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Q17-3

 本当だったら、あのまま図書委員に打ち明けていただろうことを漣は南倉に話した。学校のこと、三者面談のこと、クラスメイトのこと。そして母のこと。今日の朝、初めて感じた感情のことも。  漣が話している間、一度も口を挟まなかった南倉は真剣に聞いてくれたのだろう。頷き、冷静な声音で相槌打ってくれるだけで、漣の気持ちは凪いでいった。  そうして理解する。自分はずっと、誰かに自分の話を聞いてほしかったのだ、と。 「……って、こと」 「……そうか」  話し終える。すると、南倉はもう一度首を縦に振った。 「ずっと、考えてたことがある」  そして、静かに話し出すのであった。 「これは、口にしたら、オレたちの関係を壊すものでもあるから、ずっと、思ってても黙ってた」 「どんなこと?」 「言ってしまってもいいの? もう友達ではいられないかも」 「? ……怖いこと?」  問うと、南倉は首を傾げる。 「どうだろう。オレは、ちょっぴり怖い。言って、漣と友達解消になったら嫌だもの」 「じゃあ……言わなきゃいいんじゃないの?」 「そうだ、そうだね。でも……上手くいけば……君は、救われるかも……?」  南倉がこちらを見つめる。 「?」  南倉の考えを読むことができない漣は、ただただ戸惑うしかなかった。  * * *  一週間後。漣はそれまでにないっていうぐらい悩んで、自分の中に浮かび上がる本能にも似た願望を、見て見ぬ振りはできないのではないかと思う。  だから、最後の判断は彼に任せようと思った。  昼休み、図書室を訪れた漣だったが、目的の人物がカウンターにいないことを知る。 「あの」  漣は勇気を出して、全く知らない図書委員に声をかけた。 「──はい?」 「あの……いつも、いた……」 「あぁ」  言葉を詰まらせる年下の漣に、新しい図書委員は分かったとでも言うように。 「あいつなら転校したよ」  ──漣は走る。それまで入学してから一度も規則を破ったことがない真面目な漣は、無我夢中で全力疾走した。途中、誰かとぶつかっても、教師に怒鳴られても構わず真っ直ぐ職員室に向かった。きっと、運動会でも出さない記録を出したに違いない。 「す、っみません!」  滅多に出さない大声で中にいる教師の注目を集める。  * * * 『──あぁ、あいつは転校したよ。……どこ行ったかは言えないな、ほら、個人情報とかあるし。……蓮水、といったか。君、五年生だろう? あいつに下級生の友達がいたとはな、思わなかった。すまないな』  あの図書委員の担任だという男性教師はそう漣に詫びると、半ば無理矢理、漣を職員室から追い出した。 「……」  漣は新たな感情を手に入れる。……絶望感だ。  そして思い至る。  もしかしたらあの日、校門を出ずに何かを待っていると言った彼に打ち明けるのが、最後のチャンスだったのではないかと。あの日、本当は──言うべきだったのではないか、と。  思えば、あれ以来、彼とは会わなかった。 「……っ、どうしよう」  図書室に足を運ばなかった。もしも、昨日まであのカウンターに彼がいたら? 「どうしよう……!」  もう会う術はない? 「っ、い──」  * * * 「漣、用意はできた?」 「うん」  小学六年生になる前の日曜日、漣は家を出る。 「よし。じゃあ、行こうか」 「……」  産まれてから今日までを暮らした家を見上げる。感慨深い、とは思わなかった。  もう、普通ではないと知ったから。 『蓮水さん、あなたのしていることは、普通のことではないんです』  母と他人行儀に話を進める南倉は、母の知り合いの顔ではなかった。  あの日、南倉が口籠もりつつも言ったのは、それまでの漣が培ってきた価値観を全て否定するものであった。 