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第14話

 辛い、苦しいばかりの夢の中に落ちていた。  何度叫んで、泣いて、許しを請うても解放されず熱に翻弄される。逃げられぬように結びつけられた何重もの紐や鎖が肌に食い込む。泣き続けた喉は焼けるようで、頭は苦しみで焼き切れてしまいそうなのに、終わりが与えられない。  どうか、どうか、お許し下さい、ご主人様。  何百回そう口にしただろう。それでも目の前の男は笑っていた。愛らしいと、可愛いと囁いて、責め苦を与え続けた。  隣に立つ同族が助けてくれることは無く、むしろ「早く諦めてしまえば楽になる」と甘く囁き思考をかき乱す。  こんなのは嫌だ。もう、こんなことは。  涙を零し、そう叫んだ身体が、ふいに自由になる。その腕を引かれ、優しく抱きしめてくれる温もりに包まれた。  ああ、なんと温かい。  その手のひらが髪を撫で、囁く声が聞こえる。  「良い子だ、リゼロン。ここにはお前が恐れるものは、何一つ無いぞ。何一つ、だ」  その言葉はあまりにも懐かしくて。うっとりとその胸に顔を埋め、身を任せる。小さく名を呼ぶと、息を呑む音が聞こえた。何を驚くことが有るのだろう、他ならぬ己の名だというのに。  そう思った時、ふいに感じた。ほのかな人の子の香り。それはその者ごとに違う。髪から、身体から僅かに漂う匂いは、その人のものではなく――。  目の前の者が誰か気付いて。ぎゅっとその身体を抱きしめた。 「……レオーネ……」  ふんふん、という音と、もぞもぞ身体を突き、何かが擦り付けられる気配にリゼロンは重い瞼を開いた。  けだるい身体を捩って、視線を移すと、腕に金色の生き物が顔を乗せている。真ん丸な空色の瞳が優しげにこちらを見て、嬉しそうに鼻を鳴らした。しばらくの時間考え、それから「そなた、ネイファか……?」と尋ねた。  ワォン! と低い声で答えたネイファは嬉しそうに前足をベッドに乗せ、リゼロンに顔をすり寄せる。 「おお、おお……そなたも随分立派になったな、ネイファ」  リゼロンは思わず微笑んで、その滑らかな毛並みを撫でてやる。12年前に見た時はまだ仔犬だったけれど、あの時から足は大きかったから、いずれ育てば立派な犬になるだろうとは思っていた。実際、今は人の子どもほどの大きな犬に成長しているようだ。 「犬であればそなた、かなりの高齢であろうな。息災か? おお、そうかそうか。私も再び会えて嬉しいぞ、ネイファよ」  頬の下に指を伸ばし、くすぐるように撫でると、ネイファは気持ちよさそうに目を細める。先程から聞こえるバタバタという音は、きっと尻尾を振っている音だろう。リゼロンはふふと笑って、上体をゆるりと起こした。  そして、すぐそばにミカが立っている事と、そこが地下室ではないことに気付いた。 「ミカ、」 「リゼロン様は、動物と会話ができるのですか?」 「いや、いいやできぬがな。分かり合うことはできるという程度のことだ。それより、ここは何処だ。それに……」  リゼロンは己の姿を見る。普段着のローブを着せられているし、手足に拘束のようなものは見られない。手首には僅かに昨夜の抵抗の痕が残っているが、数時間もすれば消えるだろう。 「ご命令により、拘束は全て外しました。こちらはレオーネ様の寝室です」 「レオーネの寝室?」  リゼロンはそう言われて部屋を見渡した。確かに地下室とは違い、立派な意匠のこらされた家具が並んでいる。窓からは陽の光が差し込んで、部屋全体を温めているようだ。重厚なデスクの上には本や書類が並んでいて、そこにいくつかの花が――押し花が見えた。  ああ、確かにここはレオーネの部屋であろう。リゼロンは納得しながらも、更に疑問を抱く。ではどうして、地下室から出されレオーネの寝室に移されたのか。そして拘束を解かれたのか。 「レオーネ様より、言伝を預かっております」  その疑問には、ミカがすぐ答えてくれた。 「2日後に戻る、その時には続きをするつもりだから、逃げたければ今のうちに逃げるといい、……とのことです」 「……ほほう」  リゼロンはその言葉に目を細めた。逃げたければ逃げればいい。実に魅力的な話ではある。真実を告げられない以上、レオーネの責めにも自分がここにいる事にも意味が無い。