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第62話 着信
その日の夜。
シャワーを浴びた後俺は、ベッドに寝転がりスマホのメッセージアプリを開いたまま固まっていた。
どうする、俺。
どうしたい、俺。
この間みたいな苦しさはない。
俺の頭の中はずっと、あいつのことばかりだ。
昨日、母親に言われた話……ストックホルムシンドロームの話はけっこう心に来た。
俺は、そういう状態だったのかな……被害者っていうとちょっと違う気がするけど。
千早は俺をオメガとして扱おうとして、俺はそれを受け入れてるふりをし続けた。
千早の求めに答えようと……それは全部うそだったのか、俺……?
その時。
スマホが鳴った。
表示された名前は、瀬名さんだった。
彼とは結局、毎日メッセージのやり取りはしてる。
家の鍵、渡されたけど使う機会は今のところない。瀬名さんがあれを渡してきた心理は、未だに理解できない。
それでも俺は、その鍵を返せないでいる。
『やあ、琳太郎』
「こ、こんばんは」
彼の声に少しどきり、とする。
昨日もバイト先で会ってるのに。
『来週の日曜日、暇?』
「え? あ、暇、ですけど」
とっさに嘘などつけないしそれに、嘘をつく理由もなく俺は素直に答える。
『じゃあ、日曜日、僕に付き合ってほしいな』
この誘いの意味は何だろう。
そういえば俺、この人に告白されてんだっけ?
……それを思い出すと、受けていいのか駄目なのかわからなくなる。
「あの、どこに行くんですか?」
『県立美術館で、「漫画の技法展」っていうのをやるんだよ。それで、原画展示の他……』
「行きます!」
漫画展と言われたら迷う理由はない。
県立美術館は車がないといけない距離だ。
今の俺には免許がない。
バスを乗り継ぐにも遠いし、駅でポスターを見かけたときから行こうか悩んでいた。
断れない。
断るわけがない。
……だからか。だから瀬名さん、漫画展に誘ってきたのか。
俺、絶対にこの人の手のひらの上で踊らされてると思う。
『そう言うと思ったよ。じゃあ、十時に家まで迎えに行くよ』
「え、でも……」
さすがに遠回り過ぎないか?
県立美術館は、瀬名さんの家からならさほど遠くないが、俺の家からだとそもそも市が違うからめっちゃ時間かかる。
『だって、その方が長く一緒にいられるじゃない』
その言葉の意味が一瞬理解できなくて、俺は思わず黙ってしまう。
そして、言葉の意味を理解した時、顔が紅くなるのを感じた。
「いや……あの、せ……悠人さん俺は……」
『あはは、そんな深い意味はないよ。僕がそうしたいだけだから。あと、お昼食べて買い物行けたらいいな』
一度受けたいじょうさすがに断るわけにもいかず、俺は、わかりました、と返事をする。
『声、少し明るくなったね』
「え、あ……まあ……」
そう、なんだろうか。
あぁでも、この数週間に比べれば、だいぶ気持ちは楽になっているかもしれない。
『僕は、君が笑って過ごせるなら、どんな結末も受け入れるから』
俺が笑って過ごせる……か。
それはどんな結末だろう?
