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Q17-2

「今日は、君のお母さんに用があって」  家に訪ね人が来る時はだいたい母と一緒だ。母と一緒に来て、一緒に帰っていく。漣が一人の時は誰も来ないし、来たとしても出ないことになっている。しかし、母に用があると言う南倉を家に上げないわけにもいかなかった。  せっかくの休日。あの図書委員の言葉に甘えて三冊も本を借りてきたというのに読む時間がなくなってしまう。それに、言いつけを破って母に怒られるのが嫌だと思った。 「母は、いつ帰ってくるか分かりませんけど」 「あぁ、いいのいいの。おじさん、今日は暇だから」  遠回しな合図に欠片も気付かない南倉。キッチンにある椅子に腰掛ける彼を尻目に、身の置き場がない漣はどうすればいいのかと立ち尽くす。 「そうだ、これ。お母さんを待っている間に食べないか?」  言ってテーブルの上に置いたのは、長細い真っ白な箱である。 「なんですか?」  それまで男がそんなものを持っていたことにも気付かなかった漣は、一歩近付く。 「さあ、何だと思う?」  そんな漣よりもわくわく顔を隠そうともしない南倉が、少々ぎこちない手つきで箱を開けていく。  そうして目の前に現れたのは、幾つもの輪、であった。 「……ドー、ナツ?」 「正解っ。好きだといいけど」  にこにこと笑った南倉が、箱を押して、漣の方へと寄せてくる。 「……」  箱の中は、色に溢れていた。  まずは、普通のドーナツ。茶色のいい焼き色がついていて、思わず生唾を飲み込んでしまう。  それから、白やピンク、焦げ茶にコーティングされたもの。見るからに甘そうで、漣の興味を引いた。他にもオレンジや緑といったカラフルすぎるフレークがかかっているもの、まるでこれからの季節を表すような、雪がかかったものであり、一見、ドーナツとは分からないものまである。 「ふは」 「っ」  小さく、吹き出す。誰でもない、南倉だ。 「もしかして、初めて見る?」  声なく頷く。  と、彼は漣に椅子に座るよう示し、手拭き用の紙ナフキンを箱の前に敷いて、一つずつ、ドーナツを取り出して見せてくれた。 「説明するより、食べた方が早い。好きなもの、どれでもいいから食べてごらん」 「ぇ、で、でも……」 「いいから。お母さんはまだ帰ってこない。食べたってバレないさ」  ──どうしてそんなこと言うのだ? 南倉は母を待っているのではないのか。  疑問が浮かびつつも、漣を目の前の誘惑が襲う。  色とりどりのドーナツ。こうして取り出して見ると、種類によって形も違うことが分かるのだった。でこぼこしていたり、小さな玉が連なった形であったり、円盤型の、どら焼きのようであったり。  漣の知らないところで、こんなものがあったなんて。まだ口にもしていないのに衝撃を受け、ごくり、と三度唾を飲み込む。  だって、みんながおやつだと言って食べているお菓子を漣は口にしたことがない。食べるのは生きていく為に必要なカロリーだけで、いつだってお菓子コーナーは素通りしてきた。  それを……南倉は食べろと言ってくるのか? 「……いいの?」 「どうぞ」  慎重に確かめる漣に、南倉は口角を上げて答えてくれる。  漣はテーブルの上に並ぶドーナツを見る。それから恐る恐る距離を詰めていき、椅子に乗り上がって手を伸ばした。叩かれない。南倉は、本当に心の底から漣に食べろと言っているらしい。  それが分かって、漣は雪を纏ったそれを口に運んだ。  一口。食む。唇に雪が張り付く感触、そして歯を立てれば、抵抗するような弾力を感じた後、ふわりと崩れる。 「……!」  舌に広がるあまい、甘い味。口の中の唾液が一気に吸われ、けれど、それが心地いい。 「っ」  二口、三口と齧り付いた。  すると、南倉が笑う。 「美味しい?」 「!」  こくこくと頷いた。 「はは、まるで初めて食べたとでも言うような食いっぷりだな」 「はじ……っ、ごほ」 「おいおい、大丈夫か?」 「う、うん」  僅かな唾液と共にドーナツを飲み込んで、口を開く。 