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第9話

 ある日、母のジルベルタが病に倒れた。  いつものように茶会に参加した、数日後のことだった。医師に見せて薬も飲ませたけれど、あまり効果が無い。原因もわからないまま酷い高熱でベッドに臥せり、日に日にやつれていく母を見るのは悲しくて辛くて。レオーネは母の前で笑顔を見せ、一人になると涙をこぼした。  少しでも母の気分がよくなればと、毎日花を摘んで花瓶にさした。元々花が好きな母の部屋には、鉢植えや花瓶が並び、いつも花に囲まれていたのだ。母の枕元は日ごとに華やかさを増したけれど、しかし状況は悪くなる一方だった。  このままなんの手も打てず、母は死んでしまうのだろうか。  レオーネはその不安を、カナンへの手紙にしたためた。するとその返事に、驚くようなことが書いてあったのだ。 「病の一部は、精霊のいたずらが原因の場合がある。だから、精霊が嫌がるような物をお母様のそばに置けば、病を遠ざけられるかもしれないって、アーシェが。昔、森のエルフたちにはその知恵が有ったんだって。もしかしたら、レオーネの会っているエルフなら何かわかるんじゃないかって、教えてくれたよ」  レオーネはすぐさまこれを父に伝え、リゼロンに会いに行く許可をもらった。そしてレオーネは数人の従者を連れて別荘に急いだ。  フェルヴォーレの領地は主に農耕地が広がっており、領民達は華やかな暮らしをしているわけではないけれど、極端に荒れているということもない。治安は他の領地に比べて遥かに良いのだ。物取りのような者も殆どいないから、みな油断していたと言われればそうだろう。  別荘に着くと、レオーネは従者達にネイファを預けて、単身リゼロンのいる森へと向かおうとした。従者の一人が、森の入口まで着いて行きますと言うのでそのようにさせる。  レオーネが霧の森の入口に差し掛かったところで、木の陰から突然二人の人影が飛び出してきた。急なことに対応できなかった従者が押し倒されながら、レオーネ様と名を呼んだ。見れば、二人のうちの一人がレオーネに顔を向けている。真っ青になって森に飛び込んだ。霧の中に入ってしまえば、彼らには姿が見えないから追ってこれないはずだ。  けれど、その足首を掴まれ地面に転がってしまった。 「大人しくしてろ! 持ち物を全部よこせ!」  顔を半分スカーフで覆って隠した男が、倒れたレオーネにナイフを見せて脅す。レオーネは恐ろしくて一瞬身動きができなかったけれど、目の前の男の後ろで何か鈍い音がするのを聞き、我に返った。従者に乱暴をしているのだろうか? そんなことは、ダメだ。 「わ、わかった、全部出すから、彼にひどいことをしないでくれ」  とはいっても、レオーネが持って来たものなど小さな革の鞄に詰めたお菓子や、押し花の挟まれた本などしかない。野盗はレオーネの鞄を乱暴にひっくり返し、中身を地面に落としながら「無い」と舌打ちすると、またこちらを睨みつけた。  その冷えた瞳といったら。レオーネは生まれて初めて、殺されるのかもしれないと感じた。 「何か隠しているだろう!」 「何も、」  答えようとしている間に、乱暴にブラウスに手を掛けられ、力任せに開かれる。ブチブチと嫌な音がして、いくつかのボタンが宙に舞う。そして、その白い胸元には、紐を通してネックレスにしたリゼロンの指輪が輝いていた。 「これだ、よこせ!」 「! こ、これは、許して」  これがないと、霧の森に入れない。リゼロンに会えなければ、母の病気を治せない。レオーネは咄嗟に指輪を守ろうとしたけれど、大人の力には勝てず、紐ごと指輪をむしり取られてしまう。  その瞬間、レオーネの視界は霧に包まれてしまった。 「な、なんだ? 急に霧が無くなった……」  男が狼狽えている。一瞬、捕まえる手が緩んだのを感じ、レオーネはもがいてなんとか男から逃げた。待て! と男が起き上がり追いかけて来る。レオーネの前には茂みや木の枝が張り出し、霧で前も見えない。なのに、男はまるで街道でも走るように真っ直ぐレオーネを追いかけて来るではないか。 「……ッリゼロン! リゼロン、助けて!」  追い付かれたら、殺されるかもしれない。レオーネは怖くて、声の限り叫んだ。  その瞬間、レオーネの後ろで「うわあっ」と叫び声が上がる。それでも振り返ることもできず、必死で霧の中をがむしゃらに走った。