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※ 第2話
カマルゴは後部座席で悠々、なんぞと抜かした。だがエントランス前で待っていたフォードのコンパクト・セダンは、よく手入れされているものの、脚を伸ばして座るには少し小型すぎる。
運転席から乗り出された上半身よりも先に、フランクは男の胸元へ目を向けた。胸へでかでかとプリントされるスマッシング・パンプキンズのロゴ。いい年こいてよれたバンドTシャツなんぞ身につけている奴にろくな人間はいない。そいつは年齢は30前後、どこかで見知ったような、見知っていないような顔。
男は口元を綻ばせ、手を差し出した。ずっとエンジンを掛けっぱなしにして待っていたのだろう。癖の強い黒髪は汗ばむ気配もなく、仰向いた顔の動きに従って軽快に跳ねた。
「フランク・プラド? メディナだ。カマルゴ氏から聞いてると思うけど」
フランクは、その小ぶりな、柔らかさが一目で分かる、今まで鉛筆とフォークしか握ったことがなさそうな掌を見下ろした。相手の表情に微かな懸念が浮かんで初めて、求められていることを理解する。
なおざりな握手だったが、ヤゴ・メディナはとりあえず表情から不安を取り除いた。後部座席のドアが勢いよく閉められるや否や、「このままホテルへ向かっていいか」と尋ねる。その語調が明朗で、フォーク歌手みたいなものだったことは、フランクの怒りを掻き立てる要因にしかならなかった。
お守りを付けられるなんて、自らもヤキが回ったものだ。何故提案されたとき、断らなかったのだろう。あのとき、唯々諾々と受け入れた瞬間、決定づけられたのだ。自らの位置付けが。侮りが。
怒りをじっくりと噛みしめているフランクを、ヤゴはそっとしておいてくれた。檻の中の獣は、環境に馴染むまで待ってやりましょう、という訳だ。眠たげな二重瞼から流れ、切れ長眦の延長線上にある流し目が含んだ、憎たらしい優越感。バックミラーで確認するだけではなく、わざわざ信号待ちで停車した暁には、肩越しに振り返る真似すらする。
「どこか店には寄らなくていい? 昼飯は?」
「いい」
「ほんとに? サンドストーン氏から預かった荷物は……」
そこまで口にしてから、ようやくフランクの目つきに気付いたと言わんばかり。肩を竦めるとき、わざとらしく見開かれた目が、また何とも憎たらしいのだ。
「そうだな。一度落ち着いてから買いに行けばいいか」
そうだな、の抑揚でここまで神経を逆撫で出来る人間もそうそういない。『サンドストーン氏』ですら、もう少し界隈の世事には通じているだろう――あの極道弁護士をそうやってご丁寧に呼ばわる男に、フランクは初めて出会った。
その言葉付き同様、車は模範的な速度を保ちながら走った。運転技術は優れているとは言えない。何度も急ブレーキ、急ハンドル、土地に不慣れだからという言葉では言い訳がつかない拙さだった。そのくせハンドルを握る当の本人は落ち着き払った態度を崩さない。
「あそこにスシ・レストランがある。その隣にはタコス屋も」
「あんた、腹減ってるのか?」
「そうじゃないけど……」
口ごもりざま投げかける目付きは、酷く哀愁を帯びている。
「カマルゴ氏から言われてるんだ。君の面倒を見るように。快適に過ごせるよう、出来る限り手を尽くして、ねぎらえってね」
時の流れはめまぐるしい。5年間も娑婆から離れていた人間は、赤ん坊も同然というわけだ。
どちらにしろ、ねぎらいなんて言葉は、気味の悪さしか覚えなかった。愛人と自らの子供をあんな安っぽいアパートメントに押し込めている男の善意。いや、奴は良心的だ。中絶させなかったのだから、と、周囲の人間は口を揃えて答えるだろう。