『──漣のお母さんは、……ネグレクト、だ』  幾つもの小説を読んできた漣だが、この世にはそれでもまだ知らない言葉がある。  世話を放棄すること──調べれば、南倉が言っていた言葉の意味はそうだった。 『君の世話を、お母さんはしていないだろう?』  南倉が最大限に言葉を選んでいるのが分かった。そして、母と漣の関係を否定しようとしていることも。 『だから……君が良ければ、おじさんと暮らさないか?』  そういえば、南倉という人間は一体誰なのか。提案されて、初めて漣は考えた。  そして、ようやく自分の置かれた状況を客観視することができたのである。  ご飯を食べる為に一千円でコンビニに買いに行くことも、一人で家にいることも、自室に押し入れが充てがわれていることも、……母が、漣に一切の興味がないことも。  ──だから、晴れの日の日曜日。漣は母の元を去る。彼女は一切興味がないから。 『……──そうですか。じゃあ……お願いします』  南倉は配慮してくれていた。母と二人きりで話すから自室に戻っているよう言ってくれた。けれど、漣がそれを無視して、大人二人の話し合いを小さな隙間から窺っていたのだ。そして耳に届いた母の冷静な言葉に、愛されていなかったことを知った。  南倉の愛、あの図書委員の愛がまざまざと胸に沁みて。 「……」  会いたいとは言わなかった。  * * *  桜が、ひらひらと眼前を舞っている。  春がやって来た。温かな風が散った花弁と共に、長い髪を攫っていこうとする。 「漣」  振り返る。 「(さとる)さん」  家族となった南倉が真新しいスーツ姿で立っていて、漣を見て笑っていた。  だから漣も微笑み返す。  三月十日、漣は高校を卒業した。南倉と家族になってもうすぐで七年。流れた月日は漣に穏やかな日常を運んできて、あの頃に比べると一段と生活は変わっていた。  南倉と暮らすようになって、できた決まり事は幾つもある。中でも重要だったのは呼び方、である。家族になったのに南倉のことを苗字で呼ぶのはおかしいと、どこか必死に彼は言ったもので。当時はどうしてそうも必死だったのか理解に苦しんだが、今なら分かる。  父親みたいな哲は、早く漣と家族になりたかったのだ。 「大きくなったなぁ……」  感慨深げにそう呟いて、目を細める。その瞳が僅かに赤くなっているのを見て、漣は思わず笑ってしまった。 「哲さん、もしかして泣いた? 目が赤いよ」 「なっ! 何言ってるんだ、大の大人が泣くものか!」  くるりと背中を向け、目元を擦っているらしい哲にまた笑みを誘われる。 「じゃあ、花粉症かな」 「そ、そうだ! 悔しくも、花粉症を発症してしまってな! あー目が痒いっ」 「……ふふ」  母の元を離れたことが悪かったのか、良かったのか。漣に判断することはできない。しかし、外に連れ出してくれた哲には、感謝してもしきれないぐらいの有り難みを感じている。  もしもあのまま、あの家にいたら、今の自分はいないだろうから。  普通のことを普通だと思えず、自分の置かれているあの状況を普通だと思い込んだままでいただろう。 「そうだ、漣」  先程よりも目尻まで赤く色付かせた哲が顔を上げる。 「卒業祝いに、何か美味しいものを食べに行こう。今日は好きなものを食べていいぞ!」 「……好きなもの」 「漣は何が好きだっけ」  言いながら歩き出す哲に続いて、漣も歩き出す。  三年間の高校生活は、人生で一番楽しかったと言っても過言ではない。小学校の時には得られなかったもの──友達や勉強することの楽しさ、学校行事に参加する意味、それらを知ることができて、中学の時に学んだことを活かせたからだ。初めて友達と呼べるような同級生ができた時は戸惑うことが多かったものの、彼が善人であったお陰もあり、世間知らずな漣に呆れつつも色々なことを教えてくれた。  