どちらに向かっているのかもわからないけれど、とにかく男から逃げなければ。 「レオーネ!」 「……ッ!」  唐突に声がして思わず足を止めると、そのまま温かい胸の中に抱きこまれた。その声で、その花の香りで、見えなくたってそれが誰なのかわかって、レオーネはボロボロ涙を零しながらリゼロンに抱き着いた。 「リゼロン、リゼロン……っ」 「レオーネ、大丈夫だ。もう大丈夫。大丈夫だ……」  リゼロンもまた、レオーネを力強く抱きしめ返してくれて、その腕があまりにも優しく、レオーネはしばらく言葉も発せず咽び泣いた。  こうしている間にも、男が迫っているのではないかとも思ったけれど、リゼロンが大丈夫だと言うならそうなのだろうとも思う。ややして、レオーネはリゼロンを見上げた。霧は深く、彼の顔も霞んで見えるほどだったけれど、その表情が優しいのだけはわかった。 「……っ、リゼロン、ごめん、指輪、盗られて……っ」 「構わぬ。アレに込めていた力は消した。そなたを追いかけていた者も、森に入れぬ。ここはもう安全だ」 「そ、それに、従者が、襲われたんだ」 「大丈夫、鹿たちを走らせた。そなたの従者のことも守ってくれるだろう。鳥を別荘に送ったから、そなたが襲われたこともすぐ伝わる。助けも来ようし、手当もしてもらえるだろう」  それを聞いて、レオーネはようやっと少し安心できた。それから改めて、リゼロンの胸の中で静かに泣いた。  全身が冬の水の中に落ちたみたいに冷え切っている。もし逃げきれていなかったら、と考えると涙が止まらなくて、レオーネはずっとリゼロンに背中を撫でられながら涙を零し続けた。  リゼロンの家まで連れて来てもらうと、その庭先でようやく霧が晴れた。熱い瞼を擦りながらリゼロンを見ると、彼は一瞬だけ険しい表情をしていた。名を呼ぶと、彼はすぐに微笑みを浮かべ、「さあ、もう大丈夫だ」と家に入れてくれる。  破けた服の代わりにリゼロンの古い服を貸してもらう。それはリゼロンと同じ花の香りがして心地よかった。物音がするから見れば、小屋の壁の隙間から鳥や動物が覗き込んでいる。この平和な森で起こった事件の結末を見に来たのかもしれない。 「すぐに、そなたの家の者が迎えに来るだろう。連れて帰ってもらうといい」  リゼロンの言葉に、考えるより先に「嫌だ」と口にしてしまった。それから気持ちが追い付いてくる。  嫌な理由の一つは、母を治療する手がかりが必要であること。もう一つは、従者がいても襲われたのだから、この森の中のほうがよほど安全だと思うことだ。  先程の野盗の冷たい眼差しと、ナイフの鋭利な光、そして掴まれた身体の痛みを思い出してレオーネはまた震えた。 「こ、ここにいちゃだめ? しばらくでいいから」 「しかし、そなたの家族が心配するだろう。あのようなことが起こったばかりなのだから」 「リゼロンのそばのほうがずっと安全だよ、ここには誰も来られないんでしょ? それに、リゼロンにお母様の病気を治してもらわないと……」 「……母が、病に侵されておるのか」 「うん、もう何日も高熱が出てて、ベッドから出られないんだ。どんどん痩せてるし……人間のお医者には治せないんだって」 「ふむ……」  リゼロンはレオーネの言葉に目を閉じ、思案する。「何か治す方法を知らない?」と尋ねると、「心当たりが無いわけでも無い」と返事。 「本当⁉」 「ああ、だがすまぬ。実際に診ていないから、確実なことは言えない。もしそれが精霊の悪戯の類であれば、あれらを遠ざける香りの薬草を使えば改善するかもしれぬ」  しかし、それはこの森の中にしか生えていないかもしれない。それを摘んで持って行ったとしても、すぐに萎れてしまうだろう。リゼロンは加工して持って帰るべきだなと呟いた。 「なら、それができるまでここにいさせて」 「私は構わないが、しかし……」 「お願い、お願いだから」  怖いんだ。リゼロンの身体にぎゅっと抱き着く。その温もりと香りを感じている間、レオーネは先程の恐怖を一時的に忘れられた。ここは安全で、リゼロンは優しい。そう信じられたのだ。 「……わかった。そなたがここに来るための指輪をもう一度作らねばならぬしな……」  リゼロンはレオーネの頭を撫でて、そう囁いた。ありがとう、と呟いて、それでもレオーネはしばらく彼の腕の中にいた。  だから。リゼロンが思い悩むように目を伏せたことには、気付かなかったのだ。

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