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第1話

 コツン、と。  膿盆の上に、ピンセットで銃弾を置いた時、静かな室内に音が響いた。  患者の肩からそれを摘出した時、苦痛の声が僅かに漏れた。貫通していれば良かったのだろうが、わざわざ闇医者の俺のもとまで来るのだから、最初からこの状態を想定はしていた。縫合し、患部に包帯を巻いていく。消毒薬の香りが、俺は嫌いではない。なお局所麻酔が切れた時、きっとこの患者は痛みに泣くのだろうが、鎮痛剤を処方する予定も皆無だ。俺に依頼された内容は、『銃弾を摘出して欲しい』という行為のみだからだ。  そもそも医師免許を持たない俺には、処方箋を出す事が出来ない。  だが問題は無いのだろう。今回の患者は、俺に、国内未認可のSub不安症の薬を密輸入して卸してくれる組の人間だ。合法・違法を問わず、彼らは薬に不自由していないはずだ。逆にそちらから、俺側が必要な医薬品を分けて貰う事さえある。  帰っていく患者と付き添いの人間を、俺はその場で見送った。白いテーブルの上には、彼らが置いていった分厚い茶封筒がある。中身は二百万といったところか。口止め料も含んでいるのだろう。別段金に興味があるわけでは無いから、そのまま無造作に持ち上げて、適当に棚へと封筒のまま放り込んでおいた。  ここはマンションの一室だ。  看板が無い、無認可のクリニック。俺の職場であり、家でもある。  処置室を掃除してから、俺は居住スペースへと戻り、窓の外を見た。港の灯りが見える。いくつも停泊しているあれらの船舶のいずれかには、今回の『客』達が扱うような非合法の薬もあるはずだ。赤い灯りが点々と光るこの港の夜よりも、この世界はずっと仄暗い。  目を伏せる。瞼の裏には、飛行機避けの赤い灯りがこびりついたままだ。  無機質な赤が、俺は嫌いだ。例えば総合病院の救急の灯りや、救急車のランプなど、冷たい赤は、意識してみれば街の各所に存在している。  インターホンが鳴ったのはその時の事で、俺は思考を振り払い目を開けた。エントランスへと緩慢に振り返る。予約診療などしていないから、突然来る患者は別段珍しいわけではない。俺にとって、患者と客は同じ意味だ。  白衣のポケットからPTPを取り出して、錠剤を三粒、掌にのせる。それを口に含んで噛み砕きながら、俺は外を映し出しているモニターを見る。今口にしたのは、Sub不安症の薬だ。既に慣れたが、薬を飲む時ばかりは、己のSub性を嫌でも想起させられる。  俺は、Subだ。だが、普段はそれを隠して生きている。尤も闇医者の俺の人付き合いなど最低限であるから、滅多に露見するような事は無いのだが。  静かに外を映すカメラへと歩み寄り、マンションの扉の外に立っている人物を見る。そこには前髪を後ろに流している、眼鏡をかけた見知らぬ人物がいた。いかにも高級そうな小物まみれで、裕福そうな出で立ちだ。応対するか、無視を決め込むか。思案していると、再びインターホンが音を立てた。  怪我をしている可能性。  長めに瞬きをしながら検討し、俺は一応話だけは聞いてみるかと決意する。 「はい」 『開けろ』 「どちら様ですか?」 『薬が欲しい』 「病院に行かれては?」 『だからここに来た』  不機嫌そうな声音に、俺は目を眇める。俺は相手を知らないが、先方はここが闇医者のクリニックだと知っている様子だ。 「……何の薬だ?」 『中で話す。さっさと開けろ。早くしろ』  横暴な客が俺は好きではない。その上、急いでいるようにも負傷しているようにも見えない。だというのに、何故ここへと訪れたのか――疑問ばかりが浮かんでくる。しかし自力で来院出来ない急患の発言を、この来訪者が代理で行っている可能性を考えて、俺は幾ばくか逡巡した後、エントランスへと向いオートロックの扉を開けた。 「……」  改めて男を見る。上質なスーツ、腕にはスイスの高級メーカーの時計、纏う香りはアーク・ロイヤルのバニラ。背が高い男は、俺と同世代に見える。三十前半といったところか。グレアを放っているわけでは無いが、眼鏡の奥の切れ長の目が放つ鋭い光には、独特の威圧感がある。ひと目見ただけでも、カタギでは無いと分かる。 「入れ」  どこかの組の関係者の可能性が非常に高いと判断しながら、俺は踵を返した。  そしてリビング兼待合室に、男を促す。値が張りそうな革靴を脱いだ男は、素直に俺の後をついてきた。 「座れ。それで?」 