そんな彼に誘われてあの漣が、部活動にも勤しんだのだから、哲も驚いていた。だが、漣が撮る写真を嬉しそうに眺めて酒を飲んでいたのを覚えている。  七年。たくさんあった。これまでも様々なことが漣を襲い、包み、成長させるだろう。それが楽しみでもあり、少々怖くもある。自分がしっかり自分を保ったまま生きていけるのか、善を是とし、悪を否定することができるのか。 「哲さん」 「うん?」 「これまで育ててくれてありがとうございます」  不意にそう言うと、哲は一瞬泣きそうな顔を見せ、すぐに前を向いた。 「なんだよ……いきなり」 「いや……言ったことなかったから」 「いいだよ、そんなこと。言わなくても伝わってる。成績優秀、オレに迷惑なんて一度もかけたことないいい子ちゃんなんだから、漣は」 「……そうだといいけど」 「れ〜ん」  頭に大きな手のひらが乗り、髪をぐしゃぐしゃにされる。いつも手入れをしている長い髪は絡まることなくさらさらと互いに擦れ合うだけだが、それでも乱されるのはなんとなく不服で首を竦める。 「お前は本当にいい子に育った。高校も、頑張って卒業してくれた。別にそれがオレの為だ、なんて言う気はないけど、漣のことだから、オレを思ってくれた部分もあると思う。こちらこそありがとう、だよ、漣」 「……哲さん」 「っあーまた泣きそう……」  ぐず、と鼻を啜る音がする。 「やっぱり泣いてたの? 式中に子供みたいに泣いてる親がいるって、話題になってた」 「はぁっ!? んなことになってたのか?! 頑張って堪えてたのに!」 「……やっぱり哲さん?」 「ぅぐ!? ……漣、お前、かまけたな?」 「ううん」 「お前……っ……だぁ〜〜っ、くそ! そうだよ、オレだよ! 泣いてちゃ悪いか?! 自分の子供が学校卒業したんだぞ? 泣かない親なんているのかよっ!」 「ふ……はは……!」 「漣っ」 「うん、ごめん……。ありがとう」 「もう言うな! 何も」  恥ずかしいのだろうか、それともちょっぴり腹が立ったのだろうか。  ずんずんと先を歩いていく哲を追いかけながら、漣は笑い続ける。  ここ七年で最も変わったことと言えば、漣に笑顔が増えたことである。 「哲さん、待って。ご飯、食べに行くんでしょう?」 「うるせぇ、待ってられっか!」 「怒らないで」 「怒ってねぇ、恥ずかしんだよ!」 「あははっ」 「笑うな!」  友人が言っていた。漣と哲は、本当の親子みたいだ、と。  誰から見てもそうだろうか?  そうだといいな思いつつ、漣は三年間過ごした校舎と桜の木を背に、歩んでいった。  * * * 「漣、将来、何になりたいとか決まっているか?」  そう問いかけられたのは二度目だった。  高校を卒業して、特にやりたいことがなかった漣は進学よりも就職することを選んだ。といってもどこかの企業に就職したわけではなく、三つほどのバイトを掛け持ちし、そのバイト代を家に入れているという形であるが。  久しぶりに二人が揃って食卓についているという場面で、哲が不意にそう問いかけてきたのだった。  その言葉を素直に受け取った漣は思考を巡らし、やはり答えに辿り着けず、首をゆるゆると振る。 「ない」 「そうか」 「……心配?」  漣が大学へ進学することを望んでいた哲だ。お金には余裕があるからと言ってくれた彼の思いを無碍にしてしまったが、漣がやりたいと言えば、協力してくれるつもりなのだろう。  なんだか彼の期待に応えられない自分自身を歯痒く思い、漣は無意識に俯く。  しかし、聞こえてきた哲の声は存外に暗いものではなかった。 「いや、そういうことじゃない。ちょっと安心してる」 「安心?」  その思わぬ言い草に、伏せた顔も持ち上がる。  夕食の辛子大根を咀嚼し、酒で流し込んだ哲はそんな漣を見て、箸を置いた。 「実は、お前に相談がある」 「相談?」 