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第1話
その箱が彼のもとに届いたのは、四十九日が過ぎたあとのことだった。
亡くなったのは彼の父親である。超高齢化社会といわれる昨今は「まだ若い」といわれる年齢だったが、彼には特に感慨もなかった。父親は社会的な地位の高い人間だったが、同時に艶福家として知られており、生涯のあいだに何人もの女とのあいだに子供を作った。ところが長く続いた相手はひとりもおらず、また母のちがう子供たちの中にも親しい者はいなかった。
だから彼にとっても父親は母の生前「たまに名前を聞くだけの存在」にすぎなかった。彼の母は彼が成人した直後に不慮の事故で亡くなったが、葬儀やその後の弔問でも彼は父親と顔をあわせなかったのである。父が訪れなかったわけではない。だが彼は父と直接顔をあわせることはなかった。
こんな調子だったから、父親が死んだといっても、彼も、年齢の異なる異母きょうだいも、悲嘆にくれたりはしなかった。喪主をつとめたのは末子の彼をとくに可愛がってくれた長姉だったが、死後の手続きのあれこれに悪態をつきつづけていたほどである。他の子供たちも彼女を止めなかった。父親はそれほど子供たちにとって他人だった。
艶福家と思われていたといっても、父親と関係をもった女性はすでに全員この世にいなかった。葬儀のあとでその話が出たものの、これに関してはその場にいた全員がいささか不気味な気配を感じていたのかもしれない。すぐに話題は移り変わった。
とはいえ社会的な成功者として認められていただけのことはあって、父親は遺言書をきちんと残していた。子供たちは全員相応の遺産を受けとり、それ以外に遺品がひとつ、それぞれのところに送られてくることになっていた。
そんなわけで、彼はその桐箱を受け取ったのである。
箱の中には着物が入っていた。
こういったものに疎い彼の目でみても、美しい着物だった。黒っぽい地に淡い紅色の花びらが散っている。男物にしては派手すぎるようにみえたが、和装の知識を持たない彼にはそれ以上のこともわからなかった。遺品を管理する者によると、末子に贈るよう生前から決められていたのだという。
彼は立ち上がり、着物を両手で広げると、そっと羽織ってみた。肩にかけると意外に軽く、裾は彼の足首よりすこし長いくらいだった。着物の前を閉じたとたん、奇妙な恍惚感が彼を襲った。大きな腕に抱きしめられ、安堵するような……。頭の芯がくらりとするような感覚をおぼえ、彼はあわてて着物を脱いだ。
その夜、彼は見知らぬ男に抱かれる夢をみた。
たくさんの女と関係をもった父とちがい、彼は三十歳ちかくなる今も、誰とも体を重ねたことはなかった。それに彼は異性を好きになることができなかった。十代の淡い初恋は上級生に対してのものだったが、口に出されることもなく終わった。彼に興味をもつ者がいなかったわけではなく、男に告白されたこともあった。だが、どの機会も彼は生かすことができなかった。彼の中には好奇心や欲望を満たしたいという思いがつねにあった。しかし他人と親しく関わる勇気が持てなかったのだ。
夢の中で彼は桜をまとっていた。それがあの着物だということに気づいたのは、顔の見えない相手がそれを剥ぎとったからだ。上にのしかかった男の手が、自分以外の誰も触れたことのないところをまさぐり、舌がへそから胸、うなじを愛撫する。陰茎を嬲られて一度達したのに、また尻を揉まれ、両足をひらかされる。秘密の場所に指と舌が押し入り、彼は初めて知る快楽に喘ぎ、放心し、抱え起こされた。しまいに四つん這いになって相手の陰茎を咥え、青い匂いのする液体が口に溢れるのをゆるして、その夜はおわった。
翌朝めざめたとき、彼は濡れた下着に途方にくれた。自分の欲望がどこへ向かっているのかはわかっているつもりだった。しかし夢はあまりに生々しく、淫靡だった。
夢は一夜で終わらなかった。
翌日も、そのまた翌日も、夢の中で彼は同じ男に抱かれた。顔がみえなくても彼には同じ男だとわかっていた。二晩目の夢では、男は彼の胸を執拗に弄り、それだけで達するくらい、彼を苛め抜いた。尻に男の陰茎を迎え入れたのはその次の夜だった。うつぶせの姿勢で腰を強く打ちつけられると、彼の中でまた、新たな欲望への扉がひらいた。
夢はさらに続いた。
生々しい夢に引きずられたせいか、勤め先で彼は些細な失敗をくりかえすようになった。彼には珍しい失敗で、上司はそっと彼を呼び、たずねた。
肉親を亡くしたあとだから仕方がないと思うが、大丈夫かね?
