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第20話 翳りの街

 シャワーの雫が秀貴の肩口で跳ね、ガラスの仕切り板を伝う。壁のコントロールパネルが水温がかなり低いことを表示している。季節は夏の名残りがあるとはいえ、身体に当たる水は冷たい。  秀貴は目を閉じ、額にシャワーを当て、少しでも身体の内に籠る熱を冷ましたかった。  冷たい水も、胸やペニスの先から滴り落ちるころには体温に近いのではないかと思えるほど、秀貴の肉体は佐久間との長い時間が生み出した残熱を、まだ充分に湛えていた。 (まるで交尾……か)  秀貴はまだ拭い切れない欲望の残滓を、自らの肉体の内に感じながら、こめかみから後頭部にかけて指で髪を梳いた。ぴちゃぴちゃと水が弾かれる音さえ秀貴のペニスを刺激した。  秀貴はぐっと自分の強張りを握った。そっと瞳を閉じ、濡れた壁に背中を預ける。じわりと屹立の芯から湧き起こる熱を感じながら、手を上下にゆっくりと動かす。ついさっきまで秀貴を支配していた得体の知れない情動が身体の芯から蘇る。深い吐息が次第に浅く、速くなっていく。壁から腰を浮かせると、ぞわぞわと疼く胸の頂きをシャワーの奔流が撫ぜる。 (ああっ……!)  思わず肉棹の根元に力が籠る。もう一度乳首の先に水の流れが当たるように身体の位置をずらす。きゅっとつぼまった乳首がピクンとざわめく。 (うあっ!)  あの時と同じ尿意に似た感覚を強烈に感じる。 (先走りだ……)  水温で熱を奪われていたペニスにじわりと温もりが広がる。秀貴は鼓動の高まりに合わせるように、手の動きを早めていく。 (くっ!)  冷えかけていた身体の中心に新たな熱が生まれる。頭の芯まで蕩けさせる甘美な快楽に手が届く。そして秀貴のペニスの先端から欲望の断片が一気に爆ぜた。  深く息を吐く。脳は快楽脳から日常脳へと急速に移行し、秀貴は冷静さを取り戻していく。 「秀貴、課長から連絡が入った。組織から予告状が届いたそうだ」  髪を拭きながらリビングに戻った秀貴の顔が急に強張る。 「まさか、また?」  秀貴は目を閉じ歯を食いしばると、眉間に深い皺を刻んだ。 「今度は横浜だ」  佐久間は苦虫を噛み潰したような顔つきで、手にしたメモをテーブルの上に置いた。  佐久間は首都高速道路、横羽線をみなとみらいインターで降りた。ミニチュアのプラモデルがそのまま大きくなったような街並みは、温もりを感じられない無機質さばかりが際立つ。  いちょうの並木は艶々と緑の葉を茂らせている。この通りを直進すれば、突き当たりは国際展示場だ。  助手席の秀貴はデタラメなリズムで、左の膝を人差し指だけで叩き続けていた。視線は窓の外へ向け、街路を往く人通りを睨みつけるように見つめた。 「秀貴、少し落ち着け。冷静でいなければ大切なことを見逃してしまうぞ」  秀貴は佐久間を振り返り、車の床に視線を落とした。 「そうだよね。こんな街並みを亜希子が歩いている訳がないのに……」  秀貴を見つめる佐久間の表情が柔らかく崩れる。 「俺の事を考えていろ。シャワーを浴びている時もそうだったんだろう?」  秀貴はかっと目を見開くと、口元にあった言葉を飲み込んで下を向いた。 「けっこうな喘ぎ声が聴こえたぞ」  秀貴はまた佐久間の顔を凝視した。 「ええっ?」  すっかり体裁を失くした秀貴はまた下を向いた。だが同時に緊張が緩められたことに気付いた。佐久間は秀貴をリラックスさせるために、わざとそんな話をしたのだろう。  ふっと車内から逃がした秀貴の視線が、見慣れた姿を捉えた。 「亜希子!」  佐久間はゆっくりと速度を落とし、左端の車線に車を停めた。秀貴は歩道側の助手席のドアを開け、車の屋根越しに歩き去る人の流れを目で追った。