「うん。漣……お前、アイドルになってみないか?」 「……な、なに?」  ちょっとしたことでは驚きも動揺もしない漣だが、その言葉には自分の耳を疑った。 『まずは見学でもしてから決めてくれ』  哲は少々強引であった。まるで漣はアイドルになることが決まっているとでも言うように、漣が渋るのを許してはくれなかった。  だが、彼がそれほどまでに我が儘なところを見せるのは初めてでもあった。故に、一度ぐらいは彼の言うことを聞いてみてもいいかもしれないと、漣を思わせた。  ──アイドル。その単語から思い浮かぶのは、眩しいライトの下で歓声を浴びて踊り歌う男達の姿。  それになれ、と哲は言うのだろうか。どうして?  詳しいことを聞く前に、哲は次の休みの日に見学に行く約束を取り付け、ぶつんと会話を終わらせてしまった。  ……何か、焦っているらしい。それまでに見たことのない、哲の態度であった。  * * *  一週間が経ち、漣は哲に連れられ、ある建物を訪れた。ちらっと入り口にあった表札を見れば芸能事務所であるらしく、名前は聞いたことがなかったが、練習室と名打たれた小部屋では数人の男が今まさしく体を動かし、練習に励んでいるようだった。 「(おき)()さん!」  ガラス窓越しに彼らの動きをなんとなく見ていた漣だったが、隣にいた哲が誰かに向かって声をかけたことで視線を外した。 「──あぁ、南倉さん」  南倉、と漣にとっては懐かしい響きで親しげに手を上げた男が近寄ってくる。三つ揃いの黒スーツに、長めの髪を後ろへ撫で付けている容貌は爽やかでもあり、どこか掴みどころのない印象を抱かせる。 「わざわざこっちの事務所に来て頂いて……申し訳ないです」 「いいえ、いいんですよ。漣に早くアイドルの魅力に気付いて欲しかったので。ほら、漣。こちらはアイドルの卵を日々発掘している沖田さん。この子が漣です」 「……こんにちは」 「ほぅ、この子が漣くんか。こんにちは。しっかり挨拶ができて偉いね。噂に違わず整った顔をした子だね。アイドルにぴったりだ」 「それは良かった、沖田さんのお眼鏡に敵えばこれ以上に自信のつくことはないな。なぁ、漣?」 「……はい」 「あはは! 戸惑ってるじゃないか」  沖田は目敏く漣の戸惑いを感じ取ったらしい。人の良い顔をして、言った。 「そう身構えないで。お父さんからは見学だけと話を伺っているから」 「あ、ありがとうございます……?」 「うん。お礼も言えるなんて素晴らしい。じゃ、早速見学しに行こうか。今、デビューを目指している子達がちょうどダンスレッスン中なんだ。好きなだけ見ていくといい」 「ありがとうございますっ」  それから漣は沖田と哲を先導に、ある部屋へと入った。そこでは先程廊下から見ていた光景と同じく、数人の少年達が大きな鏡を前にして必死で手足を動かし、練習している。彼らの後ろに立ちながら、漣は見つめる。その間哲は、沖田は太っ腹だ、とでも言うように嬉しそうにしていた。 「さぁ。どうかな?」  見学を始めてから三十分ほど経った頃だろうか。哲と話をしていた沖田が、不意に漣に声をかけてきた。 「アイドル、興味出たかな」 「え、っと……」 「急に言われても困るよね」  笑って言い、沖田は練習に励む少年達を見遣る。 「けれど、ここにいるみんながアイドルになりたいと思っている。君は、アイドルと聞くとまず何を思い浮かべる?」 「……光」 「へぇ……光か。その光はどんな感じ?」  ここから話が広がるのかと内心では思いつつ、漣は続きを口にする。 「眩しくて……熱い」 「確かに、舞台上を照らす照明は熱を発する。君はそれを知っていたの? ほとんどの子が、舞台に立って初めて照明は意外にも熱いと思うんだ」 「想像、です」 「なるほど」 「……俺には、アイドルなんて無理だと思います」  沖田は良い人そうだ。