何日か休養をとってもいいかもしれないね。私が力になれることがあればいってくれ。
上司の手の位置が気になって、彼は体をそっとずらした。
はい。大丈夫です。
そうですね、たしかに、三日ほど休暇をいただけるといいかもしれません。
父にゆかりのある土地を訊ねようと思っているのです。
それは嘘ではなかった。
夢のなかで彼はいつも桜の着物をまとっていた。二回目の夢のあと、彼は着物を元の桐箱に畳んでしまったのだが、眠るたび彼はその着物を羽織っているのだった。最初のうちだけである。顔の見えない男の手によってすぐに剥ぎとられてしまうからだ。
五回目の夢のあと、彼はもう一度桐箱をあけた。
着物を取り出し、箱を仔細に眺めていると、角に隙間があることに気がついた。板を押すと隙間が動く。彼は箱をもちあげ、あちこち弄った。桐箱にはからくりが隠されていた。何度か触るうちに突然、二重底がひらいた。
封のされた手紙が入っていた。封筒は純白の、羽根を梳きこんだような和紙で、古いとも最近のものともつかなかった。封筒の表には住所が記されていた。遠く離れた、彼が聞いたこともない土地だ。万年筆の文字は父の手になるものだろうか。住所の隣に名前はなかった。書きかけて止めたような、細い線がひとすじ残っているだけだ。
宛先が誰であるにせよ、この着物に関係があるにちがいなかった。
しばらく迷ったあと、彼は長姉に電話をかけた。遺品から手紙が出てきたと話し、書かれていた住所を告げる。
「姉さんに父さんの昔の戸籍、見せてもらったよね? おなじ漢字をみたような気がしたんだ」
「よく覚えているね」姉は感心していった。
「待って、コピー持ってるから……ああそう、載ってる。あの人が二回目に養子に出されたところよ」
相続のために書類を取り寄せて知ったのだが、父親は三回姓を変えていた。幼児の頃に生まれた家から別の土地へ養子に出され、少年の頃にまた別の家へ、そして現在の姓の家の子になっていた。
「手紙、どうしたらいいと思う?」
彼は長姉にたずねた。十歳以上年の離れた彼女は、彼にとってきょうだいの中でいちばん話しやすい相手だった。彼女は十代のころから同性愛者だと公言し、何年も同性のパートナーと暮らしている。自分の性向について姉に打ち明けたことはなかったが、なんとなく心を許せる感じがするのはそのためかもしれない。
「手紙って聞いた時、またあのクソ親父の悪い癖が出たのかと思ったけど」
姉はあけすけな口調でいった。
「子どもの頃住んでいた土地なら女隠してたわけでもないかもね。宛先は?」
「名前がないんだ」
「中は見たの?」
「まさか。ほら、個人的なものだし……」
「いつの手紙なのかもわかんないし、私なら元に戻して忘れるだろうね。それにしてもどうしてあんたに着物なんだろう。男物?」
「男物にしては柄が派手にみえるよ」
「その手紙の相手に贈るつもりだったとか?」
姉は思いつくままに推理を喋ったが、結論は出なかった。しかし上司に休暇を勧められたとき、彼の頭にはその手紙が浮かんだのだ。
彼は着物と手紙を旅行鞄に入れ、列車に乗った。
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