「ドーナツ、初めて食べた。すごく、美味しい、です。南倉さん」 「本当に初めて? ……驚いたな」  言葉通り、目を見開いて漣を見つめてくる。 「お母さんは買ってこないのか? 甘いもの嫌いだって言ってたかな」  以前の会話を思い出そうとしているのだろう。母のことを思い出そうとする南倉に、その考えは無駄だと首を振った。 「お母さんは、厳しい人だから」 「厳しい?」 「あまり家にも帰ってこないし、ご飯もいつも俺がコンビニで買ってくる」 「……毎日?」 「うん」 「お金は? 持ってるのか?」 「うん。いつも一千円は置いてある」 「一千円……? それ、」  南倉が前のめりに聞いてきた。 「一千円が、一日の食費、ってことじゃないよな?」 「?」 「朝もお昼も、夜もそうやって自分で買ってるのか?」 「そうだよ」  最後のドーナツを大切に口の中に入れ、大切に胃に収める。 「そうしないとお腹空いて死んじゃうよ」 「……」 「あの……」 「う、うん?」 「もう一個だけ、食べてもいいですか?」 「いっいいよ、好きなだけ食べな」 「ありがとうっ」  快く承諾してくれた南倉に口元が綻ぶ。初めてドーナツを食べて、口の中、胃、お腹、何よりも脳が喜んでいた。 「……漣」 「?」 「付いてる」  何が、と問う間もなく、伸びてきた南倉の指が、漣の口端を拭った。引いていく彼の親指に雪が付いていて。 「あ」  汚れていたのを取ってくれたのだと気付く。 「あ、ありがとう……」  すると、何故か恥ずかしく感じるのだった。ゆっくり自分の手を持ち上げ、南倉が触れた箇所を擦る。雪は付いてきてくれなかった。  次の瞬間。 「!!」 「……」  なんとも言えない顔をする南倉が口元を拭った方とは反対の手で、頭を撫でてきたのであった。優しく、髪をふわふわと弄ぶように。  そんなことをされたのは初めてで。  漣の心は、南倉に開かれた。  くすぐったそうに笑い、漣はここ最近で一番の喜びを感じていた。  * * * 「南倉さんにおれの大切なもの見せてあげる」  二個目のドーナツを食べ終えると、残ったものは全て漣にあげると南倉は言った。さすが遠慮する漣だったが、持って帰っても腐らせてしまうと言うから、すっかりドーナツの虜になってしまった故に、食い下がることはできなかった。四つのドーナツを箱の中に仕舞い直し、それを大切に抱えながら南倉を案内したのは、自室である。これまで誰にも見せたことがない、秘密基地のようなものだ。漣の全てがそこに詰まっていると言ってもいい。  キッチンの明かりを消し、一瞬、室内が真っ暗になる。だが、南倉は驚かなかった。驚きすぎて声も出ないのだろうか。暗闇には慣れっこの漣だが、南倉もそうなのだろうか? 「こっちだよ」  斜め後ろで立ち尽くしている南倉の手を取り、夜目が利く漣が連れる。 「……どうして、部屋の中を真っ暗にするんだい?」 「怖いの?」 「い、や」  声色に怯えのようなものが窺えて、漣はくすくすと笑ってしまう。  言ってしまえば、大勢の人が暗闇より南倉の顔の方が怖いと言うだろうに。暗闇もへっちゃらだと笑いそうな南倉が弱々しく言うのがとてもおかしい。笑ったら温厚な南倉も怒るだろうか。けれど、笑いは込み上げてきて、漣の肩を震わせるものだから、繋がっている手を伝わって、その振動を南倉は感じているだろう。  やがて、自室の前に辿り着いた。だが。まだ明かりはない。 「ここ、は?」  しかし、暗さに目が慣れてきたのだろう。南倉は周囲を見渡し、漣のこと見てくる。  真っ直ぐ目が合い、彼の戸惑いを感じた。 「おれの部屋」 「……部屋? ……ここが?」 「そうだよ」  漣は南倉の手を離し、“襖”を開ける。  そして膝を折り、低い天井に頭をぶつけないよう屈み、中へと体を滑り込ませた。天井からぶら下がるコードの先についているスイッチを操作する。  ぱっ。明かりが点いた。中央に一つだけある蛍光灯──裸電球だ。 「漣、……」 「来て。狭いけど、入れると思う」  細身の南倉だ。