だから、自分の口でちゃんと意見を言えば、納得してもらえる気がした。故に、漣は苦笑する。少しでも申し訳なさが伝わればいいと思ったからだ。 しかし。 「こら、漣、失礼だろう」  すかさず哲が諭してくるのであった。 「すみません、沖田さん」 「いいんだよ。いきなり言われても混乱するだけだろう? 南倉さんこそ、その子にちゃんと説明してあげたのかい? 見るところ戸惑っているだけに見えるけど」 「それは……」 「説明もなしに、アイドルになれっていうのは無理な話だろ?」  沖田に諭し返され、哲は押し黙る。  その二人の様子に一抹とした不安を抱いている漣に、沖田は事情を話してくれた。 「実は、この事務所の経営が芳しくなくてね。日々、素質のある若い子をスカウトしては一流のダンスや歌を仕込んできたつもりだが、なかなか花を咲かせてあげられなくってね。芸能界で売れるのはほんの一握りだが、事務所は一つだけじゃない、幾つもある。そうした中、逸材を手に入れるのもまた確率の低い話なんだ」  練習室を出、談話室をプレートが掲げられた部屋に三人で入る。事態は相当深刻なのか、レッスン中の少年達に聞かれないようにする配慮や、沖田の語り口調がそれを物語っている。 「そこで、事務所としては総力を挙げて、一大プロジェクトを進めることにした。それこそアイドルだ。世の中の人を魅了し、元気を与えていく。売れれば君の言ったように、眩しく熱いライトを浴び、世間から認められなければ奈落の底へ……ドボン。崖っぷちならば、一つ賭けに出ようということだね。それでボクにはある役目が押し付けられた、押し付けられたってあまり大声では言えないことだけれど、それがボクの仕事でもあるから。……世で輝くアイドルを発掘すること、逸材を見つけてくること。それを旧知である南倉さんに相談してみれば、なんと息子さんがとびきりの美形と言うじゃないか。是非会ってみたいと、今日の場を設けさせてもらったんだ。だからあまりお父さんを責めないでくれ」 「……」  哲のことを窺うと、彼は気まずげに頬を掻いている。 「そしてできれば、君の力……人生を彩る手伝いをさせてほしい」  * * *  事務所見学の帰り道。  漣は、哲の半歩後ろを歩く。その位置が、漣のいる場所であった。いつだって少し前を哲が歩き、守るようにしてくれる。  だが、今日は、なんとなく引っ張られているようだった。 「哲、さん」  呼ぶが、反応はない。 「哲さんは、あの人を助けたいって思ったんだね」 「……」 「哲さんは良い人だよ」 「漣……」 「けど、今……自分がどうればいいのか、分からない……。みんな、一生懸命だった。それなのに、中途半端な気持ちであの中にいれないよ」 「……だよな」  夕陽に輝く哲の背中。光源は向かいから来ていて、その背には影がかかっているはずなのに、漣には輝いて見えるのだった。  ……叶えてあげたい。アイドルになってほしいという哲の望みを。だって……それが自分を救ってくれた人の、たった一つの我が儘なら。  しかし、アイドルになっている自分がとても想像できない。  自分にできることなのだろうか? 「……」 「……」  穏やかな時間が流れる。事務所での居心地の悪さはない。哲といることが苦痛にはならない。  ずっと一緒にいたいと思う。本当の……父のように思うから。  漣を非日常から日常に連れ出してくれた人だから。  ──ちゃんと考えてみよう。  漣は前向きに捉える。哲は、将来を見つけられない漣を思って一つの提案をしてくれたのかもしれない。アイドルになることも選択肢の一つだよ、と。そう思えば、漣が自分でアイドルになりたいとは思わないだろう。目立つことは避けていたぐらいである。人前に立ち、踊り、歌うことなど夢に思うわけがない。  * * *  それから更に一週間。考え事をする時間ができるたびに、アイドルになることを想像した。