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Q17-4

「哲さん、俺、アイドルを目指す。けれど、所属する事務所は自分で決めたい」 「……分かった」  その一言に込められた幾つもの感情は、言うまでもない。  哲の気持ち、戸惑い、どうして? という疑問が痛いほど伝わってきて。  もしかしたら自分の下した選択肢は哲の我が儘を叶えるものではないのかもしれない。  しかし、それもそうだと、漣は妙に開き直った気持ちで哲と向き合っていた。  だって……決めたのは自分自身で、決して哲の思いを叶えてあげようと思って言ったのではないから。  哲や沖田の誘いに二の足を踏んでいた漣を、あの立花という若い男は瞬く間に引き摺り込んだのだ。  特筆するところのない狭い部屋で踊っていた彼。歳の頃は漣と同じぐらいだろう。  ──彼に魅了されてしまったから。  気付けば、どうればいいのかと曖昧に問いかけていた。  そんな漣に立花は瞠目し、次の瞬間には弾かれるようにして資料の束を持ってきたのだった。  あれだけ悩んでいたのに、決定打はあまりにも陳腐な一目惚れであった。  けれど、それぐらい漣にとっては特別だった。 「じゃあ、これで契約は完了ということです。蓮水漣君。君の貴重な時間、しっかりと預からせていただきました」 「はい」  漣は名前の横に印鑑の捺された紙を見つめ、それから立花を見る。 「俺が、あの人と同じステージに立つには、これからの練習を懸命に頑張ればいいんですよね」  言うと、丸眼鏡の向こう側で瞬いて笑う。 「蓮水君は本当に廿()()()君が好きなんだね」 「好き……なんでしょうか。ただ、似ていると思って……」 「うん?」 「いいえ。なんでもありません」 「とにかく、練習生として基本的なダンスや歌い方を習得してもらってからの話になっちゃうね。けど、僕はどうしても君と廿九日君を並べて考えてしまう。驚くほど君は格好いいし」  気恥ずかしそうに言い、漣が書いた書類を大切そうに抱え込む。 「それで、一つ、漣君にやってもらいたいことがあるんだ」 「……なんですか?」 「えっと、これはみんながやっていることで」  と、別の紙を差し出してくる。  そこには【薬物検査】とあった。 「一応、ね。所属してもらうにはこの検査を受けてもらうのが決まりなんだ。……大丈夫?」 「はい、構いません」  芸能界の闇、だなんて小耳に聞くには十分すぎるほど一般的に浸透している。  それに拒否権なんてない。漣はあの人と一緒にステージに立つことを夢にしているのだから。それを叶える為に必要ならば、やらないなんて言わない。言えるわけがない。  * * *  待ち合わせは、とあるホテルの最上階だった。今までそんなところに来たことがなかっただけに、その部屋に辿り着くまで少々緊張していた。だが、普段と変わらない哲が出迎えてくれたことで、安心することができた。 「漣」  背中まで伸びた髪を掬われる。 「応援してるよ。お前の夢」 「……ありがとう、哲さん」 「沖田さんにはちょっぴりがっかりされたけどな」 「……ごめんなさい」 「いや、いいんだ。お前がこの道を目指してくれれば」  ──どうして?  聞かなかった。  漣はただ微笑み、哲の手のひらに顔を寄せる。 「初めての我が儘だからな。叶えてあげたいよ」 「ありがとう」 「だから……オレの我が儘も聞いてくれるか?」 「うん」 「……いい子だな、漣」 「哲さんは俺を助けてくれたから。俺も、哲さんの我が儘を叶えてあげたい」 「……あぁ、漣……まずは、この髪を染めようか」 「哲さんに任せるよ」 「染めたら……手入れが必要になる。だから、」 「分かってる。ちゃんと会うよ」 「あぁ……」  夕暮れに染まる街並みが大きな窓から望める。その陽に照らされて、漣は眩しくて目を細めた。  滑らかな曲線に雫が流れていく。 「漣……?」 「ぅうん、大丈夫……俺は、大丈夫。検査も全部終わったから」 「……」 「好きなようにして。俺は大丈夫だから」  どうして哲が漣に薬を飲ませようとしたのか。どれだけ考えても分からなかった。けれど、逃げられもしない。薬は悪いことだけれど、哲はあの地獄から助けてくれたから恩人だ、善人だ。  考えれば考えるほど、善悪が曖昧になっていく。……思考回路が崩壊していく。考えが止まっていく、もうわからなくなる……ここちいいことだけしか──。  * * * 「え、美容院? 今から?」 「うん、ごめん」  サントラップセプテットというグループでデビューを果たし、漣は憧れのあの人の隣に並ぶことができていた。  本当ならみんなでご飯を食べに行きたかった。けれど、それを哲は許してくれない。 「またね」  仲間達に別れを告げ、待ち合わせ場所に向かう。暖かい場所から、一気に氷点下の場所へ。  しかし、すぐにそんな思考は消し飛ぶ。  あの日、銀色に染められた長い髪のメンテナンス。と同時に飲まされる薬入りのドリンク。 「漣」 「……」 「オレの側から離れることは許さない」 「わ、か……ってる」 「いい子だね、漣」  たとえそれが普通のことじゃなくても。  自分が正気を保っていられれば、哲といる時だけにおかしくなれば。  なのに、どうしてコアはあんなものを隠し持っていたのだろう? 