若干苦しいかもしれないが、体を折れば入れるはずだ。  南倉はその場に座り、漣の部屋の中を覗き込むようにして入室してきた。 「本当に、ここが君の部屋なのか?」 「そうだよ。狭いから、布団も敷きっぱなしだけど」 「……そう、いうことじゃ……これは……」  南倉が体を全て部屋の中に入れたので、漣は襖を閉める。  橙の明かりが、煌々と輝る。 「ここは、部屋じゃない……」  南倉が言う。 「?」 「押し入れだよ。ここは」  母が帰ってきた音がした。それ耳で感じながら、既に夕食を食べ寝る準備を終えた漣は布団を被っていた。腕の中にはドーナツの箱を抱いている。すっかりドーナツの魅力に目覚め、甘い匂いを撒き散らすそれを母から守るべくそうしているのだ。  母は気付いていないらしい。来客があったことも、漣がドーナツを隠し持っていることも。  胸がどきどきした。初めての隠し事だ。本来なら許されることではない、白状しなければと自責の念に襲われるのに、今日はどこか強気な自分がいる。  どうしてなのかは分かりきっていた。南倉の、あの強そうな見た目がそうさせるのだ。  帰り際、彼はこのことは内緒だと笑った。人差し指を口の前に持っていき、ぱちりとウィンクまでして、漣を閉口させたものだ。  が、それすらも時が経てば面白く、漣の心を震わせる。 「ふ……っふ」  思い出して、つい忍び笑いを漏らしてしまうのだった。  * * * 「最近、あんまり来なくなったね」 「え……」  嬉々として本を差し出した漣に、図書委員はその日も話しかけてきた。年上の彼は目立つような表情を浮かべる人物ではなかったが、その時ばかりは漣にも分かるほどつまらなそうで。 「本を読むこと、楽しくなくなった?」  言葉が続かない漣に代わり、彼はそう言う。 「そんな、ことは……」  ないのに。  図書委員の言葉を訝しく思いながらも、考えを巡らせてみれば、なるほど、漣が感じている嬉しさは新しい本を読めからではなかった。 「他に楽しいことでも見つけたの?」 「あ……えっと」  戸惑う漣に、彼は困ったように笑う。 「別に責めてるわけじゃない。けど、つまらないなと思って」 「え?」 「君が来るのが、僕の楽しみだったから」  手慣れたように本の情報を読み込み、漣の個人情報を直接キーボードを叩いて入力していく図書委員。  その彼の指を見つめながら、漣は更に惑う。  それを知らない彼は口を動かす。 「この仕事、人気ないんだよ。自分の休み時間は潰れるし、図書室も人気ないから暇だし。君が来ると、この退屈な時間も楽しく思えて。こうやって話すようになってから、図書委員でいることが好きになったんだよ」 「……」 「だからといって、強制するわけじゃないけど」  そう締め括り、彼は漣が差し出した本を返してくる。 「返却期限は一週間です。過ぎないように気を付けてね」  そうして背中を向けようとする彼に、 「あ、待ってっ」  少し焦って、漣は呼び止めた。 「さ、最近……」  彼がこちらを見ていることを感じる。 「友達が、できたんだ」 「友達?」 「う、うん。それで、放課後はその人と会うことが多くなって……読書をする時間も減っちゃった」 「あぁ、そうなんだ」  落ち込んだような声音。  拍車をかけられて、漣は言葉を急いだ。 「でっ、でもね、ちゃんと来るから……! 俺、お兄さんがカウンターにいると、安心する。他の人は雑に本を扱うけど、お兄さんだけは丁寧で、その、優しいから」 「ぷ。お兄さん、って……一歳違うだけだよ」 「ええ??」 「分からないの? なかなか上級生をお兄さんって呼ぶこと、ないと思うけど」  くすくすと笑い、図書委員の彼は口元に手をやる。その仕草がなんだか……──漣は本の虫だけれど、相応しくその感情を表す単語を知らなかった。悔しいと思う。知っていれば、彼をもっと知ることができただろうに。 「さぁ、もう行きな。時間がなくなる。先生に怒られたくはないだろう?」  すっかり図書室に他の生徒の姿は消えていた。残されていたのは、漣と、この図書委員だけらしい。 