果たして自分にできるのか、務まるのか。沖田は賭けている、と言っていた。つまり、その思いに手を伸ばすことは自分にも責任が生まれるということである。言葉通り、事務所を背負うのだ。そこに所属する彼らの再起をかけて。 「……」  バイトの帰り道。考える。最近、脳内を満たすのはそのことばかりだ。それがいいことなのか悪いことなのか、漣には分からない。だが、考えることをやめることはできなかった。 「──あ、あの!」  その時、歩道を歩く漣に声をかけてきた人物がいた。内心どきりとする。……彼がスーツを着ていたから。が、すぐに見間違いだと気付く。  漣に声をかけてきた男は履いているものこそスーツの一部だが、上着は着ておらず、幼さを誘う白のベストを学生のように着こなしていた。彼が学生ではないと気付けたのは、目が合うと共に名刺を差し出してきたからだ。 「?」 「あ、すみませんっ」  しかしそれも引っ込めてしまう。  まだ社会に出たばかりなのか、学生と言っても通用するような童顔の男は頬を赤らめて、所在なさげに立ち尽くす。それから意を決したように、漣の目を見て言うのだった。 「あの……っ、突然で、なんだと思われるかもしれないですけど」 「……?」 「君の時間を、僕に預けてもらえませんかっ?!」 「……」  変な人だと思った。短い髪から覗く耳が真っ赤になって、サイズが合っていないのか、大きな縁なし丸眼鏡を何度も押し上げるその姿は不安を誘われる。  だが、変な人だと決めつけてその場から離れなかったのは、それ以上に彼が必死であったからだ。無視は、何故かできなかった。ここに友人がいたら、問答無用で漣を引き摺って男から引き離したことだろう。 「時間って、どれぐらいですか?」 「!」  彼から誘ってきたくせに。彼は驚いて、数秒間、動かなかった。  * * *  男の名前は、(たち)(ばな)(かえで)というらしい。小さく真新しさを感じさせる白い名刺にそんな名前と共に、メールアドレス、電話番号が添えられ、それらよりも大きい文字で【立花芸能事務所】  と書かれていた。 「こっちです」  立花に案内されるままついていくと、この前行った事務所とはだいぶ規模の違う建物を前に、彼の足が止まった。 「僕は、この手に、大切な人生を預けてくれる人を探しています」  と(おもむろ)に言う。 「三十分……いや、五分でいいです。“彼”を見て、感じたままを教えてください」  そう続け、狭い階段を上がっていく。数歩離れるだけで立花の姿が見えなくなるほどその階段は暗かった。少々躊躇い、それでも漣は彼の後を追った。  そして見る。立花が見せたかったものを。  まるで初めから漣がつくと共にステージの幕が上がることが決められていたかのように、小さな部屋の中に音楽がかかり、一人の少年が体を揺らし始める。  思わず立花と彼を見比べた。外見は似ていたから。けれど、すぐに立花の存在を忘れる。小さな部屋の中で踊る彼に釘付けになる。言葉通り、(くさび)を打ち込まれる。まずは四肢を、心臓を、そして両の目を──。 「あの子と一緒に眩しいステージを目指してくれる人を探しています。僕は、君をスカウトしたいと思いました。君の人生を、僕に預けてもらえませんか? 必ず、賭けてもらったものに見合う……いえ、それ以上のものを見せます! 君が今までに見たことのない景色を、感じたことのない幸福を。だから……どうか、僕に手を貸してくださいっ」  そう言って腰を曲げ、頭を下げる立花を、呆然と見下ろす。  そんなふうに頭を下げられたのは初めてであった。純粋に驚く。そうして違うな、と思う。  沖田と立花は全く違う人間だ。 「俺、は……──」

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