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第7話

 深い森は静けさに満ちている。そこは誰も出入りしていないはずなのに、なぜだか歩きやすかった。木々の隙間からは光が差し込み、風が抜け、視界は開けている。地面を覆う草木は無く、不思議に思ってレオーネが来たほうを振り返ると、そこは暗い森で今通って来た道も無かった。  森が道を作ってくれているんだ。レオーネは気付いて、胸が高鳴った。なんという不思議な体験だろう。思わずぎゅっとリゼロンの手を握る。先導する彼は、レオーネのほうを振り返ってくれた。  彼の瞳に映る自分はどんな表情をしていたのだろう。リゼロンがひとつ、くすりと笑う。 「人間には不思議なことであろうな。我々エルフは森の精霊と親しい。森は私を害さない。私の友人だという証を持った、そなたのことも」 「森の精霊?」 「そうだ。人の子の眼には映らぬが、世界には精霊が満ちておる。あやつらは、良いことも悪いこともしてな。だが……、そもそも良いことや悪いことを決めているのは人の子や私たちのような、他の存在だ。あれらにとっては、普通に過ごしているだけ。だから私が、そして精霊が望めば道も開くし、拒むこともある」  そんなことは、おとぎ話でしか聞いたことが無い。レオーネが知らないずっと昔に、エルフと人間はよき隣人だったという。エルフたちは神の使いや、森の賢者と呼ばれ、人間達に知恵を授けたとか。  しかしレオーネの知るエルフは、人間の便利な奴隷でしかない。仮におとぎ話が真実だったとしても、本当に遠い昔のことなのだろと思う。 「そなたの犬も、霧が見えぬから森に遊びに入ってしまったのだろうな。ここには精霊が多くいる。動物にとっては居心地のいい場所に違いない。……この森には、人避けの「拒絶の霧」が張ってあるのだ。私は……あまり人の子に会いたくないのでね。わかるだろう? 人の子はエルフを……よくは扱わぬからあまり関わりたくなくてな。他のエルフがどうかは知らないが……」  実際、この国でエルフは人間よりも下等な存在として扱われている。奴隷だ。しかし、レオーネとその家族、またその従者たちの考えは違った。  祖父ダヴィードの代から、エルフを人と同等に扱おうとあれこれ行動しているのだ。レオーネもまた父からそのように教育を受けているから、エルフに尊大な態度を取ったりはしなかった。今も同様である。  また、それを知っているらしく、リゼロンのほうもレオーネに対し友好的に接してくれた。  リゼロンに手を引かれて、森を進む。その間、彼は色々なことを教えてくれた。彼は長い間この森にいたから、恐らく何十年も人に会っていないそうだ。リゼロンはレオーネの祖父からこの森に住む許可を得て、住居を構え霧と共に暮らしていたのだそうだ。 「しかしダヴィードに孫ができていたとは。それもこんな可愛らしい子羊が生まれているなど」 「こ、子羊じゃなくて、僕の名前は、獅子という意味で……いつか立派な領主になるのです」  レオーネが顔を赤くする。この領地を代々受け継ぐ貴族の一人息子なのだ。いずれそれを継承しなければならない。強く優しい子になるように、との願いを込め、遥か遠い北の国では「王」と呼ばれている獣、獅子の名を授かった。 「ほう、それは楽しみなことだ。しかし私にはまだ子羊しか見えぬぞ? 飼い犬に逃げられ、森に泣きながら入って来た小さな子供だ」 「な、泣いてなど……」 「それに、人の子なのにエルフの手を握りしめておる。私無しでは森も歩けぬ、哀れな子羊よ」 「……そ、それは……」  リゼロンの言葉は不満だったけれど、それでも手を離したくはなかった。彼に見捨てられたら、森で迷子になって帰れないかもしれない。それに、リゼロンの温かな手を握っているとひどく安心した。レオーネには、彼がエルフとしては特殊であるとはいえ、悪い人物には感じられなかったのだ。 「……ああすまぬ。久方ぶりに人と会う故、意地の悪い言い方をしてしまったな……。そなたは立派な獅子でもあるぞ。そんなに恐ろしいのに、それでも愛する犬の為、この森へと足を踏み入れたのだから。勇敢な子だ」  リゼロンは足を止め、レオーネの眼を見つめて頭を撫でる。その表情は優しく、慈母を描いた絵画のように柔らかく魅力的だ。レオーネは気恥ずかしくなって眼を逸らした。そんな姿を見て、リゼロンは小さく笑う。 「さあ、そこが我が家だ。鳥たちが犬を案内するまで、少し待つと良い」  言われて顔を上げると、いつの間にか目の前には木で作られた家が建っていた。立派な丸木を組み上げて作られたそれは、こんな森の奥に建っているのが少々不自然に感じられるほど美しい。  そんなはずはないのだが、まるで先程完成したように真新しく見える。屋根や扉も全て木で出来ていて、自分たちの住む石作りの家とは全く違うけれど、どこか懐かしい感じもした。  リゼロンに手を引かれて家の中に入ると、中も彼が暮らしているとは思えないほど整っている。家の中には部屋が2、3有るようで、リゼロンはその1室で暮らしているらしい。つまり、扉を開けてすぐの部屋に。  木製のベッドやタンスは古めかしい意匠だけれど立派なもので、きっと祖父のダヴィードが職人にあつらえさせたものなのだろうと思った。机や椅子も有るし、暖炉やランプも用意されている。ただ、生活をしている気配だけが無い。  特に食事に関する物が見当たらなかった。そういえば、エルフは何を食べるのだろうとレオーネは首を傾げる。 