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第2話

 朝早く家を出たのに、新幹線と特急と普通列車を乗り継ぎ、目的の駅に到着したのは午後も遅い時間だった。  そこはあまり知られていないが温泉地ではあるらしく、駅の近くに宿もあったから、彼は電話で予約しておいた。一日に数本しか走らない列車に揺られていると、窓の外に淡いピンク色に霞む桜の木がみえた。彼が暮らす都市ではとっくに花は散ってしまったが、山が深いこの場所では今が桜の季節らしい。  彼は山の峰に囲まれた小さな駅に降り立った。列車には数人乗客がいたが、降りたのは彼ひとりだ。とても静かで鳥の声しかきこえない。予約した宿へ向かおうと駅を出たときだ。背の高い男が彼を呼びとめた。 「こっちだ。待っていたぞ」  宿から迎えが来るなど聞いていなかった。それに男の口調はぞんざいで、客商売にも思えない。人違いだろうと彼は口をひらきかけたが、男はさらにいった。 「――の息子だろう?」  彼は驚きのあまり、目を丸くした。 「そうですが、父を知っているんですか」  男はうなずいただけで、彼の鞄に手をかけた。ついてくるものと決めてかかっているようだが、彼も男の堂々とした態度に魅入られたようになっていた。男は駅前に停めた黒い車のドアをあけ、後部座席に彼の鞄を押しこむと、助手席をさした。彼は大人しく乗り込んで、シートベルトを締めた。  一度も会ったことがないはずなのに、男に見覚えがあるような気がして仕方なかった。車はすべるように走り出し、細い坂道を登っていく。予約した宿はもっと近くだったのではなかったか? 不安になりはじめたとき、ふいに桜の木があらわれ、薄紅色が彼をつつんだ。  圧倒的な光景だった。満開の桜が出迎えるように枝をのばし、車はその下を走り抜けていく。道の先に大きな屋敷がみえた。石段の前で男は停車すると「降りろ」という。  誰とも知らない相手に命令されたというのに、彼はおとなしく従い、そんな自分に驚いた。男の声には従わなければならないと思わせるような力があった。彼が夜の夢で、顔の見えない男に従っているように。ハッとして彼は男の顔をまじまじとみつめた。切れ長の目が彼を見返した。 「どうした?」  なぜか彼は赤面した。そのとき石段の上から「ようこそいらっしゃいました」と声が響いた。彼の父とおなじくらいの年齢にみえる、白髪の老人がいる。 「あの、」 「承知しております。どうぞこちらへ」  さっきの男の時とおなじような奇妙な強制力がまた働いたようだった。彼はいわれるままに石段をのぼり、導かれるままに石畳を歩いて、靴をぬぎ、古めかしい屋敷へ足を踏み入れた。 「お父上は長いあいだいらっしゃいませんでしたが、よく似ておられます」  わけがわからないまま座敷に通される。茶と菓子がすでに用意されていた。白髪の老人に勧められるまま彼は茶を飲んだ。淡い緑色の茶は乾いた舌にひどく甘く感じられた。  老人はこの屋敷の主に長く仕えているといった。彼の父は少年の頃、数年間だけこの屋敷で暮らしていて、老人も父を見知っていたから、彼をみてすぐにわかった、といった。いかにも由緒のありそうなこんな家と父に関係があったとは、彼はまったく知らなかった。 「すみません、鞄はどこでしょうか。実は……」  彼は父が死んだこと、遺品の中にこの地の誰かにあてた手紙が入っていたことを話した。老人は彼が話し終わるまで黙っていたが、やにわに「今夜はこちらにお泊まりください」といった。彼はあわてて付け加えた。 「こんなに簡単に父のゆかりの方に会えるとは思っていませんでした。僕としては、手紙がこのお屋敷の方あてのものなら、着物と一緒にお渡しできればと思っているのですが」 「それについては主さまのご意向を伺ってください」と老人はいった。 「その方は……」 「じきにお出ましになります。お部屋へご案内しましょう。まずはお食事と、お湯をお使いください」  いつの間にか日は暮れていたが、屋敷の庭先では桜の木の枝に吊り下げられた提灯があたりを幻想的に照らしていた。彼はもっと奥の続き間へ案内された。襖には桜の木が描かれている。頬かむりをした着物姿の女たちが三人ならんで彼の前に膳を運んできた。食前酒として供されたのは金色の雫であふれそうな盃である。湯殿は寝間のむこうにございます、と女のひとりがいった。  彼は別世界に来たような気分に誘い込まれていた。盃に口をつける。甘い酒が喉から胃へと染みわたり、はりつめた気分が和らいだ。料理はどれも美味しかった。彼はひとりの食事に慣れていたが、襖絵の桜を眺めながら、誰かとこれをわかちあえればいいのに、と思った。  食事を終えた彼は桜の襖をあけ、寝室だといわれた隣の部屋をのぞいた。畳の座敷の片側に布団が敷かれ、隅に彼の鞄が置かれている。鞄に入れていたはずの着物が掛けてあることにぎょっとしたが、勝手に鞄をあけられてもなぜか怒りは湧かなかった。むしろ、この着物はこの場に属するものだから、こうしなければならなかったのだ、という気がした。  温泉宿のような広い風呂は提灯をつるした桜の木に囲まれ、半分屋外に突き出ている。小路が庭に続いているのがみえた。外気はひんやりしていたが、熱い湯につかるとちょうどよい心地である。ほっと息をついたとき、背後で物音がした。彼はさっと振り返り、駅からここまで彼をつれてきた男の顔をみとめた。  