それに彼は、毎週カーネル・サンダース印のチキンをムショへ差し入れるよう手配してくれたではないか。フランクが稼いだ金を勝手に使い、相手がチキンを好いているか嫌っているかなど、全くお構いなしに。
今朝、三重になったムショの門から足を踏み出したとき、フランクは大した感慨を覚えなかった。勘や思惑が外れることは多々ある。だが自らの感情が間違っていたことは一度もない。
認めざるを得なかった。服役中よりも遙かに孤独を感じ、警戒心が張り詰めていると。
「自分の面倒は自分で見れる」
押し出すような呟きに、ヤゴは賛同を感じているとは到底思えない風で頷いた。
「そうだろうね」
弾かれたウィンカーは、どう考えてもタイミングが遅過ぎた。
バンドTシャツを身につけた男が定義付ける快適さ。パパゴ・フリーウェイを下りてすぐのホテルは、間違いなく短期滞在者向けではなかった。ここで暮らしているのと大して変わらない生活水準の住人が入る、平屋住宅街のど真ん中。枯れかけたパームツリーが、かさついた葉を真昼の微風で気だるげに揺らす。
出来る限りゴミの散乱が少ない区画を選んだつもりなのだろう。踏みつけた黒いビニル袋と、勢いのあるブレーキが相まり、車はつんのめる勢いで停止する。
「少なくとも、交通の便はいいから」
別にフランクは苦言を呈するつもりなどなかったのだが、ヤゴの早口は間違いなく弁明の色を帯びていた。管理棟へ向か後ろ姿を目にし、彼が案外引き締まった体つきをしているのだと初めて気付く。刑務所の図書室で読んだ雑誌記事を思い出す――エスクワイアだったろうか? ハリウッド映画では、80年代から悪役の容姿が様変わりした。やたら重たい生地のスーツにでっぷり肥えた太鼓腹、短く太い指に葉巻を手挟むイタリア男は過去の話。エクササイズで整えた筋肉、完璧な歯列矯正とホワイトニングの歯を見せびらかす笑顔、ヨガの後は野菜ジュースを飲む。
通りかかったランドリールームに据え付けられている自動販売機は、甘ったるい清涼飲料水すら品切れを起こしていた。何にせよ、部屋へ飲食物を持ち込むのはよした方がいい。2階の真ん中辺り、ということはちょうど建物の中心に当たる客室のドアを開けた途端、独特の油臭さが鼻面を叩く。人間様のお越しに、かさかさと黒い影が四方八方に散ったのはまだお行儀のいい奴らだと言えた。
「後で殺虫剤を買いに行こう」
へばりついたアブラムシへの威嚇に、ヤゴは壁を思い切り拳骨で殴った。すぐさま、壁越しに同じ勢いで殴り返す音が、狭い室内へ鈍く反響する。やってられないと言わんばかりに、当てられた手が押し出す腰から、豊満な尻がデニム越しにぱんと張り出された。
「2日だけ我慢してくれ。後はどこへ行こうと自由だ」
ようやく化けの皮が剥がれた訳だ。
薄いドアを後ろ足で蹴り閉め、フランクは自らより少し低い男の肩を掴んだ。壁へ叩きつけられた背中に、低く短い呻きが上がる。
見上げてくる瞳は黒目がちで大きい。監房で消灯前に読みふけったダシール・ハメットのペーパーバックを思い出す。「磨き上げた銀に翳りが浮かぶのを見たことがあるでしょう?」目の前の男の 場合は、茶色い瑪瑙を磨き上げたと言うべきだろうか。虹彩は硬質に輝くが、その芯は決して動揺を見せない。
逡巡の時間は短い。くっきりした顎が微かに持ち上げられるにつれ。形良い唇がうっすらと開く。垣間見える舌先が言葉を紡ぐのを見たくなくて、フランクは顔をぐっと近付けた。
「手を尽くして、ねぎらってくれるんだろう」
怒れ、と心の中で唱える。好きなだけ喚けばいい。殴りかかってきたら殴り返してやろう。厄介事を避けると言う意味ならば、そのまま恐れをなし、尻尾を巻いて逃げ出してくれるのが一番いい。だがその展開は面白くない。自らがトラブルへ飛び込みたいのか、孤独を乞うているのか、今やフランクにはさっぱり分からなかった。