「それに君が帰らないと戸締りできないんだ」  そう付け加えて、鍵を見せてくる。 「あ、ごめんなさい」 「ふふっ」 「……あの」 「なに?」 「お兄さんの名前、教えてください」 「……っ、あはは」  もう一度、お兄さんと呼称したのが面白かったのか。  図書委員は肩を震わせ、お腹に手をやり、最後に目尻を拭う仕草をして彼の名前を教えてくれた。 「僕は──」  * * * 「漣、今日は嬉しそうだね」 「……え」  思わず足を止めてしまった。どうしてあの図書委員といい、南倉といい漣の変化に敏感なのだろう。まるで些細な変化も分かるほど観察されているみたい、 「いいことだよ。人生は楽しい方がいいんだ」 「……そんなに」 「うん?」 「そんなに俺は分かりやすいですか?」  南倉とあの図書委員が重なる。 「そうだなぁ。分かりにくいけど、分かりやすい、ってところか」 「?」 「君と仲がいい人には分かる変化さ」 「……」  * * *  家の前で南倉と別れた後。漣の正しく脈を打っていた心臓は不意に乱れた。玄関に脱ぎ散らかされたヒールが一足分あったからだ。  母のものである。青みがかった黒のそれは新品らしく、室内の部屋を受けてきらきらと輝いていた。それなのにこうも雑に置かれていてはせっかく綺麗なものも勿体ないというものだろう。室内の奥に目を遣り、母が出てこないことを確認して、漣はその靴を綺麗に並べ直す。そうすれば、ほら。綺麗なものが、もっと綺麗になる。 「ただいま」  家の中に足を上げる。だが、返答はない。静かに進み、点けっぱなしの電気を気にすることなく、洗面所に向かい、手を洗う。それから通りすがりにリビングを盗み見て母がいないことを確認する。ふぅ、と息を吐き出し、一千円が仕舞われている棚に手を伸ばした。無事に今日の生活費を手に入れ、自室へ。  この間、漣は物音を立てないよう努めていた。  物置と化している部屋の押し入れを開き、狭く、布団が敷きっぱなしになった室内に入る。南倉はここがあまり好きではないようだが、漣にとっては物凄く居心地のいい場所だ。安心して息が吐けるから。 「……」  一千円を握り締め、深く呼吸をする。そしてリュックサックを緩慢とした動きで肩から下ろした。 「はぁ」  じー、とチャックを開ける。中には図書室で借りた本一冊と、漢字ドリルと算数ドリル、各教科書にノート。筆箱に給食袋だったり、A4の傷だらけのクリアファイルだ。小学生の持ち物は意外に多い。道で擦れ違う中学生は漣の背負っているリュックサックよりも更に大きな鞄を肩に下げているところを見ると、学年が上がるにつれて、持ち物も比例して増えていくらしい。今から少しだけ憂鬱だ。  宿題よりも先にクリアファイルから帰りの会で貰った手紙を取り出した。そこには数行にわたって手紙の趣旨が記載されている。  ──憂鬱だ。しなくてもいい期待をしてしまうから。  漣にしては珍しく溜息を吐き、その手紙を持ってキッチンへと向かった。  * * *  翌日、学校へ行く為、起きた漣は、人生で初めて虚無感を覚える。  昨日、母へと置いておいた学校からの手紙。 【三者面談のお知らせ】である。大事なもので、必ず保護者へ渡すように言われた。何度も……何度も。担任は念を押していた。  故に、漣も忘れることなく、帰ってきて宿題をやるよりも早くリビングにそれを置きにいったのだ。  しかし今、どうだろう。一夜経って、テーブルの上に置いた手紙は特に動かされた形跡がなく、ただ一言、“任せます”と書かれた付箋が貼り付けられているだけであった。 「……」  宛名はない。その一言がいったい誰に向けられたものなのか、漣なのか、それとも担任なのか。  漣は指を伸ばす。手紙を掬い取り、付箋を傷つけている文字をなぞってみる。すれば、粘着力がなかったのか、簡単に剥がれて足元に落ちていった。 「……」  その様を見つめ、漣は胸の裡に広がっていく虚無感を抱きながら、 「……」  ある顔を思い浮かべた。  * * *  放課後になる前から、ちらほらと保護者の姿が見え始めていた校内は帰りの会が終わり、学校という箱庭から解放されると一気に騒がしくなる。