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第三話 霧の森のリゼロン

「ネイファ、ネイファ! ダメだよ、帰っておいで! ネイファ!」  レオーネは霧深い森に向かって叫んだ。シンと静まり返った森からは、なんの反応も無い。まだ十歳になったばかりのレオーネは、どうしていいかもわからず、ただ森の入り口に立ち尽くした。  フェルヴォーレ家の領地、その末端に有るこの森は、一年中霧が立ち込めている。穏やかな丘の麓にあり、ちょうど別荘の近くだから、レオーネも小さな頃から見慣れている森だ。父からそこへは決して近寄ってはならないと言われていた。  その日は貴族たちとの茶会を別荘の庭で行っており、まだ幼いレオーネは早々に退屈になってしまった。一人息子とあって少々人見知りもする彼は、同い年の子どもたちともうまく馴染めず、飼い犬と共に庭を出て丘で遊んでいたのだ。  ネイファと名付けた、金色の長い毛が美しい雌の仔犬。無邪気な友人とじゃれ合って遊ぶうちに、彼女は興奮したのか走り始め、困ったことに霧の森の中へと入ってしまったのだ。レオーネは真っ青になって、森のそばへ駆け寄り名を叫んだ。いくら呼んでもネイファは帰って来ない。レオーネは不思議な霧に満ちた森の前で、立ち尽くしてしまった。  父からは、その森には恐ろしい呪いがかけられていると聞いていた。幼い頃は怖くて、どうしてそんな森が別荘の近くに有るのかと泣いたものだ。父は少し考えて、「その森を見守るのが我らの役目だからさ」と答えた。  そんな役目はしたくないとレオーネは思ったが、今はそれどころではない。放っておいたら、愛犬が森の呪いで死んでしまうかもしれないのだから。レオーネは一度屋敷を振り返ったが、従者たちは客人のもてなしで忙しいのかレオーネに気付いていないようだ。レオーネはぎゅっと口を結んで、それから意を決し霧の中に飛び込んだ。 「ネイファ! ネイファ、どこ⁉ 帰ろう、ネイファ!」  森に入るとますます霧は深くて、辛うじて足元は見える程度だ。すぐに帰りたくて振り向いたけれど、あんまり霧が濃すぎてもう森の外がどちらかもわからない。うう、とレオーネは泣きたくなった。  それでも、ネイファを放っておくわけにはいかない。なんとか足元を探って、枯れ枝を拾うと、護身用の剣の代わりに構え恐る恐る足を進める。 「ネイファ、うちに帰ろうよ、ネイファ……」  名を呼んでも、鳴き声一つしない。ガサガサと足元を掻き分ける音の他に、森の中ではなにか生き物が蠢いている音や、風に揺られる葉、鳥の鳴き声などがしているのに、少しも見えないのが恐ろしい。心細くて、レオーネの声は次第に力を失っていった。   もしかして、ネイファはとっくに呪いで死んでいて、自分ももうすぐ死んでしまうのではないか……。そんな凄惨な末路が頭を過ぎって、涙がこみあげる。  と。 「そなた」 「っ、わあ!」  突然すぐそばで声がして、レオーネは飛び上がり、そのせいでひっくり返って尻もちをついた。目を凝らして周りを見るけれど、濃い霧のせいでそこにいるはずの人物も見えはしない。 「人の子、ここで何をしている?」 「あう、あ、ぼ、僕、僕……」  ずいぶん高い位置から声がするし、きっと相手は男性なのだろうけれど。「人の子」とわざわざ言ったのだから、人間ではないのだろう。 こんな高圧的な物言いをまさか「エルフ」がするわけもないから、もしかして伝説に出てくる「インキュバス」だとか「悪魔」の類かもしれない。そう思うとますます怖くて、レオーネの喉はカラカラになり、まるで貼りついてしまったように声も出せなくなった。涙ばかりがこみあげて来るし、このまま自分は死んでしまうのかもしれないと思うと絶望的な気持ちになった。  そして、レオーネは思い出す。ネイファを、飼い犬を助けなければいけないことを。 「ぼ、僕、ネイファを……犬を、探しに来て、お、お願いします、ネイファのことは助けてください、なにも知らずに入っちゃったんだ、僕は呪い殺してもいいから、ネイファは許してあげて……っ」 「……ふむ?」  レオーネは懇願したけれど、声の主は不思議そうな声を返した。見えていたら、首でも傾げていそうだ。 「そなた、なにか勘違いをしているようだが……。まあいい。犬か。私は見かけていないから……そうだな、鳥にでも探させよう」 「……ほ、本当に? 許してくれる……?」 「許すもなにも無いが……そなた、この森と私のことをなんだと思っているのだ」  質問に答えなければどうなるかわからない。レオーネは必死で説明した。ここは自分の別荘の近くで、父には呪いの森だと言われていること。ネイファは許してあげて欲しいこと。  全て聞き終えると、目に見えない相手はクックと笑った。それにさえ怯えていると、「ああ、すまぬすまぬ」と彼は言う。 「あまりにティベリオが安い嘘をついているので、愉快でな。であれば、そなたは随分怖い思いをしたであろう、ティベリオ・フェルヴォーレの息子よ」  突然父親の名前を呼ばれて、レオーネは目を丸くした。 「父様を知ってるの?」 「ああ、そうだとも。あれの息子なら、私もそなたを歓迎せねばならぬな。さあ、付いて参れ。鳥にネイファとやらを探させている間、我が家で待つと良い。私はともかく、人の子には森は危険が多いというからな……」 「あ、あの」  付いて来い、と言われても。何も見えないのに声が遠ざかって行くから、慌てて呼び止める。と、彼は「ああ」と思い出したようだ。 「そうだ、人の子には霧が見えるのだったな。どうするか……そうだな、しばし待て」  彼はそう言って、何かをしているようだ。衣擦れの音が小さく聞こえて、それから突然目の前に手のひらが現れた。また飛び上がりそうになるのを抑えて見ると、白い手のひらに一つの指輪が乗っている。  大人の身に着ける指輪だろう。繊細な模様を凝らした金色のリングに、小ぶりの青い宝石が付いていた。レオーネが困惑して見つめていると、「持っておれ」と一言。  従わないとどうなるかわからない。レオーネは恐る恐る手を伸ばし、彼の白い手の指輪に触れた。  その瞬間、レオーネの眼には深緑と木漏れ日の美しい森、そして目の前に膝を着いた、この世の者とは思えぬほどに優美な男を目にした。  金色の髪は光の少ないこの森の中でも輝いているようで、切れ長の瞳はしかし優しげにレオーネを見つめている。目線が合うように膝を着いてくれているのだ、とは後で気付いた。森と同じほど深い緑色のローブの下に、滑らかなブラウスを着た男の耳は、僅かに尖っている。 「エルフ……」  レオーネの口から思わず漏れた。目の前の人物は、間違いなくそうだ。しかしレオーネは、それほどまでに気高く見えるエルフを見たことがなかった。彼らはみな一様に無気力で、夢の中を生きているように生命感の無い奴隷だ。こうして自律的に会話をするのを、彼は初めて見た。 「私の名は、……リゼロン。そなたは?」  優しく問いながら、手が延ばされる。それが案内のために手を引こうと考えているものだと、レオーネは繋いでから理解した。細長い指はしなやかで、とてもよくできた彫像のように整っているのに、人と同じ温もりがした。  レオーネは、自らの鼓動の音が聞こえるほど感情が昂るのを感じながら、名を答えた。 

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