「充電器? コアが持っているのか?」 「うん。それ持ってきてくれる?」 「勝手にいいのか?」 「大丈夫! さっき貸してって言っておいたから」 「……分かった」  それなら自分で持ってくればいいのにとは言わない。ライブする時は多少なりとも舞台で映えるよう化粧をする。それは順番にやってきて、二人のメイクアップアーティストが交代で七人を仕上げていくのだ。ユズの番はギンの次であった。  メイク部屋から離れ、一人、楽屋に向かう。と、立花が荷物番をしていた。 「あれ? ギン君、どうしたの?」 「コアの充電器を取りに来ました」 「あぁ、そうなんだ。でもちょうどよかった。僕、トイレ行きたいから少しだけ待っててくれる? 楽屋を無人にするわけにはいかないから……」 「いいですよ。……まだ、犯人は分からないんですか?」 「うん」  立花が少し疲れた顔で俯く。  以前、脅迫まがいの予告状が送られてきたことがある。表舞台に立つ仕事をしていれば、些細なことで様々な感情を向けられるが、時にそれは牙を剥いて襲いかかってくる。 「ごめんね、安心してお仕事してほしいんだけれど」 「立花さんは、ちゃんと頑張ってくれてます」 「ギン君……」 「それはみんなが分かっていることです。だから何も言わず、こうして立花さんに任せていられるんです。ユズだって、充電がなくなるほど携帯を弄ってる」 「……ふふ……それも考えものだね」 「大丈夫ですよ」  ギンはいい、早くトイレへ行ってくるよう立花を楽屋から追い出した。 「……」  ──予告状。それはキュウに対しての、決して気持ちの良いものではない手紙であった。  実物を仲間達も含めギンを見たが、ただただ奇妙で。直接危害を加えられたわけではないので、警察に頼っても自己防衛を促されるそうだ。前よりも警備を厚くし、一人で行動することは極力避けるよう言われているが、その意識はなかなか定着しない。現に、ギンは一人で楽屋までやって来ていた。  立花が戻ってくるまでに目的のものを持っておこう。そう思い、ギンは迷わずコアの手荷物を検めることにした。  ごちゃごちゃとした荷物の中からコードを頼りに充電器を取り出す。  と、視界の中で妙な違和感を抱く。 「?」  心臓が、どくんと大きく脈を打つ。 「これ」 “ソレ”を手にした時、甘やかな感覚がギンの首筋を撫でていった。それはまるで誰かを想った時のような……。 「なんでコアが持ってる?」  同時に焦燥感が募る。  どうしてこれを仲間が持っているのか。“そんな”節は全くなかっただろう。  手が震える。そして次の瞬間。 「……っ」  ギンは、口にしていた──。 「ギンのことはおれが守るっ、だから……っ、普通に戻って……戻ろうっ?」  薬を服用したギンに、コアはそう言ってくれた。  哲と会う時以外は口にしないよう、見ないようにもしていた。だから依存症にはなっていない。だから、大丈夫。この苦しみを越えれば、普通に戻れる。  ──そう思って疑わなかった。  けれど、いつの間にか口にしていたように、いつの間にか戻れないところまで体は蝕まれていた。 「──珍しいな」  男の声がする。甘やかな感覚を連れてくる声だ。 「漣からオレを呼び出すなんて」 「さ、とるさん」 「どうした?」 「……わかってるくせに」 「……だらしないな、良い男が台無しだ」  言って、口元を指で拭ってくる。  それを舐めるけれど、甘い味はしなかった。 「本当にどうした? ……まさか、自分でも飲んでいるのか?」 「い、いから」 「これは……よくないな。これじゃ制御できなくなる」 「早く、持っているんでしょう?」 「持っている、が……これは月に二回だけの約束だ」 「約束?」  は、と乾いた笑いが漏れる。 「哲さんがここまで俺を連れてきたんだ。約束じゃない。責任だよ。早く俺を助けて、救って、楽にして」 「漣……」  ──もう、いなくなってしまいたい。  やめようと思ってもやめられないのなら。いなくなるしかないだろう。確かめたいことも、やりたいことも、言いたいことも、全てを投げ出して。  これは罪だ。自分の存在は罪だ。 「はやくっ、天国に連れて行って」 「何してるんだよッ!!」  声が遠くに聞こえる。誰の声だろうか。誰かが自分を見下ろしている。  やめてほしい。天国から引き上げないでほしい。ずっとこの感覚に浸っていたいのだから。 「う、そつき」  ギンの口から恨言が漏れていく。  そんなことない、彼に責任はない……理解しているのに。  制御ができなくなっていく。 「助けてくれるって、言ったくせに……っ、どうしてやめようとしている俺の前にあれを持ってきたの? どうして……ッ!」 「……っ」  怯える気配。後ろへ擦る靴音。  意識はぼんやりとしているのに、聴覚は普段よりも鋭敏になっていた。 「全部、終わる……っ、俺のせいで」  頑張ってきた仲間を裏切る。 「ほら、来る」  きっと、ハイエナが腐った体を嗅ぎつけてやってきたに違いない。そしてギンを暴き、ギンとしての生を奪って、ただの漣になっても逃げ場はないのだろう。  だから後は、無に帰すだけだ。  今、扉を叩く音が聞こえた。

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