男は無造作に服を脱ぎ捨て、彼の方へ歩いてくる。ひきしまった筋肉質の体躯に自然と目が行き、彼はあわててよそを向いた。男はざばんと音を立てて湯に足をいれ、立ったまま腰に手をあてて伸びをした。 「飯はどうだった?」 「……美味しかったです」 「この湯は気に入ったか」 「……ええ」  白髪の老人は男について何の説明もしなかったから、彼はてっきり、食事を運んできた女たちのような使用人なのかと思っていた。となりで湯につかる男をみて、彼はその考えをあらためた。老人が「主さま」と呼んだこの家の主人ではないにせよ――口ぶりでは相当な高齢のようだったから――この家の住人にちがいない。 「桜がきれいですね」  黙っているのも気が引けたから、彼は会話の糸口をさがし、そういってみた。 「毎年のことだ。咲いて散る。それだけだ」  男の返事はそっけなかった。彼は何といえばいいのか、わからなくなった。湯で温まった顔から汗が噴き出す。そろそろあがろうと思ったとき、男がいった。 「その先に淵がある。今夜あたりが見ごろだ。行きたいか?」  男の手は湯船から庭へつづく小路をさしている。整えられた指先をみたとたん、彼の中でなぜか欲望がぞくりと頭をもたげた。彼はああ、とあやふやな返事をした。男はすっと立ち上がり、腰に無造作にタオルを巻いた。そのまま小路の方へ行く。  てっきり着替えると思っていたので、彼はあわてた。同じように腰にタオルを巻いただけの格好で男のあとを追う。湯で温まった体はぽかぽかして、寒さは感じなかった。むしろ前をいく広い背中と腰の動きに胸がどきどきして、頬が火照った。夢の中で彼を抱く男の、触れる手の感触がありありと蘇ってくる。  男が立ち止まった。彼は頭をふり、急いでそのそばへ並んだ。舞台のように突きだした岩棚で、男は淵を見下ろして立っていた。水面はびっしり桜の花びらで覆われている。ふりあおぐと淵の向こうに桜の巨木がみえた。  ふいに男が腕を振りあげた。ポシャンと音がして、大きく水面が揺れる。彼は男の隣に立ち、息を飲んだ。花びらの層が割れ、黒い丸い輪が生まれ、元に戻る。 「この淵は深い。墜ちると二度と上がってこれない」  男がいった。彼は足元の石舞台をみつめ、怖くなって一歩、あとずさろうとした。男の背中が揺れた。笑ったのだと思った。 「怖いか」  手をかけられたとたん、欲望に体がカッと熱くなるのがわかった。彼は焦って男の手をふりはらうと、小路をいそいで駆け戻った。湯船のところまで戻り、ふと自分をみおろすと、腕にも胸にも桜の花びらが散っていた。彼はひざまずき、桶で湯をくみ、花びらを流した。立ち上がったところで小路を戻ってくる男がみえた。彼は顔をそらし、あわてて体を拭いた。用意されていた浴衣を体に巻きつけて、逃げるように部屋へ戻った。  夢でみる男と、この屋敷の男が重なってみえた気がして、そんな自分が恥ずかしかった。彼は布団に横になり、この屋敷の主と父親のあいだにかつて何があったのか、考えることで気を紛らわした。やがて眠くなり、明かりを消すことも思いつかないうちに、眠ってしまった。  また、夢をみている。  彼は両足を大きく広げたあられもない姿で、上にのしかかる男と唇をあわせていた。これまでの夢ではこんな口づけはなかった。舌が容赦なく彼の口腔に侵入し、蹂躙し、愛撫する。彼の頭にはぼうっと霞がかかり、毎夜の夢に慣れた体はその先を無意識に求めた。広げた足のあいだに男が入ってくると、奥まで深く突いてほしくて、自然に腰が揺れてしまう。 「やっとここへ来たな」  男がささやいた。奥へずぶりと突き入れられた肉棒に、彼の体は歓喜で応えた。 「俺のものになるか?」  耳元で囁かれた声そのものも快感を呼び、彼はどうしたらいいのかわからず、ただ首を左右に振る。男が動くたびにグチュグチュと淫靡な水音が響き、彼の口からは自分のものとも思えない喘ぎがこぼれた。 「おまえの父親は嘘をついたが、おまえはどうだ?」  男の唇が彼の喉を噛み、顎をくすぐる。がくがくと腰をゆさぶられて、彼はまた首を振る。その口から散る花びらのようにこぼれた言葉を男は聞き逃さなかった。はい、あなたのもの、あなたのものです。 「そうだろう」  男はつながったまま体勢を変え、彼を膝の上に抱えて、さらに深く押し入った。薄れていく意識の中で、男の声だけが何度も何度もこだまする。 「俺のことを誰にも告げるな。そうすれば俺はいつもおまえのそばにいる。俺の寿命が尽きるまで、おまえにすべてを与えてやる」  翌朝、彼はひとりで目覚めた。  桜の着物を羽織っていることに気づいて首を傾げたが、布団は乱れていなかった。夢の記憶は鮮明だったが、気分はやけにすっきりして、頭も澄みわたっていた。これまでみた淫靡な夢は、目覚めたあと泥のような疲労感と罪悪感をもたらすのが常だったが、今日はそんな風に思わなかった。隣の間には朝食が用意されていたが、膳は二人分あった。片方の膳の前にあの男が澄ました顔で座っている。  根拠のない、自分でも意味のわからない自信が彼を満たしていた。今日は白髪の老人は現れなかったが、彼は気にもしなかった。すべてあらかじめ決めていたことのように、食事が終わると彼は男が運転する車で駅まで行き、列車に乗った。耳の奥には「約束を忘れるな」というささやき声がこだましていた。

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