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第2話
「やぁ、常磐先生」
「!」
スーパーから帰った俺がエレベーターに乗り込むと、続いて霧生が乗り込んできた。気配などまるでなく、どこから尾行されていたのかも分からない。軽く背中を押され、気付いた時には、扉を閉じるパネルを押している霧生が俺の正面にいた。
「今日は一人で鍋か?」
「……」
「美味しそうな海老を見つけたから、買ってきた」
「……」
「お前は野菜ばかり買っていたから、入れたら丁度良くなるな」
そのまま俺のマンションまでついてきた霧生は、堂々と中に入ろうとした。俺は踵を返し、睨めつける。
「令状は?」
「無いが?」
「不法侵入と見做す。帰れ」
「怖いな。《Come 》」
「!」
その声を聞いた瞬間、俺は霧生の腕の中に収まっていた。憎らしいほどにその体温が心地良く感じる。バニラの香りを嗅ぎながら、俺は唇を噛んだ。すると顎をクイと持ち上げられて、少し屈んだ霧生に覗き込まれる。もう一方の腕は、俺の腰に回ったままだ。
「噛むな」
「……離せ」
「離したら、鍋を振る舞ってもらえるか?」
「……」
「言い直す。作れ、俺のために」
本当に横暴すぎると感じ、俺はこめかみに青筋が浮きそうになるというのは、こういう事かと理解した。だから引きつった顔で笑った後、吐き捨てるように吐息した。
「兎に角離せ」
すると霧生は、勝ち誇ったような顔で笑った。俺は作るだなんて一言も口にはしていないが、後続のエレベーターの音を耳にし、苛立ちながらマンションの扉を開けた。中に一歩俺が入ると、扉を閉める前に霧生も堂々と入ってくる。霧生もエレベーターには気付いていたらしい。
「先に珈琲をくれ」
「自分で淹れろ」
「俺はお前の淹れる珈琲が気に入ったんだ、常磐先生。さっさとしろ」
また、勝手に俺の胸が、ドクンとした。
Domに褒められる時、無性に嬉しくなる。それはコマンドと同じくらい、俺の精神を一喜一憂させる。無言でキッチンへと向かってビニール袋を置くと、隣に常磐も袋を置いた。俺の視線は、自然とコーヒーミルへと向かう。
「煙草が吸いたい。灰皿を持ってこい」
「リビングにある。自分で持ってきたらどうだ?」
「それもそうだな。お前には、珈琲を淹れるという仕事と鍋作りがあるからな」
霧生が楽しげな声で言う。俺は何も答えず、ティカップを棚から取り出す。
その後俺が珈琲を淹れ終わる頃になって、霧生は黒い丸灰皿を手に戻ってきた。
「お望みの珈琲だ。そこに座っていろ」
少々乱暴に、俺はテーブルの上にカップを置いた。頷き霧生が、堂々とその前に腰を下ろす。カップを傾けた霧生は、大きく吐息してから、煙草を取り出した。
「鍋はいつ出来る?」
「二十分もあれば――……おい、本当に食べていくつもりなのか?」
「ああ。何か問題が?」
「職務質問や任意捜査の一形態に、鍋を共に食べるような行為が追加されたとは、刑事ドラマも驚きの展開だな」
「単純にお前と食べてみたかっただけだが?」
「……は?」
「良いからさっさと作ってくれ。腹が減った」
霧生は偉そうだ。俺は両眼を極限まで細くした自信がある。
だが結局その後、俺達は一緒に鍋を食べた。
俺は確かに野菜や、キノコと豆腐ばかりを買っていたなと思ったのは、久しぶりに海老の出汁の香りを感じた時だ。一人では、気づけない。
「……美味しい」
「ああ、優しい味がするな。これがお前の中身か?」
「鍋の具材の問題だ。優しい味が出せる人間が皆優しいのなら、料理人は天使だらけだろう?」
「中々言うな。確かに――命を救うからと言って、医者が必ずしも光の徒と言えないように、職業では人は判別できないか」
「そうだな。今俺の目の前には、傲慢な警視様が堂々と座っている事も根拠となる」
俺が嘆息すると、霧生がクスクスと笑った。そして箸を置くと、浴室の方を一瞥した。
「借りるぞ。ごちそうさま」
「は?」
「大人しく待っていろ、《Good boy 》」
「!」
不意に放たれたコマンドに、俺は目を見開く。その後霧生は、立ち上がって浴室へと消えた。俺は取り落としそうになった箸を、静かに皿の上に置く。
「何を考えているんだか……」
さっぱり分からない。だが、既に俺の体の内側は、熱を孕んでいた。霧生の眼差しが、少し低い声が、全てが、俺に鮮烈な印象を与える。俺は残った鍋の中身を、暫しの間眺めていた。その後、自分を落ち着けようと、皿を洗う。
「お前の立ち姿は、絵になるな」
気付いた時、いつの間に戻ってきていたのか、霧生に声をかけられた。反射的に振り返り、俺が驚いた顔を向けると、気配無くそこにいた霧生が、片手で髪を撫で上げた。
「家事は明日にしてくれ、《Come 》」
明確な始まりとして線を引くのならば、ここだったのかもしれない。
俺は引き寄せられるように、手をタオルで拭いてから、霧生のもとへと歩み寄った。そんな俺を抱き寄せると、俺の肩に霧生が顎をのせる。
「明日は非番なんだ。ベッドに行きたい」
抱きしめられたままで、俺は言葉に窮した。そうしていたら、両頬を手で挟まれ、上を向かせられた。霧生の瞳がまじまじと俺を覗き込んでいる。
