が鳴り響き危うくびしょ濡れになるところだった。  今も雷が鳴っているのが聞こえる。  帰りは雨、やむって言うけど、大丈夫なんだろうな……  不安に思いつつ、俺はロッカールームの扉を開けた。  案の定、瀬名さんが先に準備をしていた。   「おはよう、琳太郎」  エプロンの紐を後ろで縛りながら、彼は言った。 「おはようございます。雷、音すっごいですね」  室内だと言うのに、雷の音が地鳴りのように鳴り響いている。  雨もさっきよりひどくなっているような気がするし。ほんとにやむのか、これ。  瀬名さんは、窓の方へと目をやる。  ロッカールームなので、窓は曇りガラスになっていて外は見えない。  だけど、雷が光っているのは見える。   「そうだねえ。でも、こういう雨ってすぐやむし」 「停電とかしないっすかね?」 「あー、会計中に停電になったらシャレにならないかも」  笑いながら瀬名さんが言うのを聞きながら、俺は自分のロッカーを開ける。  エプロンなどの一式を出してバッグを中にしまった時。 「琳太郎」  と、俺の名を呼び、瀬名さんは俺の首に抱き着いてきた。 「ちょ、あ……」  自分の顔が真っ赤になるのを感じ、焦るあまり変な声が出てしまう。 「だいぶ匂いが薄い」  と言い、彼は俺の首に顔を埋める。  何やってんだこの人はっ!  バイト先だってのに。  だ、だ、誰かに見られたらどうすんだ。   「ゆ、悠人さん?」 「何」 「あの、誰か来たら……」 「この時間に来る人はいないよ」  確かにそうだけど。  とはいえ俺は落ち着かない。   「琳太郎の匂いがするからさ。いつも彼の匂いが強くてわかんなかったけど」  俺の、匂い。  ってなんだよそれ。  するとしたらボディソープとか、シャンプーとか……今ならたぶん汗の匂いの方が強いぞたぶん。 「琳太郎の匂い、憶えておきたくて」 「な、何言ってるんですか全く。そろそろ……離してください」 「あぁ、時間になっちゃうね」  笑いながら言い、でも名残惜しそうに、ゆっくりと瀬名さんは離れて行く。  解放された俺は、エプロンを抱えたまま制汗スプレーを吹き付ける。 「そうそう、それする前にさー、匂い確認したかったんだよね」 「変態ですかその発想」 「うーん、そうかなあ……そうかも」  否定しねえのかよ。  俺は制汗スプレーをロッカーに放り込み、エプロンを身に着ける。   「準備が出来たなら行こうか」 「え? あ、はい」  いつもは先に行くのに、珍しい。  そう思いながら、俺は瀬名さんと一緒にロッカールームを出た。  翌日。  日曜日、瀬名さんとの約束の日だ。  瀬名さんに渡すプレゼントは、いつも持ってる紺のショルダーバッグに入れた。  宮田にはなんか色々言われたけど、デザインに一目ぼれしたんだ。  天気は曇り。  降水確率はゼロだと、スマホは言っていた。  十時少し前に、メッセージが届く。  瀬名さんから、到着の知らせだった。  俺は、母親に遅くなることを告げて家を出た。  曇りでも気温は高く、三十ど近くになるらしい。  うちのそばに止まる瀬名さんの車を見つけ、俺は小走りで向かった。  ドアを開け、シートに腰かけてドアを閉める。 「おはようございます」 「おはよう。体調は大丈夫?」 「大丈夫です」 「そう、ならよかった」  俺の体調は、だいぶ良くなった、と思う。少なくとも、このところ過呼吸は起こしていないし、胸の痛みも感じていない。  大丈夫だ。  俺は。  そう思い、俺はバッグの紐を握りしめた。 「だいぶ顔色はいいね」  そう言われるとほっとする。  目的地まで、車で五十分くらいはかかるだろうか。  途中、コンビニで飲み物を買い、俺たちは目的の美術館へと向かった。  県立美術館は、日曜日と言う事もあり混みあっていた。  展示会の名前は「漫画の技法展」ということで、生原稿だとか、現行を拡大し解説などがされていて面白かった。  一部写真撮影もオッケーになっていたけれど、そういう空気ではなく、写真を撮る勇気はなかった。  美術館て、静かすぎるんだよなあ……  いくら撮影オッケーのマークがあっても、あの静かすぎる空間で写真をとるのはなかなか難しい。  でも、瀬名さんは違っていて。  けっこう写真撮りまくってた。 「だって、初版本まであるんだよ? 撮らないわけにはいかないでしょ」 「いや、わかってるんですけど……空気が、無理って言うか」 「琳太郎は、人の目を気にしすぎだよ」  そうだろうか……そうかな。  それでもあの空気は苦手だ。  美術館の展示を楽しんだあと、遅めの夕食をとり、俺たちは郊外の大きなショッピングモールへと向かった。 「とりあえず、本屋行こうかー」  瀬名さんは声を弾ませて言い、俺の腕を掴んで歩き出す。  まあ、そうだよな。  瀬名さん、ちょっとでも時間があれば図書館や本屋に行くもんな。  瀬名さんは、本屋で何冊もの本を買い、重いエコバッグを抱えて満足そうだった。  