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 教師になってもう少しで一年になる。今日は担任をしている生徒たちとの最後の日だ。明日から春休みが始まる。芹沢は今日、学校に出勤した時に格好悪いことに泣いてしまった。職員室に入る前に下唇を噛みしめて涙を拭うと、一呼吸おいて中に入った。この涙の意味は、自分がこの場所を心から好きだと思えることがとても辛いからだ。  今日まで芹沢と桐野はたくさん話し合った。これから先自分たちがどう生きていくべきかということを。  あの日、抑制剤でも抑えられなかった自分の発情を、桐野によって鎮められたことは、芹沢にとって新たな一歩になった。自分がオメガであることを受け入れる前向きな勇気と、誰かを心から愛する喜びを得られたことは、芹沢の人生に大きな影響を与えた。そしてそれは、桐野も同じだ。  あの日を境に、桐野と芹沢は何度も体を重ねた。数えきれないほど繋がりながら愛し合い、絆を深めた。  お互いへの愛おしさが募るあまり、職場にいてもその強い思いを抑えきれず、一度だけ、誰もいない理科準備室でキスをした。誰かに見られたらというスリルと、自分たちの隠秘な関係への背徳感に興奮が増してしまい、キスだけではとどまらず、学校という神聖な場所で、欲望に抗えずに繋がってしまった。それは、二人の心に重たい罪悪感となって刻まれた。 「うっ、くうっ、だ、だめだっ、はっ、ああっ」  立ったまま背後から桐野に激しく突き上げられて、芹沢は声を押し殺しながら喘いだ。理科準備室にある薬品庫のガラス戸に、手を付きながら自分の体を支えていると、興奮と快感の余り洩れ出る自分の熱い吐息が、ガラス戸を曇らせる。 「こ、こんなこと、だ、だめだっ、桐野っ、も、もおっっ」 「ごめん……分かってるよ、はあ、はあ、本当に……ごめん、もうしないよ、こんなこと」  熱のこもった声で、耳元にそう囁かれたその言葉に、芹沢は、桐野の切ない思いを感じて、その場に泣き崩れそうになった。  本当は二人とも分かっていた。自分たちがどう生きるべきかを。ただ、きっかけが欲しかった。この場所が心から好きだから、この場所から離れることができるきっかけを二人で探していたのだと思う。いつまでも未練がましくしがみつくことが許される時間は、もう当に過ぎているのだということに気づきながらも、芹沢と桐野は、あの日、体を繋げた。  はっきりとした答えを二人で出せたのは、ほんの一月前だ。二人は今、その答えに後悔はしていない。もちろんこの場所に居られる可能性を考えなかったわけではない。それは、アルファである桐野の力を借りれば、芹沢がオメガであることを隠し続けることは容易いということだ。でも、二人がこの先その罪悪感を抱えながら教師を続けることが、果たして幸せかと考えた時、桐野と芹沢が出した答えは同じだった。 『自分たちの正体を正直に打ち明けよう』  その答えを出した時、二人の心はすっと軽くなった。自分たちの性に対するマイナスな感情がプラスへと変わり、生きる希望と勇気が沸いた。 「だったら、生徒の前で報告しないか? 俺たちはアルファとオメガで、運命の出会いを果たして、ついに番になったって」  芹沢はひどく真面目にそう言ったら、桐野はあの大きな瞳を更に大きくしながら、口をポカンと開けていた。 「差別教育の一環としてだよ。リアルに生徒たちに感じてもらいたんだ。この国で実際に起きてる、紛れもない差別という現実をね」  芹沢の言葉に桐野はひどく納得したように頷いた。 「ああ……いいね。流石芹沢だ。俺たちの最後の特別授業だな。生徒たち、凄く驚くだろうな……かなり忘れられない授業になると思うよ」  そう笑顔で言った桐野の顔が浮かび、芹沢はまた泣きそうになる。自分で決めたことなのに、やっぱり学校という場所にいると、ここが自分の居場所だと大きな声で叫びたくなる。でも、それを芹沢は一旦諦める。桐野とともに。 「おはよう」  職員室に入った芹沢に桐野が笑顔で声を掛けた。今日は手始めに二人で校長室に行き、すべてを正直に打ちあけて、辞表を出すところから始めないと。  桐野は教師を辞めて政治家になると決めた。その意図はこうだ。オメガのためにこの国の法律を変えたいから。  オメガであるということだけで、公務員という職業はもちろん、高い水準の職業につくことができないという差別を、桐野は芹沢のために変えたいと言った。そして、いつかまた二人で教師になることを目指そうと、そう固く誓ったのだ。  芹沢は教師を辞めたら、桐野が政治家になるための手伝いをするつもりだ。桐野なら立派な政治家になれる。芹沢はそう信じてこの男をサポートしていきたいと考えている。  二人で顔を見合わすと、迷わず校長室に入った。入ってすぐ校長にすべてを話して辞表出した。その時の校長先生の顔を思い出すと、桐野と芹沢は多分何度でも笑える。そのぐらい、校長先生は顔が変形するほど驚いていた。  すべてが順調に行くとはもちろん思っていない。でも二人が諦めず一緒に頑張れば、この国を変えられる可能性はもちろんゼロじゃない。 「よし! 教室に行くか! 最後の挨拶をしないとな」  職員室から廊下に出た瞬間、桐野が声高らかにそう言った。芹沢は自分で言っておきながら緊張してしまい、こっそり桐野の手を握った。 「俺の手を一生離さないでくれ……」  芹沢はドキドキする心臓のせいで、そんな恥ずかしい言葉を口走った。 「もちろん。俺の方がお前を死んでも離さないよ」  桐野はそう言うと、「行くぞ!」と言い、芹沢の背中を力強く叩いた……。                                       了

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