「ダメか?」
「っ……そういう気分なら、お得意の命令をしたらどうだ?」
「同意を求めている」
「そんなの、俺が同意なんてするわけが――」
「言い換える。不安症の錠剤を囓るよりも、俺の下で啼いて天国に逝く方が楽なんじゃ無いか? 常磐先生」
「な」
「好きな方を選べば良い。その権利は、お前にもある。《Say 》」
「抱いてくれ」
俺は欲求に素直だった。口走った俺を見ると、薄い唇の両端を、霧生が持ち上げる。
「良いぞ。同意、だからな。俺としても、お前とはもっともっと、親睦を深めたいと思っていた所でもある」
こうして、俺達は、ベッドへと移動した。まさか俺の意思を確認されるとは思って折らず、僅かに戸惑ったままで、俺は寝台に腰掛けた。そんな俺の前で、霧生が服を脱ぎ捨てた。よく引き締まったその肉体を目にした俺は、その直後、押し倒された。
眼鏡を外した霧生が、ベッドサイドに片手でそれを静かに置く。見上げていた俺の首を、もう一方の手でなぞった霧生は、それから舌で唇を舐めた。
「目を閉じろ」
「どうして?」
「キスをする時は閉じるものだろう?」
「純情な警視様だな。だったらキスなんてしなければ良いだろう?」
「――《Corner 》」
霧生のコマンドに、俺は反射的に壁側を見た。すると顎を掴まれた。そして唇の代わりに、首元に強く吸い付かれた。ツキンとその箇所が疼く。
「そうだな。唇は取っておくか」
こうして、この日の行為が始まった。言葉は横暴な癖に、霧生の手つきは優しい。前回のような荒々しさもなく、丹念に左胸の突起を愛撫される内、俺は舌打ちしたくなった。別に酷くされるのが、好きなわけでは無い。だが、俺は霧生に、愛情や優しさを求めているわけでは無い。霧生自身が言った通り、薬より、そして――自分の手よりはマシかというような、そんな認識しか、この時点で無かった。
「さっさと挿れろ」
「常磐」
「なんだ?」
「お前、慣れてないな」
殴ってやろうかと思った。実際、それは事実だ。人付き合いが欠落している俺は、時に患者の付き添いとして訪れる人間と寝る程度の経験しか無い。
「もっと、可愛がられる事に慣れろ。俺が、存分に教えてやる」
「結構だ。そんな善意は不要だ。だから早く――」
「本当に欲しい時、どんな風になるか、そこから教えてやらないとならないようだな」
「え……ッッ、ぁ……」
霧生が不意に俺の陰茎を口に含んだ。そうしながら、俺の菊門に指を挿入し、内側と外側から同時に刺激を与え始める。
「んン……っ、は……」
この夜、霧生は散々俺を焦らした。人生で初めて俺は、コマンド無しの、SEXを知った。そして事後になって、俺の頬を撫でながら、やはり勝ち誇ったように笑って言った。
「《Good boy 》」
――以後、霧生は俺のもとへと訪れて、食事をしてから俺を抱いて、勝手に帰っていくようになった。急患がいても、俺が診察中でも、お構いなしに、最近は俺のベッドがある部屋で煙草を吸っている。そのせいで、俺の私室にはバニラの香りが染み付いた。
じわり、じわりと。
霧生は俺の生活に入り込んでくる。それが鬱陶しい。
「土産だ」
本日霧生は、白い箱を手にぶら下げて、俺のもとへと訪れた。丁度診察が終わって一段落した所だった俺は、己の珈琲を飲みながら、随分と不似合いな品を携えてきたなと考える。
「なんだ、それは?」
「苺のショートケーキ」
「皿は棚だ。いつもの場所だ。もう覚えただろう?」
「常磐に食べさせたくて買ってきたんだ。俺は甘いものは苦手だ」
「は?」
「早く食べろ」
皿を取り出し、ケーキをのせた霧生は、それを俺の前に置く。困惑を流し込むように、俺はカップを傾けながら、それを見ていた。
「お前は細すぎる。きちんと食べろ」
「……」
「医者の不養生など全く笑えないからな」
俺に医師の資格は無いと言いかけたが、フォークにケーキを突き刺して霧生が俺の口の前に持ってきた瞬間、何も言えなくなった。
「……どういうつもりだ?」
「食べさせてやろうと思ってな」
「なんだ、その不必要すぎる気遣いは!」
「正直、照れるお前が見たかった。予想通りの反応が返ってきて、俺は満足している」
「あのな……」
「俺はパートナーは愛でる主義でな」
「――は?」
「好きなものは好きだと、愛しいものは愛しいと、きちんと主張する主義でもある。お前も見ていれば分かるが、俺の事を相当意識し始めたな?」
「言ってろ。精神科は範囲外だ」
その後霧生は、俺を抱いて帰っていった。目を覚ましてから俺は、気怠い体で、テーブルの上にあるケーキを見た。思わずその隣にあった、ケーキの箱をたたき潰す。苛立ちが募ってくる。
最近、霧生は俺に甘い。俺には、甘やかされている自覚がある。
これではまるで、本当にパートナー関係になってしまったみたいだ。俺は、Domが大嫌いだ。だから絶対にパートナーなどいらない。
次に霧生が来たら、明確に拒絶しよう。そう決意し、俺はケーキをゴミ箱に捨てた。
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