「あの、悠人、さん」
『何』
「俺、渡したいものが、あります」
今日、千早へのプレゼントと一緒に買ってきた。
色々と世話になってるし……誕生日のお祝い、ちゃんとできたわけじゃないし迷惑かけ通しで、気になっていた。
『ほんと? それは嬉しいなあ。じゃあ僕も何かあげようかな』
「いや、それはいいです」
これ以上、彼に何かを貰うわけにはいかない。
『遠慮しなくていいのに。まあ、何か考えるよ。じゃあね、琳太郎、おやすみ』
「おやすみなさい」
そこで電話を切った。
なんだろう。
人と話したせいか、気持ちがだいぶ楽になっている。
今なら、連絡できそうな気がする。
俺は大きく息を吸い、息を吐いて。
千早のアイコンをタッチした。
大丈夫だ俺。
この間みたいに震えない。
千早は……怖い相手じゃない、はずだから。
『千早』
何を言えばいいのかわからず、名前だけしか入力できなくてそれだけで送ってしまう。
すぐに既読はつくが、返信はない。
送ってはみたものの、俺の頭は真っ白になり、次の言葉がでてこない。
どうする俺。
何言えばいいんだ俺。
悩んでる間も、返信はなくて俺は焦りだす。
『千早のことばかり考えてた』
『俺、千早に会いたい』
焦りすぎて考えられなくなり、出てきた言葉はそれだけだった。
なんだよこれ、もっとなんか気の利いた言葉とか出てこねぇのかよ俺。
すぐに既読がつき、でも反応はすぐには来なくて、さらに焦りだす。
『誕生日に俺、千早のことちゃんと祝いたい』
『誕生日……』
始めてそこで返信が来た。
『二十三日、お前の誕生日だろ? 毎年なんかやってたじゃん。俺、プレゼント買ってきた』
震える指でつかえながら、なんとかそう入力し、メッセージを送る。
『琳太郎』
『俺は……お前のいない世界なんて考えられない』
その言葉を見て、俺の心臓は高鳴る。
会いたい気持ちは強くなり、今にも破裂しそうだ。
電話かける?
どうする?
……声を聞いたら、どうかなってしまいそうだ。
その時。
スマホが震えた。
表示された名前を見て、そして、恐る恐る画面をタッチする。
「千早」
名前を呼ぶだけで、心が揺れる。
『琳太郎』
久しぶりに聞く、低い声。
人を従わせようとする威圧的なものとは違う、優しい声だ。
何を言おう、何を言えばいい?
思考がぐるぐると回り、言葉が出てこない。
『落ち着いた?』
落ち着いた、だろうか。
それは自信、もてない。
でも、先週よりはずっといい。
偽物の番と言われて、愛されてるのかわけがわからず自分を誤魔化して抱かれていた時よりも、落ち着いてはいると思う。
「千早……俺、は……」
質問に答えられず、声を震わせて名前を呼ぶ。
『お前は、あいつを選んだんじゃないのか?』
あいつ?
選ぶ。
何を?
「お前、何言って……」
『お前は、あの瀬名悠人を選ぶのかと思ってた』
「違う、俺は瀬名さんとは……」
何もない、と言いかけて口をつぐむ。
キスされたりしたから、何もないとは言い切れない。
俺、千早を裏切ってる……?
そう思うと、息が苦しくなってくる。
『琳太郎?』
焦るような声が聞こえ、俺は首を振り、
「何でも……ないから……」
と、息を切らせて答える。
そんなこと言っても信じらんねぇよなあ……
こんなんじゃあ。
まだ、駄目なのかな、千早に会うのは。
会いたいのに、でも今、俺は千早と後ろめたさ無しで会えるだろうか?
……無理だ。
俺は、ちゃんと瀬名さんに言わないと。
じゃなくちゃ俺、千早に会えない。
「千早、俺……」
『無理に喋ろうとしなくてもいいよ』
気遣うように言われ、でも、言いたいのに言葉がうまく出てこない。
「じゅう、はち、にち……会いたい」
何とか言葉にしたあと、俺は荒く息を繰り返した。
息が苦しい。また、発作が起こるのか?
それは嫌だ。
俺はちゃんと、千早と向き合いたいんだから。
十八日は瀬名さんに会う予定の日の翌日だ。
バイトあるけど、その後なら時間作れる。
瀬名さんと話してからじゃないと俺、千早と会えない。
『十八日……月曜日か。でも、バイトじゃあ……』
「その日、じゃなきゃ……嫌だ」
痛む胸を手で押さえ、苦しさに耐えながら訴える。
『……わかった』
長い沈黙のあと千早は言い、いつもの場所に迎えに行く、と言った。
『琳太郎、話せて、よかった』
「ち、はや……」
言いたいことはたくさんあるはずなのに、形にならず浮かんでは消えてしまう。
『おやすみ、琳太郎』
そして、電話は切れてしまう。
聞きたかった声。
話したかった言葉。
言えなかった想いが、頭の中でぐちゃぐちゃになってる。
会う約束ができた。
だから落ち着け俺。
スマホを手放し、俺は枕に突っ伏し荒い息を繰り返す。
あいつに会うまでに俺は、もう少し強くなれるだろうか?
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