「珈琲の一つも出ないのか?」 「ここは喫茶店じゃない。お前は薬が欲しいんだろう? 具体的に、どんな?」 「――Sub不安症の薬だ」 「ドラッグストアにでも行ったらどうだ?」 「先生は持っていないのか?」  低い声音には笑みが含まれていた。俺は反応を返さずに、傍らにあった安っぽい、黒く丸い灰皿を差し出す。薬の売買自体は俺の仕事では無い。だから濁す為の話題を探す。 「Normalの俺には不要の代物だ」 「Normal? お前、名前は?」 「常磐(ときわ)だ」 「おかしいな」 「何が?」 「――Subと聞いていたが?」  それを耳にして、俺は眉を顰めそうになった。何故俺がSubだと知っているのだろう。この事を知るのは、ごく限られた者のみだ。 「お前は何者だ?」 「俺は霧生(きりゅう)。本名だ」 「どこの組だ?」 「組? 大学時代の必修クラスは、一組だったが」 「馬鹿にしているのか? 今の所属を聞いている」  俺が眉を顰めると、霧生と名乗った男はこちらを馬鹿にするように見ながら吹き出した。  そしてスーツの内側に手を入れると、煙草の箱を手に取り、一本抜き取った。アーク・ロイヤルを銜え、ブランド品のオイルライターで火を点けている。洒落た猫のデザインが彫り込まれていた。終始、余裕ある笑みを浮かべているのが忌々しい。紫煙が天井へと登っていく。  灰皿に煙草を置いた霧生は、改めて俺を見ながら、ポケットに手を入れた。  そして続いて彼が取り出したものを見て、俺は息を呑んだ。 「刑事部捜査第一課。現在の所属だ。ああ、警視とまでは呼んでくれなくて良いぞ、常磐先生」 「……」  黒い警察手帳を凝視してしまう。嫌な汗が浮かんできた。だが、闇医者家業の終焉なんて、こんなものなのかもしれない。 「別段、お前が非合法な薬の密輸入に関わっているからといった理由でここに来たわけでもない。それはマル暴と麻取の管轄だ」 「薬が欲しいなら、D/S専門医に診てもらったらどうだ? 霧生警視」 「俺が使うわけじゃない。ここに入れてもらう為の口実だ」  そんな事は分かっている。俺は細く長く吐息をしてから、組んだ手を己の膝の間に置いた。霧生と名乗った男は、俺を見て相変わらず意地の悪い顔で笑っている。 「聞きたい事がある」 「令状は?」 「残念ながら。個人的に来ただけだからな。最悪の場合、薬の不法所持で、任意同行をお願いしようとは思っていたが」 「拒否する。俺に聞きたい事があるのならば、きちんと捜査令状を持参してくれ」  俺が伝えると、霧生が喉で笑った。 「それにしても珈琲が飲みたいな」 「無い」 「――今日の昼、お前は駅前の珈琲専門店で豆を買っただろう?」  尾行されていたらしい。この場から逃げようという気は起きないが、珈琲を素直に淹れる気分でもない。  その場に強いグレアが溢れたのは、俺が彼の希望を拒否しようとした、その直前だった。 「《Take(取ってこい)》」 「な」  驚愕し、俺は目を見開いた。ダラダラと汗が溢れていく。言われた通りに俺の体が動く。コマンドを理解した瞬間、最悪な事に俺は――悦んでいた。自分のSub性が憎い。久しぶりに与えられたコマンドが心地良くすらあって、ドクンドクンと鼓動が三半規管を麻痺させるように強く何度も啼いた。  気付けば俺は隣室へと向かっていて、その後すぐに豆の入った袋を開封していた。手動のコーヒーミルに豆を入れ、ハンドルを動かす頃には、理性では沸々と怒りを覚えていたのだが、その間もずっと歓喜としか名付けようのない情動が、俺の内側に存在していた。  自分が何故従っているのか……それが、理性では分かっても、やはり感情的には納得出来ない。警察官が、このように強制的にグレアでSubを従わせる事など、違法だ。これだから俺は、基本的にDomが嫌いだ。なのに、そのコマンドに愉悦を感じる己が一番嫌いだ。  豆の良い匂いがする。  カップを運んで戻ると、霧生がじっと俺を見据えた。 「《Good boy(良い子だ)》」 「……」 「セーフワードを決めておかないとならないな。俺は優しいDomだから」 「巫山戯るな。強制的に今――」 「決めるのを失念していた。そうだ、こんなのはどうだ? 『愛してる』」 「は?」 「嫌がって拒否しながら俺に愛を叫ぶお前が見てみたくなった」 「とんだ変態だな」 「《Strip(脱げ)》――お前には、白衣の袖に腕を通す資格なんて無いだろう?」 「っ」  霧生の言葉は事実だ。医師免許を剥奪されて久しい俺が、白衣を着ている事は愚かしい事だろう。