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第3話

   それからの彼の毎日は順風満帆だった。  最初のよい兆しは、彼に休暇を勧めた例の上司が異動になったことだった。表立って訴えることはできなかったが、彼に何かと干渉し、ともすれば体に触ろうとする上司のことを彼は前から苦手に思っていた。新しい上司になって、彼はもっと能力を発揮できるようになった。いつのまにか彼の評価はあがり、同僚や上司に頼りにされるようになっていた。  しかし彼は私生活とそれ以外を分けて暮らしていた。住んでいる場所は桜の木に囲まれていた。仕事がおわり玄関をあけると、男が彼を出迎える。彼は男の手をとり、男は彼を抱きしめる。なぜ、いつの間に男と一緒に暮らすことになったのか、彼には思い出せなかった。夜が来るたびに男は彼を抱き、快楽で叫ばせる。たくましい腰に揺さぶられて彼の体はなまめかしく蠢く。  もともとそれなりに整った顔立ちの彼は、いつのまにか、すれちがう人々の目を引くような色気を身にまとうようになっていた。彼の父親を知る者なら、そんなところがよく似ているといったかもしれない。しかし彼は父のように女と浮名を流すことはなかった。彼がみつめるのは共に暮らす男ひとりだけだ。  あっという間の夢のように一年が過ぎた。次の桜の季節になって、彼の勤務先には新しい顔が加わった。中途入社の後輩は三歳年下で、彼のことをとりわけ気に入ったらしい。 「実は前に一度会ったことがあるんですが、覚えていますか?」  そう聞かれても、彼にはまったく記憶がなかった。正直にそう話すと後輩は残念な表情になった。前の勤務先にいたとき、商談で彼と会った、という。 「こっちへ入社して、同じチームになったときは信じられない気分でした」  そうかな、と彼は思った。その時は特にたいした興味も持たなかった。  しかし後輩は性格も頭もいい魅力的な男で、一緒に仕事をするうちに彼はだんだん惹かれていった。ふたりで何度も成果をあげたために社内でもコンビとしてみられるようになった。それでもその関係は、あくまでも勤務先の中だけのことだった。彼が家に帰ると男が待っている。しかし彼は男にときたま、後輩の話をするようになった。後輩には多少そそっかしいところがあり、それもまた人間的な魅力になっていた。彼に他意はなかった。ただ、後輩が自分にとってだんだん近い存在になっていたというだけだ。  そしてまた一年が過ぎた。桜の季節がきて、彼は別の部署へ異動することになった。 「コンビもこれで終わりだな」  喫茶店でのコーヒーブレイクのあいだ、彼は冗談まじりにそういったのだが、後輩は話に乗ってこなかった。なぜかこんなことを聞いてくる。 「家では何をしているんです?」 「何って……」彼は途惑った。「ふつうに暮らしてる」 「一緒にいろいろやったわりに個人的な話をちっとも聞けなかったんですけど、結婚してるわけじゃないんですよね」 「まあ、そうだけど」  彼はさらに途惑った。「どうしたんだ?」  後輩は早口でいった。 「異動したらあまり話ができなくなりますから、今のうちにいっておきたくて……好きです。その、恋愛的な意味で」  彼は何といったらいいかわからなかった。コーヒーの黒い渦をみつめた。 「悪いけど」 「誰かいるんですよね」  後輩の口調はすこしだけ落ちついたものになっていた。 「男性でしょう?」 「どうしてそう思う?」 「なんとなく。俺はあなたを毎日みてましたから。一緒に住んでいるんですか?」  後輩の真剣な表情をみつめるうちに、彼にも真剣に答えなければならない、という気分が生まれた。 「ああ。一緒に暮らしてる」 「どんな人ですか。俺とはぜんぜんちがうタイプ?」 「どんな人?」  答えようとして彼は急に言葉につまった。頭にうかんだ男の姿がすうっと桜の木に変わって、顔がまったく思い出せなかったからだ。視界に花びらがあふれた。淡い紅色の桜の花びらが黒い淵に降りつもる。顔の見えない男の声が耳元でささやく。この淵は深い……。 「大丈夫ですか!」  誰かが自分を呼んでいる。ぼんやりそう思ったものの、降りしきる桜の花びらに埋もれて彼の意識は呼ぶ声から離れ、関係ない思いに沈んでいった。桜。桜の花が散る、着物……そういえば手紙があった。あの手紙を自分はどこへやっただろう? 「ほんとうにここでいいんですか?」  気がつくと彼は殺風景な玄関に立っている。後輩の腕が彼を支えてくれたので、彼は鍵を取り出して扉を開けた。中は暗かった。おかしいな、という考えと、これがいつものことだ、という考えが交差して、彼は自分自身がわからなくなる。彼の家は子供のころから母親と暮らしている郊外の小さな一軒家で、母親が死んでから彼はずっとひとり暮らしだ。年に一度、母の昔なじみの植木屋に手入れしてもらうだけの庭は荒れてはいないが殺風景で、家の中もがらんとしている。 「急に倒れるなんて、なにか飲み物とか――」  後輩が台所で物音を立てている。彼はわけのわからない焦燥感に襲われている。何かが間違っている気がするのに、その正体がわからない。ふらふらしながら隣の部屋に向かったとき、足元で散った桜の花びらが彼の両足を包みこんだ。 「どうしました?!」  どしん、という音を聞いたのだろう、後輩が駆け寄ってくる。彼は着物の上で尻もちをついていた。ふるえる手が桐箱をさぐり、底の板をずらす。手紙は開けられないままそこにあった。彼はふたの隙間に指を差しこんだ。平らに折られた巻紙に達筆の草書が並んでいる。父親の文字にちがいないが、彼にはまともに読むことができない。かろうじてわかったのは「許してほしい」という言葉だけだ。届けられなかった手紙の告白が何を意味するのか、彼にはわからなかった。 (おまえの父親は嘘をついたが、おまえはどうだ?)  自分も父親とおなじことをしたのだろうか。  彼は座りこんだまま着物を握りしめ、この数年彼と共にいたはずの男の顔を思い出そうとした。ところがすがりついた布は彼の目の前で風雨にさらされたようにぼろぼろになって、細い繊維の塊から塵へと姿を変えていく。しまいに萎れた花びらのかたまりのような薄茶色の屑になって、彼の手の中からこぼれおちた。

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