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第1話

 出所したら何が何でもダン・スタンバスを殺るつもりでいた。予定だと、奴がフローレンスの州刑務所から釈放されたのは2週間前。面の皮が厚いあの男のことだ。のうのうと市内に留まり、酒場で酔い潰れているに違いない。  そう踏んでいたのに、迎えに来た弁護士の話だと、奴は未だ塀の中にいるのだという。 「ちょっとしたトラブルがありましてね。ええっと、つまり、スタンバス氏本人の起こした諍いって意味で」  女の中へ挿れて、ぼっきり中折れしたような気分。話したい気分ではなかった。釈明は顎をしゃくる動きで封じる。それでもサンドストーンは、往生際も悪く助手席へ横目を這わせ、控えめな溜息をついてみせた。 「でも明後日には……カマルゴ氏も承知です」  汗びっしょりの赤い肌はつまり、古臭い物言いをするならば、インディアン嘘つかないの証左とみなしていい。問題は、目的語の欠如によって、何についての許容なのかは判別がつかないこと――目的語なんて言葉は5年前には知りもしなかった。アイマンで臭い飯を食う生活もあながち無駄ではなかった訳だ。更にすばらしいことには、自らの変化を、周囲は知らないと来ている。  初めて食らい込んだときは、忍従について徹底的に学ばされた。3回目辺りで、大胆さが身を救うこともあると知った。この度の成果を一言で現すならば、つまりギアの入れ方について。耐えたり、凶暴になる方法は、人生の中で嫌でも学ぶ。子供の頃に覚えれば、20年ぶりにサドルへ跨がっても自転車へ乗ることが出来るのと同じだ。一度身につけた手腕を再び振るうのは容易い。問題は、調子に乗って必要以上に見せびらかさないこと、それでいて舐められてはいけないこと。的確な機会に、的確な一撃を与えないと、相手に反撃されてしまう。特に自らの力が、有利だと言いきれないときには。  フランクは神経質なほど掃除の行き届いているサイドガラス越しに、世界を眺めた。ジェネシスの黒いサルーンはいつの間にかグレンデールに入っている。隣接するフェニックスとも、ましてや彼が生まれ育ったツーソンとも違う。この街が纏う、どんよりとした沈滞を、人は平穏と呼ぶのだ。60号線を降りると空気すらも違って感じる。厚く垂れ込める雲に圧搾されたのか、せっかく快適な三月の風もじめじめと重たげだった。  不快さは金の力で解決できる。デミアン・カマルゴが別宅代わりにしている北43番通り沿いのアパートメントでは、ゲートを潜るや否や子供たちの喚声に迎えられた。3棟の集合住宅に取り囲まれるプールではしゃいでいるのは、住人達だろう。遠目だから断定は出来ないが、エメラルドグリーンの水着姿で赤ん坊を抱いている脚の綺麗な女は、記憶が正しければ、ここで暮らしているカマルゴの愛人のはず。  大物を待たせている事実に、気分が高揚はしなかった。サンドストーンも同意見だったようで、細く開いていた窓を無言で閉める。 「貴方が何をしようと勝手ですが、人を殺したら刑務所に入らねばならないんですよ」 「あんたに迷惑をかけるつもりはない」  エントランス前に滑り込んだ車が、エンジンを停止する気配は全くない。助手席のドアを蹴り開ける勢いのカウボーイブーツに、サンドストーンは露骨なほど顔をしかめた。知ったことか。ドアに腕をかけて車内を覗き込み、フランクは口髭を捻るようにして、唇を歪めて見せた。 「これは俺の問題だ」 「聞きたくありません」  アデロールで抑えきれなかった悲嘆によって、声が僅かに上擦る。惨めで哀れな弁護士。何にせよ、彼の腕は公選弁護士と比べものにならないほど良い。二人の男を殺した母音で終わる名字の男を、たった五年で娑婆へと解き放ってみせたのだから。次の機会が訪れても、また彼に弁護してもらいたいものだと心から思う。  そのような事態に陥る道を歩むことについて、フランクは一切躊躇する気などなかった。  アパートは干からびたオムレツを思わせる壁色をしていた。三階の角部屋、つまり建物の中における一番上等な場所で、カマルゴは待ちかまえていた。  ドア前に突っ立っていた若造はその態度で兵隊を気取っているつもりなのだろう。身につけるよれたTシャツと同じくらいだぶついた顎を突き上げ、入るよう合図するものだから、よほど一発勉強させてやろうかと思った。だが扉が半分も開かないうちに、聞き慣れた一際呑気な、あるいはそう装っている声が押し寄せてくる。 「フランク・プラド! 英雄のご帰還って訳だ」  最後に訪れた時から、また模様替えをしたらしい。居間の応接セットは黒い籐で統一されている。背後を振り仰ごうと捻られたカマルゴの肩もまた、以前より分厚くなっているように思えた。彼も半年ほど法廷侮辱罪か何かで食らい込んでいたと聞いているから、中でバーベル遊びでもしていたのかもしれない。  その場に待ちかまえていた中で、立ち上がったのは奴一人のみだった。カウチの座面を撓ませる勢いのデブ二人は、ショバこそ違うが見知った顔だ。