明るいショウウインドウを通り過ぎた人々は、波形に曲線を頭に載せたビルの入口に吸い込まれていく。 「秀貴、間違いなく彼女なのか?」  秀貴は腰を屈ませ、車の中の佐久間に向かって言った。 「間違いない。亜希子だよ」  その時、佐久間の胸ポケットの中で着信音が鳴った。 「はい佐久間。課長。えっ? 爆発物は見つからなかったですって? はい。じつは子虎亜希子らしき人物を発見しました。クイーンズキャッスルの中へ消えました。えっ、何ですって?」  その時だった。  秀貴が車のドアを閉め、亜希子の残像を追うように駆け出した。 「秀貴!」  佐久間の声に振り返りもせず、秀貴は軽々と中央分離帯のフェンスを飛び越え、反対車線に躍り出た。 (あれは絶対に亜希子だ)  秀貴には確信めいた勘が働いていた。 「佐久間! 彼女は一人だったか?」  電話から課長のがなり立てるような声が響いた。佐久間はスマートフォンを拾い上げると早口に継いだ。 「秀峰の情報はありませんか?」  すると相手の声のトーンが変わった。 「もしそれが間違いなく子虎亜希子なら、秀峰と落ち合う可能性がある」 「わかりました。また連絡します!」  佐久間はホームボタンを押すと、車のエンジンを切り、秀貴の後を追ってクイーンズキャッスルへ向かって走り出した。 (亜希子、なぜこんなことをするんだ? 一体いつからあんな奴らの仲間に!)  秀貴は苦々しさと不安に押しつぶされそうになりながら、人波を掻き分けるようにビルの中へ入って行った。  回りを見渡しても亜希子の姿は見当たらない。  ふと秀貴は濃い青色をした長いエスカレーターを見上げた。 「亜希子!」  秀貴は思わず大声で叫んだ。その時、一人の女が振り返った。サングラスを掛けていたが、それは間違いなく亜希子だ。秀貴はそう確信した。  秀貴は辺りを見回し、ガラス張りのエレベーターを見つけた。秀貴はもう一度振り返り、四フロアほど上に検討をつけ、エレベーターに乗り込んだ。その刹那、閉まる扉の向こうに佐久間の顔を見つけた。秀貴は右手の指を四本立て、佐久間に行き先を告げようと試みた。 (上手く伝わっただろうか)  秀貴は狭い空間に詰め込まれ、僅かに落ち着きを取り戻した。肩で大きく呼吸を繰り返す秀貴に好奇な視線が集まった。だが今はそんなことを気にしている場合じゃない。秀貴はそう自分に言い聞かせながら、視線はエレベーターの行く手を見据えた。今の秀貴には、僅かな時間さえ長く長く感じられた。  やがて扉が開くと、秀貴は人を掻き分けるようにフロアに飛び出した。  フロアの角を曲がるとエスカレーターの上り口が目に入る。視線を巡らせていると、南側に面した回廊に亜希子を見つけた。秀貴は息を詰めて走り出した。  もう一度角を曲がった時に、悲鳴が聞こえた。 騒ぎの中心に視線を向けると、亜希子ともう一人の女が銃を手にしていた。 (秀峰だ!)  血も涙もない女。それが秀貴が秀峰に対して抱いている印象だった。その悪魔が今、無関係な人々に銃口を向けている。  次の瞬間、その銃口が火を噴き、黒いスーツを着た男が倒れ込んだ。 (なんて奴だ!)  秀貴はそう毒づきながら、回りの人々と同様に床に身を屈めた。  その時、秀貴は両肩を掴まれた。佐久間だった。 「怪我はないか、秀貴?」  秀貴は佐久間の青ざめた顔を見つめながら応えた。 「撃たれたのは僕じゃない。黒いスーツの男の人だった」 「おそらく秀峰を追っていた捜査官だろう」 「こんな人混みの中で発砲するなんて!」  続けざまに銃声が轟き、佐久間は秀貴を庇うように覆いかぶさった。 「龍一、まだ生きていたか。運の強い奴だ。だがここまでだ。それ以上近づくとこれを爆破する!」  