一方俺は、この間散財した為新刊を一冊買っただけだった。   「いい買い物出来たよー」 「よかったですね。本、車に置きに戻りますか?」 「え? 大丈夫だよこれくらい」  いや、そのエコバッグ、破けねーかな?  ハードカバーの本、五冊以上あったよな……  まあ、瀬名さんが言うならいいか。  その後、ふたりで服を見たり、アクセサリーを見たりして。   「服ってどこで買ってるんですか?」  と聞いたら、俺でもなんとなく知っているお高めなブランドの名前が出てきた。  それっていくらするんだよ…… 「まあ、そこまでこだわりがあるわけじゃないけど。いいな、と思った服がそのブランドに多いってだけで。だから、こういうところではあんまり服買わないなあ」  この人、大きな病院の息子でしたっけ。  金持ちは違うんだな……  俺なんてセールのTシャツとかめっちゃ見るのに。  アクセサリーショップに寄った時、瀬名さんはやたらピアスばかり見ていた。  瀬名さんに、ピアスの穴はない。  俺も開けてないし、千早もしてないな。   「親が絶対にピアスはだめって人だったから、開けたくて仕方ないんだよね」  と言い、彼は十字架のついたピアスを手に取る。 「……何ですか、その、子供っぽい発想……」 「え? ほら、やるなよ、って言われたらやりたくなるじゃない? もうハタチになったからいいかなって。どうせ、父とは全然顔合わせてないし」  そして、瀬名さんはピアスを物色し始める。  あ、顔合わせてないんだ。  千早も親とはあんまりだし、宮田も事情ありだし、瀬名さんもだし。  普通の家庭で育った俺にはけっこう衝撃だよ。  オメガやアルファの家庭って、なんかみんなおかしいのかよ?   「琳太郎は、ピアス開けたいって思わないの?」 「俺ですか? うーん……あるようなないような」  憧れる気持ちはちょっとだけある。  芸能人とか、アーティストとかけっこう開けていて、お洒落だな、と思うときはある。  だけど、穴をあけるのは抵抗があり、開けてない。 「呪縛なんだよね、父の言葉って。なんか、やるな、って言われたことをやったらその呪縛から逃げられそうな、そんな気がしてさ。そういうのって、気持ちの問題だから、こんなので気持ちが変わるなら安いと思うんだ」  瀬名さん、父親の呪縛とか感じてるのか。  でも進路でケンカしたと言っていたし、そこまで父親が怖い、みたいな印象はないけど…… 「どうせ、実家に戻らなくちゃいけない時が来るしさー。少しでも今できることをやっておきたいんだよね」 「悠人さんて兄弟は……」 「いないよ。そんなのいたら、父は『母』を独占する時間が短くなるじゃないか」  そして瀬名さんは、ガラスケースの中にあるひとつのピアスを指さす。 「あれとか、綺麗だなって」  指差した先にあったのは、白いのに青く光る石が付いたピアスだった。  ムーンストーンと書かれている。  月の石、ってそんなのあるんだ。  シンプルでつけやすそうだけど、お値段がそこそこする。  六千円かあ…  お店にあるアクセサリーの大半は数千円程度で、自由にさわれるようになっているけれど、比較的価格の高いものはガラスケースにいれられている。  ひとりでざわついていると、瀬名さんは店員さんを呼び、そのピアスを欲しいと伝えた。  あ、まじかよ買うのかよ。  ピアスに六千……  俺には考えられなかった。  瀬名さんは何やら店員さんとやりとりした後、袋を受け取り戻ってくる。  そして俺に、小さな小さな紙袋を差し出した。 「ひとつあればいいから、もうひとつはあげるよ」 「え? いや、え?」  ピアス……  ひとつあればいいから、というのは分かる。  でも……こんなのほいほいひとにあげますかね……  まあ、すごく高いってわけじゃねえけど。 「でもなんで……」 「だから、一個あればいいからさ。それにムーンストーンて、名前がよくない? 月の石ってファンタジーぽくって」  そう言われると確かにファンタジーっぽく思える。  つけるかどうかは別として、俺はそれを受け取りバッグにしまう。  そして、バッグの中に入っているアレの存在を、ちらり、と確認した。  ……今じゃ、ねえよな。  渡すなら帰りだ。  それに話をしないと。  俺は。ちゃんと。  瀬名さんと話さないと。 「夕飯までに帰らないととかある?」 「夕飯食べてから帰るって言ってあるんで、大丈夫です」  そう答えると、瀬名さんは嬉しそうに笑いそして、 「じゃあ、うちで夕食を食べてから帰ろうか」  と言い、ピアスの入った袋をトートバッグにしまった。  うちで夕食を食べよう。  その展開は予想外だった。  まあ、今時いくらでも夕食頼んで運んでもらえるもんなあ……  夕食食べて帰る、と言った手前、断ることができず俺は素直に瀬名さんの家に来てしまう。  ……外で食べたいと主張すべきだっただろうか。  でも絶対、なんだかんだ言って、この人俺を家に連れてこようとする気がする。  