自らが軽く見られていい存在だとフランクは努々思っていなかったが、それにしたところで少し大仰すぎる。 「全く、このとんだ狂犬野郎! 散々心配かけさせやがって。お前が中で刺されちまったら、次から誰があのニカラグア人どもへ睨みを利かせるんだよ?」 「あんたのおかげで助かった、デミアン」  フランクは目の前の肩を軽く抱き、うっすらと笑みを浮かべた。 「差し入れにも感謝してる」 「あそこもとっとと民営になったら良いのにな。そうすればわざわざフライドチキンの差し入れもしなくて済む……お前、痩せたんじゃないか」 「まあ、絞りはしたな」 「そうかい。何にせよ細っこいなりじゃねえの」  クルーカットを振り振り、カマルゴは天を仰いだ。 「でもその様子だと、肝っ玉は萎んでないみたいだな」  思った通り、まだ自らの処遇については議決へと到達していなかったらしい。この界隈では、余裕ぶった物腰こそが理想だとされる。蟻かキリギリスかならばキリギリス。毎日地道に働き、そのくせ将来のことに頭を悩ませるなど全く馬鹿らしい。そんな生活が向いているならば、端から口入れ屋にぺこぺこと頭を下げ、国境沿いでオレンジの実をもいでいる。もしもどうしようもないほどツキが落ちたならば仕方がない、いざとなれば蟻の巣を叩き壊して、奪い取ればいい。思い切った行動は賞賛される。それがエゴを通す行為であればあるほど。  カマルゴはココア色をした、酷く生き生きと無邪気そうな目を見開いた。 「相変わらず辛気くさい顔しやがって……分かってるよ、ちゃんとお見通しだ、お前が考えてることはな。今話してたんだが、デイヴもアーロンも、お前がトニー・ダイベックとあのガキを殺ったことは当然だって理解してるよ。もちろん、アイマンでパレスをしとめたことも」  控えていた男達の目は相変わらず鈍い色を保ち続けている。それはフランクが瞬き一つせずに返事をしても、変わることがなかった。 「必要なことをしたまでさ」 「まあ、そうだろうよ。ところで、ダン・スタンバスの出所が金曜になったことは知ってるな。サンディに感謝しとけ、奴が手を回したおかげで、週を跨がなかったんだからな」 「ああ」 「奴はろくでなしだし、皆を困らせてる。で、お前は片を付けたいと……それでこの騒動も終わる、だろ?」  異存は全くない。だがそれは、立つにしても座るにしても青いリネンのスーツへ皺をつけないよう気を配るこの男が、鼻を鳴らしてにやつきながら口にするべきではない。腹の中で何かが萎み、そして燃え上がる。もはや日常的な感情となっている、目の前の男を殴りつけたいとの欲求が、全身へじっとりと染み渡るかのようだった。  カマルゴはにっこりと笑顔を浮かべて見せた。5年前、彼の唇はいつでもクラック・パイプの作る、水疱じみた火膨れが出来ていた。今や軽快に捻られたそこはクリームでも塗ったかのようにすべすべしている。見せびらかされる歯は、もしかしたら矯正とホワイトニングを施したのかもしれない。 「久しぶりのシャバだから、勝手が分からんだろ……馬鹿にしてるんじゃねえよ。この数年は特にめまぐるしいんだ。何せ大統領が2回変わったんだぜ」  話は読めてきた。だが相変わらずカマルゴはのらりくらりと、澄ました態度を貫く。フランクが間違いなく、デブ二人の存在を気に入っていないと知っても、お構いなしだった。数歩歩いては、スラックスのポケットに手を突っ込み、鋭く立った筋を整える。 「お前の世話をしてくれる奴を手配してある。ヤゴは何でもしてくれるぜ。女や隠れ場所の手配から、他のものもな。そいつはダンを迎えにいくことになってるから、お前はリモに乗ったお大尽みたく、後部座席でふんぞり返ってりゃいい。金もそいつに預けてあるからな」 「いくら」 「2000ドル、当面のところはな。心配すんなって、入る前の分はちゃあんと貯めてある。知ってるだろ、サンディがフェニックスのイーロン・マスクみたいな奴と仲がいいからな、上手く回してくれてるのよ」  埃まみれのチェストから取り出された、白く曇ったロックグラスをためつすがめつする顔は盛大にしかめられる。結局汚れは拭われることなくジャック・ダニエルズが注がれる。口を付ける寸前、今更気づいたかのようにフランクの目を見つめ返す。 「一杯どうだ」 「いや、いい」  相変わらずカウチから注がれる、威嚇する猫のような眼差しへ、フランクは一瞬だけ視線を絡み合わせた。感情を含まない彼の目つきは、明らかに連中の機嫌を損ねさせたようだった。 「ビールより強いものは飲まないようにしてる」 「ふうん。ま、それが賢明だわな。お互い、もうあと何年もしないうちに40だもの」  舌は一瞬だけグラスの中へ浸されただけだった。なのにカマルゴの顔は、いっそわざとらしいほどくしゃくしゃになるのだ。 「くそっ、黴臭くて飲めやしねえ。あのアマ、古い酒は捨てろって言ってあるのに」

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