「そこに座って待つと良い。なに、そなたを捕って食べはせぬ」  椅子を指差して、リゼロンは冗談めかして言ったけれど、心を読まれたような気がしておっかなかった。従ってのろのろと椅子に座りテーブルに向かう。室内が存外明るいのが不思議でよくよく見てみると、壁に沢山の窓のような穴が開いていた。あんな穴が人間の家に空いていたら、雨は入るだろうし虫や生き物も入り放題だろうに。ここは大丈夫なのだろうか、エルフの家だから。  そんなことを考えていると、リゼロンが家から出て行く。扉を開けたまま、彼が天に手を差し伸べると、その指に一羽の小鳥が止まった。青く煌めく宝石ように美しい鳥が、彼の手の先でさえずっている。その光景が何かの宗教画のように神々しくて、レオーネはうっとりとして見つめていた。  リゼロンは、何か人間でもエルフでもない、特別神聖な存在のように思えた。 「もうすぐこちらに来るそうだ。喉が渇いて泉で休んでいたらしい」  リゼロンがそばに戻りながら教えてくれる。レオーネは心の底から安心して、「ありがとうございます」と素直に礼を口にした。するとリゼロンが一瞬驚いたような表情を浮かべたから、レオーネはまた不思議に思った。 「……いや、……そうだな。そなたはダヴィードの孫であるからな」  変わった子だ。リゼロンはそう言ったけれど、変わっているというなら、彼のほうがよほどそうだと思った。 「その、……丁寧に話さずともよいぞ。私に対しては」 「でも、年長のかたにはこのように話せと……」 「私は構わぬ。子どもにそのような話しかたをさせるのは、どうにも落ち着かぬから」 「……わかった。じゃあ、リゼロンって呼んでもいい……?」  恐る恐る問えば、ああと肯定が返ってくる。なんだかとても素晴らしい友人ができたような心地がして、レオーネはまた胸が高鳴った。  ややして、キャンキャンと甲高い鳴き声が聞こえてくると、レオーネは椅子から離れて家を飛び出した。森の中から金色の仔犬が飛び出して、レオーネの腕の中に飛び込んでくる。 「ネイファ、うわ、わわわ!」  甘えるように顔を舐め擦り寄って来るものだから、勢いに負けてレオーネも地面に転がってしまう。くすぐったいよ、と引きはがそうとしていると、リゼロンが歩み寄りながら言う。 「ふふ。そなたの足が遅いのを心配しておるぞ? どこで道草を食っておったのかと」 「ええ? 迷子になってたのはネイファのほうだぞ。勝手にいなくなっちゃいけないんだからな」  そう言いながらも、レオーネは優しく犬の背を撫でる。柔らかな毛並は葉っぱや土で汚れているけれど、それでも艶やかで、日頃から可愛がって大事にされていることは見ただけでわかる。リゼロンも膝を着いて、気持ちよさそうに転がっているネイファを撫でた。 「だ、そうだぞ? もう兄弟に心配をかけてやるな。レオーネはそなたを追って大変な勇気を出したのだから、そなたも大事にしてやるとよい」  その言葉にネイファは小さく頷いたように見えた。レオーネはリゼロンを見上げて、「ネイファと話せるの?」と尋ねる。 「まさか。犬の言葉などわからぬ。しかし気持ちぐらいは汲んでやれるさ。ネイファもそなたの気持ちぐらいは汲んでくれるであろうよ。そなたらに適切な信頼関係があればな」 「そんなもの?」 「そうだ。人の子も同じだろう? 言葉を交わせたとて、気持ちを汲むことができなければ話せないのと変わらないのだから。本当に必要なのは、互いに信じる心というもの」 「ふうん……」  幼いレオーネには、まだリゼロンの言葉はよくわからなかった。ただ、ネイファと信じあえるなら嬉しいと思うし、それに。  もし、この美しいエルフと信じあえたならどんなに幸せなことだろうと、頬を熱くさせたのだった。  それから少しネイファを休ませて、リゼロンは森の外へとレオーネを案内してくれた。名残惜しいけれど、あまり長居しては両親や従者たちも心配するだろう。  森の淵まで来ると、鮮やかな丘と見慣れた別荘が見えて、そこで人々が賑やかにしている声も聞こえた。 「私はそこよりは出られぬ。ここでお別れだ」  リゼロンが森の中に立ち止まる。きっとこのあたりで霧が途切れるのだろう。ネイファはまたさっさと別荘のほうへ走って行ってしまった。レオーネは追いかけようとしたけれど、ふと自分の手の中に握られた指輪を思い出す。 「……僕、またここに来ても、いい……?」  恐る恐る尋ねる。リゼロンは指輪を取り上げていない。つまりそういうことなのだろうかと、上目遣いに問うと、彼はまた膝を着いてレオーネの頭を撫でた。 「そなたがそれを望み、私にそれができるなら。……ただ、一つ約束をしてくれぬか?」 「な、なに?」 「私のことは、そなたの信頼する両親にしか明かしてはならぬ。そして私の名は、誰にも教えないでくれ」 「う、うん……あ、……ぼ、僕たちと同じように、エルフが好きな子にはだめ? 友達がいるんだ」 「ふむ……では、その者にも約束させよ。このことは大人には絶対に明かしてはならぬ、とな。しかしその者をここに連れて来てはならぬ。必ず、そなた一人……ああ、ネイファはよいぞ。だが人の子を案内してはならぬ。よいな?」 「うん、わかった!」  また会いに来て良いと言われたのが嬉しくて、レオーネは喜んで頷いた。  その時から、二人の密やかな関係は始まった。

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