そう思い、俺は諦め、届いたハンバーグを黙々と食べた。  これ食べたら渡して帰る。  これ食べたら渡して帰る。  そう、自分に言い聞かせて。  食事を終えて片づけたあと、やっとチャンスがやって来た。 「あの、悠人、さん」 「何?」  ソファーの隣に座る彼は、微笑み頬杖ついて、こちらを見ている。 「あの、えーと、渡そうと思っていたやつ」  どぎまぎしつつ、俺はバッグから紺色の細長い箱を取り出す。  白いリボンをかけられたその箱の中身が、瀬名さんに渡したいものだった。  宮田には、重いだのなんだの言われたけど。 「アクセサリーっぽい」  えぇ、そうです。  その通りです、アクセサリーです。  俺にはこの程度しか思いつかなかった。  でもこれを見たとき、瀬名さんぽい、と思ったから買った。  そんな高いものじゃないけど。  彼は笑顔で受け取りそして、 「ありがとう、開けていい?」  と言って、その箱をテーブルの上に置く。 「あ、はい、開けください」  瀬名さんはリボンをとき、箱を空ける。  中に入っていたのは、本のモチーフが付いたネックレスだった。 「あはは。僕っぽいね」  言いながら、瀬名さんは箱の中からネックレスを取り出す。  そしてフックを外し、首にかける。 「ありがとう」  と言い、彼は目を閉じネックレスの飾りに手を当てる。  言わなくちゃ、言いたいこと。言わないと、今しかないから。  俺は胸に手を当てて、深呼吸をし、そして一気に言った。 「いっぱいお世話になったから……だから何かお礼がしたいなあって思ってそれで……」  言いながら、視界が歪み始める。  あれ、なんで俺、泣いてるんだろう。  俯き俺は、手の甲で目元に触れる。  そして、手の甲に着いた雫を見て、やっぱり泣いていると自覚する。   「僕としてはこの隙に、彼から君を奪い去りたかったんだけどなあ」  相変わらず、本気で言っているのか冗談で言っているのか判断しにくい、笑いを含んだ声がする。 「彼は君を傷つけた。自分が運命に抗う為に、君を利用したのは赦せないんだよね。まあ、それだけ運命の力は強い、ともいえるけれど。運命に抗うために払う犠牲が君の心だっていうのが、僕には度し難い」 「た、確かに俺は……利用されたかもしれないけどでも……俺の世界に千早は、必要だって、思ったんです。俺、ずっと千早の事ばかり考えてて。会うともしかしたら、最初の恐怖を思い出すかもしれないけど。でもそれでも俺は……千早と一緒に過ごしたいって思うから」  なんか、混乱してわけわかんないこと言ってないか、俺?  やべえ、落ち着かない。  涙は出てくるし、俺、なんで泣いてるんだよ。 「自分の想いを話すのは大事なことだよ。人はそうやって、自分の気持ちを整理するものだから」  この人はいつも優しい。  そして、俺の心を揺さぶっていく。 「僕は、今すぐ君をここで抱きたいとか思うよ。まあ、そんなことしたら、僕が嫌うアルファと同じになっちゃうから手を出せないけど」  これは、本音なんだろうか?  この人の言葉は、どこに真実があるのかわかりにくい。 「ねえ、琳太郎、何を泣いてるの」  手が俺の頭に触れる。  それは俺もわからない。  俺、何で泣いてんの?   「君は優しいよね。だから彼を最初、拒絶できなかった。そして僕の事も」  俺が優しい?  違う、ただ決められないだけだ。  だから俺は、瀬名さんにはっきりした態度をとれなかった。  俺が態度を決めてしまったら、傷つけてしまうかもしれないから。  そう思うと何も決められなくなってしまう。  傷つけたくはない。  それなら自分が傷つく方が、ずっといい。 「僕は大丈夫だよ。セフレならたくさんいるし。心を通わせる相手を強く求めているわけじゃないから」  心を通わせる相手、の部分の声が、いつもと違う感じがする。  なんだろう、この違和感。  前半は確かにいつもと同じトーンだった。笑いを含んだ声。  だけど後半はなんか違う気がする。  俺はゆっくりと顔を上げて、隣に腰かける瀬名さんを見る。  彼はソファーの上に足をのせ、膝を抱えて俺の方を見ている。  その表情は、なんだか切なげだった。  手が伸び、俺の頬に指が触れる。 「君はよく泣くね」 「そ、そ……」  そんなことはないと言いたいのに、言葉にならない。   「僕は君が笑っている顔を見たいから、笑っててほしいって思うけど、今は無理かなあ」  指が頬を滑り、唇へと触れる。   「君は君がいたいと思う相手を選べばいいんだよ。まあ僕とはバイトで会えるしね。僕は気にならないけど」  本当に気にならないのか?  そんなの可能?  ……それは今、俺が考えることじゃ、ない?  だめだ、思考がまとまらない。  何か言おうとすると嗚咽になってしまう。 「泣き止んだら、帰ろうか。ありがとう、琳太郎」  そして彼は、俺の唇をそっと撫でた。

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