秀峰が手にしていたディバッグは、亜希子の背中に載せられた。 「亜希子!」  秀貴は思わず叫んだ。だが亜希子は怯えた様子一つ見せず、口元には笑みさえ浮かべていた。 「ある場所に代議士の家族を拉致してある。私がこのビルごと吹き飛ばしてやるわ」  秀貴は自分の耳を疑った。それが自分の妹の亜希子の口から出た言葉だと信じることができなかった。 「亜希子! 何故そんなことをするんだ?」  秀貴の悲痛な叫びに、亜希子は吐き捨てるように言い放った。 「目的のためよ。私たちの聖なる目的のため」  秀貴は追いすがるように言葉を投げかけた。 「お前は六本木の爆破事件にも関わっていたのか?」  秀貴の声は悲壮感にくぐもっていた。 「爆発物を仕掛けたのは私よ」  睨みつけるような亜希子の眼差しを受け止めた秀貴を、絶望感が押し潰していく。あの亜希子が事件の実行犯だった。目の前が霞み、亜希子の顔が滲んでいく。  膝をついた秀貴に、秀峰の冷酷な微笑が降り掛かる。 「お前の不幸は今始まったとでも思っているのか、秀貴?」  秀貴は下から秀峰を睨みつけた。  秀峰は続けた。 「お前は悲劇の中心にいるつもりだろうが、お前よりもずっと前から、いや生まれた時から亜希子は悲劇の中に閉じ込められて生きてきたんだ」  秀貴は亜希子に視線を向けた。眉間に皺を寄せ、まるで憎い仇を見据えるような亜希子の視線に、秀貴は愕然とした。 「お前と亜希子は、母親が違う兄妹だ。お前の父親、子虎真司と私の母、翔姫の間に生まれたのが亜希子だ」  秀貴の顔から一気に血の気が引いていく。 「そんな……!」  秀貴の肩に置かれた佐久間の両手に力が入る。今にも心が破裂してしまいそうな秀貴をしっかりと支えるように。  亜希子は秀峰の前に出て秀貴を睨み据えた。 「その母を父であるはずの子虎真司は国に売ったんだ。自分の地位を守るために。そこから姉の秀峰と私の復讐は始まった。父と言う名の悪魔とその祖国、日本という国に!」 「だけど父さんは父さんだ! 何故あんな残酷なことをした!」  亜希子の宣言に、秀貴は悲痛な叫びを上げた。 「父さん? お前だって嫌っていたくせに。お前だって仕事だけが、政治だけが生き甲斐の男を父親として愛してなどいなかっただろう?」 「それでも僕たちの父親に変わりはない!」  辺りにうずくまる人々は、恐怖に苛まれながらも、耳にした二人の会話に聴き入っていた。ある者は目にハンカチをあてていた。 「都合のいいことを言うな!」  秀峰が銃口を上に向け、トリガーを引いた。  冷酷な銃声が辺りの空気を裂いた。あちらこちらで恐怖が蘇り、悲鳴が上がる。  だが佐久間は脅しに屈することなく、真っ直ぐに秀峰に視線を向け、口を開いた。 「代議士の家族はどこだ? 彼等に罪はない。解放しろ、秀峰!」  その瞬間、ふたたび銃声が轟いた。同時に秀貴の耳元に呻き声が聞こえた。 「龍一さん?」 「ぐっ……!」  秀峰の撃った弾丸は佐久間の右肩を撃ち抜いた。 「やめろ、やめてくれ! もうこれ以上罪のない人の血を流すのはやめろ!」  亜希子は高らかに笑った。 「罪のない人? 馬鹿を言わないで。沈黙を守る愚かな羊どもの命に何の価値があるというの!」  秀峰は手にしていた銃を亜希子の右手に掴ませ、不敵な笑みを浮かべながら背を向けた。 「秀峰! 逃げるのか!」  肩で息をしながら佐久間が叫んだ。 「死にぞこないめ。お前の魂は私が貰い受けてやる。来世で逢おう、龍一!」  身を翻した秀峰の背中が小さくなっていく。 「一歩でも動いてみろ。もう一度撃つ。これが最後の警告だ!」  それは亜希子の言葉だった。

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