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第4話
――あれは懐かしき、いつかの春。
アオヤマ総合病院、広く研修医を受け入れている病院の一つだ。医学部を卒業し国家試験に合格した俺は、公園で日向ぼっこをする白と黒の模様の猫を見ていた。
「おお、豆大福」
「ベルって言うみたいですけどね」
俺の正面に立った仁科 先生の声に、思わず吹き出す。仁科先生は、何度か大学に公演に来た、D/S専門医だ。たまたま家が近かったから、俺は普段から先生の事を知っていた。もっと言うのならば、先生のような医師になりたいと感じて、俺は医学部を目指した。
「こんな所で油を売っていていいのか? 研修医」
「明日からです」
「フェローになったら、何を専門にするんだ?」
「D/Sですかね。雇ってくれます?」
「華頂君は一番弟子だからね。ま、今のところお前しか私の弟子志願者なんていないが」
冗談めかして笑った仁科先生を見て、俺は『本気なんだけどな』という言葉を飲み込んだ。Subに生まれた俺は、何度か不安症に襲われ、先生に診てもらった事もある。俺も、先生のように、困難があるSubを救いたい。
ただそのためには、実力をつけたいから。
だからそれが叶ってから。
いつか胸を張って、俺は仁科医院の門を叩きたい。
希望に満ち溢れていた俺は、昼下がりの公園で、暫くの間、仁科先生と話をしていた。
そして翌日から始まった研修医としての生活、これが中々充実していた。各科を回りながら、沢山の事を勉強した。
「明日からは、小児科かぁ」
俺はそんな充実した日々が続く事を、微塵も疑っていなかった。ただ早く、仁科先生のそばに行きたかったし、近づきたかった。多くの人々の力になるためにも。
アオヤマ総合病院の小児科には、長期入院中の患者も多かった。各科との連携をしながら、闘病している子供が多い。俺はその中で、一人の心疾患の少年と出会った。俺の指導をしてくれる先輩医師の担当患者で、簡単な手術をすれば無事に退院できるだろうと聞いた。カンファレンスの時、俺はいつも持参しているノートに、様々な事をメモした。
事態が急変したのは、手術を無事に終えた日の夕方だった。残っていた俺は、血相を変えた先輩医師が、心臓外科に連絡をしているのを見ているしか出来なかった。
――手術にミスがあったらしい。
漏れ聞こえてくる声に、俺はハッとした。
「華頂 、カンファレンスの時に取っていたメモはあるか?」
「はい、あります。すぐに医療過誤について――」
「破棄しろ」
「――え?」
少年の死に浸っていた俺に、指導医が詰め寄ってきた。俺は何を言われたのか分からず、目を丸くしていたと思う。
「医療ミスの証拠になってしまう」
「……」
「どこにある?」
「……その、ロッカールームに。すぐに行ってきます」
俺は、口頭ではそう答えた。だが、内心で、絶対にあのメモを渡してはならないと決意していた。メモを無事な場所に隠してこなければならない。ミスの隠蔽など、あってはならない。必死で平静を装いながら、俺はロッカーを目指した。薄暗い室内には、幸いひと気は無く、俺は無事にメモを教本類の中に隠す事に成功した。
「破棄しました」
先輩医師のもとに戻ってそう告げれば、目に見えて安心した顔をされた。院長が入ってきたのは、その時の事だった。
「どこにどのように破棄したんだね?」
「っ、あの、切り刻んでゴミ箱に」
「――本当に? 《|Say 》」
「!」
威圧的なグレアに飲み込まれたのは、その時の事だった。セーフワードの取り決めなど、勿論無い。一方的な暴力に等しいグレアに晒された俺は、ただ震える事しか出来ず、立ち尽くしていた。
「《Take 》」
ブツンと音がした気がした。俺の体の統制権が、完全に自分から外れた感覚だった。俺はロッカールームを目指してフラフラと歩き始め、その後をゆっくりと靴の踵の音を響かせながら院長がついてきた。俺が薄暗い室内に入ると、中へと続いて入ってきた院長が扉を施錠した。そして白衣のポケットからボイスレコーダーを取り出すと、片手で弄んだ。
「《Say 》、『手術前日の投薬量を間違えました』」
そこからの事は、記憶が曖昧だ。
俺が自分を取り戻した時、そこはアオヤマ総合病院のD/S専門病棟の特別室で、外側から施錠されていた。俺は長い間、ドロップ状態にあったらしい。
退院前、両親が俺の見舞いに来た。その時手にしていた週刊誌には、俺の発言の全文が記載されていたが、俺には発言自体の記憶が無い。退院したその日に、華頂家という実家からは絶縁された。退院後、週刊誌のデジタルサイトでは、俺の音声が流れてきた。
「手術前日の投薬量を間違えました――」
そこから始まる俺の懺悔。医師免許は剥奪され、俺は人殺しと誹られた。最初は事態が飲み込めなかった。最後にと実家が俺に与えた小さな家には、毎日石が投げ込まれた。酷い落書き、庭には汚物が投げ入れられる。外に出れば罵詈雑言。どんどん俺の感情は摩耗していった。
違うのだ、と。
俺は言おうとしたけれど、出来なかった。誰も信じてくれる者がいないと確信していた。だからある日公園に出かけたのは、『最後』に幸せだった頃に見た風景を目に焼き付けたいと思ったからだった。
「……」
公園には変わらず、ベルがいた。
「やっと来たか」
そして、懐かしい声がした。ハッとして顔を上げると、そこには以前と変わらない笑顔の仁科先生が立っていた。
「いつ来るかと思って、待ってたんだけどなぁ」
「……」
「私は華頂君を信じてる。大丈夫か? 死にそうな顔、してるが? ほら、立て。美味しい和菓子があるんだ」
「……っ」
優しさが、辛かった。けれど同時に救いだった。
信じてくれる人がいた。無論大丈夫では無かったし、死を決意していたのだが、俺は笑ってしまった。差し出された豆大福を受け取りながら、本当にベルに似ているなと考える。それは楽しい思考のはずなのに、俺は久しぶりに泣いていた。
「少し寄っていかないか?」
「――帰ります」
「そうか。生きろよ。約束してくれ」
「……はい」
俺にはこの約束があるから、今も呼吸をする権利があると思う。
そして、他の誰が信じてくれなくとも、仁科先生が信じてくれたのだから、良いではないかと考えられるようになった。
俺にはもう、光の下を歩く公的な資格は無くなってしまった。
けれど、俺に縋る人々の存在に、それからすぐに気がついた。ある日、家がノックされたと思ったら、見知らぬ男が立っていて、『診て欲しい』と俺の前に怪我人を連れてきた。後で知ったのだが、この界隈を根城にしている組の若頭だったそうだ。
以後、俺はカタギではない世界に足を突っ込み、公的な医療に預かれない怪我人を診ている。中には、Normalと称して生きているから、D/S専門医にはかかりたくないといった悩みの持ち主もいた。俺には俺なりに、出来る事が存在したらしい。
今は、これで良いと思っている。
あるいは今の俺の所業を知ったら、今度こそ仁科先生は俺を見放すかもしれない。
だが――あの事件から五年も経った現在、既に俺は子供では無い。
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