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第5話

 もう、俺は一人で立っていられる……そのはずだった。例えば海老の出汁の味になんて気付かなければ、バニラの香りさえしなければ。霧生がいなければ。一人だと気付かなければ。そこに寂しさを覚えたり、愛されたいと感じ願う事が無かったならば。けれど、俺が犯した罪は重い。決して、あの少年は帰ってこない。葛藤と諦観と絶望と――……ああ、自分の思考がまとまらないのが嫌になる。俺は唇に力を込めた。  指先からどんどん温度が消えていく。気づけば珈琲は冷め切っていた。 「じきに、アオヤマ総合病院に一斉捜査と摘発が入る」 「っ」  霧生の言葉で我に返った俺は、慌てて顔を上げた。 「お前にも証言して欲しい。院長が、違法にグレアを用いて、冤罪を被らせたのだと」 「……今更、誰がそんな事を信じると――」 「お前の指導をしていた医師が証言した。ボイスレコーダーを入手した出版社の記者も、院長の秘書から手に入れたと話している」 「……」 「常磐。もう一度言う。真実を《Say(教えてくれ)》。お前は被害者だ。俺は、お前を信じてる」  その言葉が、仁科先生の声と重なった。俺は震えながら霧生を見た。  真摯な色が宿る彼の瞳を見ていたら、俺は思わず頷いていた。  ――アオヤマ総合病院への一斉捜査のニュース、及びその後の院長の逮捕について、テレビで見てから、俺はリモコンを手に取り、電源を落とした。霧生の話は本当だったらしい。だが俺は、霧生には話をしたけれど、法廷での証言は拒否した。 「ただいま」  インターホンは鳴らなかったが、扉が開いて霧生が入ってくる。合鍵を強請られたのは、先日の事だ。渡してしまう俺も俺だが。 「お前の医師免許、戻りそうだぞ。詳しい話は、俺には分からないが」 「別にいい。俺はここにいるからな」 「きちんと研修医からやり直して、専門医になれ」 「俺の人生に口出しするな」 「したっていいだろ、パートナーなんだから」 「いつ俺が同意したって言うんだ?」  辟易しながら俺が言うと、ソファの後ろに回った霧生が腕を回してきた。抱きしめられる温度が嫌いではない。 「いいんだよ、俺には闇医者があってる。ここには、俺の患者がいる」 「だがお前が闇医者をしていた証拠も、密輸入されていた薬を勝手に処方していた証拠も無い。このシマの若頭はやり手らしいな」 「――あいつらは、意外と恩に厚いんだよ」 「妬けるな」  霧生は俺の頬に触れると、口角を持ち上げた。 「《Look(俺を見ろ)》」 「なぁ、霧生」 「なんだ?」 「愛してる」 「セーフワードは卑怯だ。キスしたかったのに」 「違う。愛してる」 「だから――……ほう。それは、コマンド無しでもキスして良いというお許しか?」 「お前は?」 「俺は最初からお前が好きだ。尾行中に一目惚れした」 「不埒な警視様だな」  吹き出してから、俺は目を閉じた。すぐに柔らかな感触が降ってくる。  幸せ、として良いのか、否か。それは俺には分からない。人生は続いていくものだから、いつ何があるかも分からない。だが現在、俺は霧生がいて幸せであるし、今ならば仁科医院に顔を出して、ゆっくりと話も出来るような気がしている。 「セーフワード、変えないとな」 「元々お前が一方的に決めただけだろう」 「今度は話し合って、きちんと。俺は常磐から、もっと愛の言葉が聞きたい」 「言ってろ。二度と言わない可能性が高いけどな」  俺と霧生が首輪選びに出かけるまでは、もう少し。  正式なクレイムより先に、俺達は恋人同士になってしまった。Domが大嫌いだったはずの俺だから、本当に人生、何があるかは分からない。  もう不要になった不安薬の錠剤を、この日俺はゴミ箱に捨てた。けれどケーキを叩き潰したあの日とは異なり、俺は今、霧生を大切だと確かに感じている。      (終)

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