無いのだが――。 「……そう言われては、逃げるわけにもいかぬなあ……」  ネイファの頭を撫でてやりながら言うと、ミカが不思議そうな表情をする。 「何故、そうなるのです? 逃げても良いとレオーネ様が仰っているのに」 「これはな、駆け引きだ。レオーネは私を試しておる。私が心からレオーネを思い、詫びているのならこの状況で逃げはせぬ。そうしてしまったらもう、我々の溝はより深く、永遠に埋まらぬものになってしまう故な」 「……私には、よくわかりません。貴方はレオーネ様と関係を修復できるとお思いなのですか?」 「さあ、それはわからぬ。ただ、本当に私を許せないのなら、そもそも逃げてもよいなどとは言わぬ。そして本当に逃げてもよいと思っているなら、こうして私を自分の部屋に寝かせはせぬというだけのこと」 「…………」  ミカはリゼロンの言葉に考え込むように顎に手をやった。それを見て、リゼロンはネイファの背を撫でながら微笑む。エルフは感情が薄い。そうでなくても、人の考えは読み取りにくいのだ。ましてこの歪んだ関係の奥に有る二人の心などは、恐らく誰にとってもわかりにくいものではあるだろう。  ミカは長い時間考え込んでいたけれど、思い出したように動き始めるとベッドのそばにリゼロンの靴を置いてくれた。薄手の革でできた上等なそれはリゼロンが長年愛用しているものであるけれど、まるで昨日あつらえたかのように綺麗なままだ。 「お逃げにならないのなら、この建物の今いらっしゃる階は自由に使って構いません。ご案内致します」 「ああ、よいよい。どうせここはフェルヴォーレ家の別荘、その3階であろう。バルコニーとこの部屋ぐらいしか行き来せぬ故、気にせずともよいぞ」 「……ここに来たことが有るのですか?」  ミカの質問にリゼロンは「どうであろうな」と曖昧に答えた。 「しかし二日とは。待たせるではないか。その間何をして過ごそうなあ、ネイファよ。そなたと遊ぶだけでは一日は随分長いぞ」  リゼロンがそう言うと、ネイファは嬉しそうに尻尾を振って彼に飛びつく。「おお、おお。好きなだけ遊んでやろう」と全身を撫でてやっていると、ミカがまた怪訝な顔をしている。 「どうしたミカよ。妙な顔をして」 「あ、いえ……。お嫌ではないのですか? あのようなことが有ったのに……それに、私もレオーネ様のご命令で貴方に触れました」  確かに昨日、リゼロンの全身に薬を塗り、張り型を挿入したのはミカだ。当然全身を余すところなく見られてもいるし、痴態も多少なりと知られているだろう。しかし恐らくミカが気にしているのは、レオーネのことだ。 「全く気にならぬと言えば嘘になってしまうがな」  リゼロンは苦笑する。 「エルフというものは、人間の命令に従順すぎる。だからそなたがレオーネの命でああしたことを責められぬし、それでそなたを憎み厭うということは無い。少なくとも私はな。そして……それはレオーネに関しても同じこと」  眼を閉じれば、いつでも思い出せる。あの幼い笑顔が、自分の名を嬉しそうに呼んだ時に熾った、あの胸の温かさ。抱きしめた身体の小ささ。それが、今は翳ってしまったとしても、その背があれほど大きくなったのだ。 「……あれには、今も悪いことをしていると思っておる。だからこのような扱いを受けるのも仕方ないとは思うが、……やりかたが、な。まあ私が一番嫌がるやりかたを選んでいるのかもしれぬし、あるいはあれの望みを叶えているのかも、その辺りは私にもわからぬが……とにかく、だ」  私がレオーネを嫌うようなことなど、決してないよ。そなたがレオーネを決して裏切らぬようにな。  そう言ってから、リゼロンは小さく嘆息した。 「だからこそ……あれには本当に悪いことをしたと思っておる。真実を話したほうがいいとも思うのだが……どうにも……恐ろしくてな……」 「恐ろしい?」 「うむ。真実を知った時、レオーネにどう思われるか……恥ずかしいことだが、怖いのだよ、私は」  このような扱いを受けてなお、あれに嫌われるのが怖いのだ。愚かな私を笑っても良いのだぞ、ミカよ。  そう呟いたリゼロンに、ミカは何も返さなかった。

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