三者面談の週がやって来た。この一週間は学校に居残ることは禁じられ、即座に校舎から出ることを命令されていた。  しかし、漣は教室に残る。初日の今日、一番に漣の番であったのだ。 「蓮水くん、いいかしら?」 「……はい」  少し前とは打って変わり、静まり返った校舎。教室の中央に設られた対面の席に、漣は腰を下ろす。その椅子は、漣のことをあからさまに嫌っているクラスメイトのものであった。漣が座ったことを知ったら、大袈裟に騒ぐことだろう。 「えっと……お母さんは、仕事で来れないのよね?」 「……はい」 「そうね、うん……仕事なら仕方ないです。じゃあ、家では一人でいることが多いの?」 「はい」 「そう。ご飯とかはどうしてるの?」 「自分で、」 「あら、自炊しているの? 偉いね」 「あ……ぁ、ち──」 「蓮水くんに問題はありません。お母さんが特に問題なく過ごしていますって話してたから」 「……はい」 「蓮水くんは? 先生に何か言いたいことある?」  言いながら、担任は漣に関する書類を仕舞い始める。まるで、もうないだろう、と決めつけられているみたいだ。無論、ないけれど。  * * *  ないです、と言って足早に教室を抜け出した漣は、各教室を通り過ぎ、昇降口で外履きに靴を履き替えていた。  首を振った漣に担任は訝しむでもなく素直に納得し、もう帰っていいと言われた。昼休みに言われ渡してあった連絡帳を受け取ると、彼女はお母さんによろしく、と言付けた。 「……」  背中にある荷物が、それ以上に重たい気がして、漣はその場で軽く飛び跳ねた。だが、重さは全く変わらない。  意味のないことをしてしまったことにまた気分が落ち込んで、漣は歩き出した。  校舎から出、誰もいないその場所を進んでいく。人一人分開いた校門を目指す。 「……」  ふと、名前を呼ばれた気がした。  足を止めると、 「──漣くん」  親しげに呼ばれ、気のせいではないと分かる。  声の聞こえて来た方へ顔を向ければ、見慣れた図書委員がいるのである。 「どうして……」 「君は三者面談?」 「うん」 「そうなんだ。僕もだよ」  なんとも言えない顔で笑ってみせ、彼は腰掛けていた花壇を眺める。 「帰らないの?」 「まだ、待ってるんだ」 「……?」  疑問を抱いたが、深掘りはしなかった。なんとなく彼に誘き寄せられるようにして、漣も花壇に座る。  それ気付いた図書委員がふっと笑う。 「君はいい子だね」 「え」  予想もしない言葉をかけられ、目を見開く。 「だって、君は帰ってもいいのに」 「……一緒に待ってた方が、楽しい、でしょう?」 「はは、確かに。優しい、漣くん。どうだった? 三者面談、何か言われた?」  あ、こういうの聞くのはルール違反かな、と。  漣は少し前とは違う気持ちで首を振った。 「大丈夫だよ。問題ない、って」 「お、すごい」 「……すごいこと?」 「うん。先生から何も言われないのは優秀な証だよ。漣くんは頭も態度も良さそう」 「……そうかな」 「うん? 引っかかることあるの?」  詳しく聞いてくれそうな様子を見せるから、漣は口が軽くなる。不思議と彼になら全てを打ち明けられそうだった。彼なら、そうなんだ、と丸々受け止めてくれそうだから。 「あの、ね」 しかし、 「──漣!」  呼び声が、それを阻止した。  反射的に顔を上げた漣の瞳に、別の男の姿が映る。 「南倉さん……」 「知り合い?」 「う、うん。友達……」 「へぇ。漣くんは大人の友達もいるんだ」 「……っ」  ──知られたくなかった。彼だけには。 「ごめん、帰るねっ」 「あ……またね!」 「っ……」  知られたくなかった、彼、だけには。  図書委員に背中を向け、南倉に駆け寄った漣は手を繋ぎ、門前から引き剥がすようにして歩くことを強制した。 「お、おい、漣?」 「早く帰ろ」  ……少々怒ったような口調になってしまったのは仕方なかった。

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