だがそんな思考とは別の部分で、体が勝手に動く。強いグレアに俺は当てられている。 「きちんと全部脱げ」 「……全部?」 「物分りが悪いらしいな。俺は、裸になれと言っているんだ」 「断る」 「セーフワードは、教えたばかりだろう?」 「……っ」  脱ぎたくはなかった。だが、死んでも『愛してる』なんて言いたくない。葛藤している内に、俺の手は動き始めた。脱ぎたくない理由は簡単だ。Sub不安症による首の掻き傷を見られたくないだけだ。 「酷い傷だな。《Present(よく見せろ)》」 「……」 「折角綺麗な体をしているのに勿体無い。《Crawl(這い蹲れ)》」 「……」 「抱いても良いか?」 「……」 「沈黙は肯定と受け取る主義だぞ、俺は」 「……」 「信頼関係の構築には、体を繋ぐ事が一番だというのが俺の持論でな」  霧生が俺の臀部に触れた。菊門を押し開くようにして、じっと見ているのが分かる。羞恥に駆られながらも、本当に最悪な事に、俺はやはり悦んでいた。それを口に出さないのが、俺に出来る意識的な精一杯の抵抗で、だが既に体は先を望んでいる。 「ん、っぅ」  指が二本、一気に俺の中へと挿入された。その異物感に声を零すと、楽しそうな声が響いてきた。 「その首を見る限り、パートナーはいないように思えるが、こちらの相手はいるのか? 随分とすんなり入ったが」  一人で自慰に耽っていた事を、見透かされている気がした。実際、特定のパートナーはいない。それでも体を暴かれるのが好きで、けれど専門の店に出て他者と関わるのは躊躇があって、結果一人で快楽を得ようとしてしまう事がある。己のSub性をわざわざ確認に出向く勇気が俺には無い。俺にとってSubという性は、どちらかといえば忘却したい事象の筆頭だ。それ以前に、例えSubで無かったとしても、俺は他人と積極的に関わる気が無い。 「あ、あ、あ」  しかしその後、ゆっくりと指を抜き差しされる内、間断なく俺の口からは声が漏れ始めた。すぐに俺の陰茎は反応を見せる。それに気づいた霧生が、もう一方の手で、俺のものを擦り始めた。 「ひ、っッ、ぁア」 「《Stay(まだ出すな)》」 「や、嫌だ、っン……あ、あ……で、出る、あ……」 「挿れるぞ」 「ああああ!」 「声が大きいな、嫌いじゃないが」  霧生が引き抜いたベルトが、床にぶつかって金属音を響かせた。巨大な亀頭が挿ってくる。雁首まで入った時、その熱に俺の全身が震えた。もう四つん這いの体勢など維持できなくて、俺はフローリングの床に上半身を預ける。すると根元まで突き入れて、俺の背中に霧生が体重をかけてきた。そしてねっとりと俺の耳の後ろを舐めると、小馬鹿にするように笑いながら囁いた。 「淫乱なんだな。勿体無い、きちんと体を慰めて労われ」 「や、ぁ、あああ」 「嫌? 面白い事を言う。本当は、気持ち良いんだろう? 《Say(答えろ)》」 「あ、あ、気持ち良、っ、う、うああ」 「どうして欲しい? 《Say(聞かせてくれ)》」 「もっと、あ、あ、もっとしてくれ――うあああ」  俺が夢中で答えると、激しく霧生が動き始めた。頭の中が痺れたようになり、全身がぐずぐずに熔けていく。荒々しい交わりが、俺に強い快楽をもたらした。霧生の激しい動きは、俺を支配するかのようで、それが……嬉しい。無性に、満たされてしまう。汗ばんだ俺の肌には、黒い前髪が張り付いてくる。快感由来の涙で滲んだ瞳で、俺はなんとか振り返ろうとしたが、全身から力が抜けてしまい、上手くいかない。  そのまま散々貫かれ、気づくと放った後、俺は意識を飛ばしていた。  目が覚めると俺は白衣をかけられた状態で、ソファの上に寝ていた。  霧生の姿は既に無い。強いグレアを利用して、堂々と俺を抱いて帰った奴こそ、訴えたら俺が勝てそうだ。だが職業柄もあって、俺にはそうする権利も無いだろう。  こういう事は、実を言えばたまにある。俺をSubだと見抜くようなハイランクのDomが、口止めを兼ねて俺を抱いて帰る事は、別段珍しくはない。拒むほど、俺も潔癖ではないし、欲求不満は常だ。  結局、霧生が何を聞きたがっていたのかは知らないが、知りたくもない。  患者の個人情報は、話せないというより、聞かないようにしているから俺は答えられない。 「忘れるか」  ――次に霧生の姿を見たのは、その三日後の事だった。

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