お互いの鼻先が触れ合う位置まで身を寄せる頃になって、ヤゴは小さく首を振った。白い漆喰塗りの壁の上で、巻き毛がしゃりっと音を立てる。彼の汗とアフターシェーブローションの香りが鼻を突いた。
「物好きな奴だな」
ただでも低い声は、潜められた事で上等な車のエンジンじみた響きを帯びる。その背後にあると予想し、望んでいた当惑や恐怖、後ろめたさを、フランクは一切見つけることが出来なかった。
艶のない、傷だらけになったフローリングに膝を突くと、ヤゴは眼前に迫るジーンズの前立てへ手を伸ばした。フランクは下着を履いていた。服役で身についた癖を全て拭い去るには、もうしばらく掛かるに違いない。
勃起していることに驚いたのはフランクだけではなかった。コットンのトランクスを緩く押し上げる熱量へ、ヤゴは確かに息を飲んだ。そのまま恐る恐る、睾丸ごと掬い上げるようにして質量を確かめる。
「刑務所で覚えた?」
「なに?」
「男について」
「いや」
少し考えてからフランクが口にした答えへは「へえ」とさして興味を抱いているようには聞こえない相槌が寄越される。至極真面目な顔のまま。ペニスを下着から取り出すときも、溶けてくっついた菓子の包み紙を剥がすような慎重さは崩れない。のっそりと現れた屹立に、緩く唇を噛む前歯は、並びが良かった。
彼はフェラチオを施すことに間違いなく慣れていた。上半分ほどを、濡れた舌で舐め潤し、唇だけで幹を軽く食む。亀頭は特に執拗だった。括から、充血した肉色の先端まできゅっきゅっと、時に親指と人差し指も使って撓める。十分に唾液を塗り込めたら、裏筋を浮き上がらせるよう尖らせた舌先を滑らせ、睾丸へ。そこをまたじっくり含む。口の中でこりこりと袋の中身を転がされ、フランクは呻いた。
「溜まってるよな、そりゃ」
皮の伸縮性を良いことに、前歯がじりじりと食い込む。口腔内の粘膜で、玉のせり上がりを知ったに違いない。先走りと唾液でべたべたになった唇だけを、ヤゴはうっすらと笑ませた。
「当然さ。仕方ない」
「いいから良くしてくれよ、かわいこちゃん」
おざなりの甘い言葉で、見下ろす顔に一瞬、虚を突かれたような表情が浮かぶ。ほんの一瞬のことだ。すぐさま、表情筋全体が悶えたような形に歪められたが。
完全に勃ち上がったペニスを眼にして、「すごく長い」とヤゴは言った。「太いとか大きいって言うよりは。蛇みたいだ。言われたことない?」
答える代わりに、フランンクは整髪料で滑る、眼下の髪を掴んだ。
そこから先は、ヤゴも口を会話の為に用いようとしなかった。微かに震える生ぬるい呼気を、敏感な粘膜に吹きかけたと思ったら、一息に飲み込む。思わずフランクは目を閉じようとした。が、自分だけの妄想に浸り、ヤゴの目を見ないでいるのは惜しいと思った。瑪瑙の瞳。
期待に反して、ヤゴは瞼を引き下ろしていた。自らが今くわえているものを恐れているかのように、あるいは、堪能しているかのように。一体どちらだろうと、寄せられた眉間を見ながら考える。この深い皺を除けば、彼の顔はやたらと静謐だった。
頭皮で、相手の指が期待で芋虫の如く蠢いているのを感じ取ったのだろう。ヤゴは軽く首を傾げ、一層顔を押しつけてきた。自ら招いた事態にも関わらず、濡れた肉厚の舌が一瞬ぴんと引き攣れる。先端を緩く包み込んでいた喉奥が、きゅっと締まる。
くそ真面目な奉仕に、同じような神妙さで向き合っている己へフランクは気付いた。こんなつもりでは全くなかった。そもそも勃起し、射精したいなどとは思っていなかった。道を歩けば幾らでも女がいるという余裕だろうか。
自らが女にとってまだ魅力を振りまけると、彼は確信していた。中で鍛えていたから、カウボーイのように細く締まった体つきのままだし、忍従も学んだ。それに前科者へ興奮する女は、世の中に案外多い。
せっかく取り戻した自由への道行きを、目の前の男は阻もうとしている。それはもう必死で。今やヤゴは、口角に泡が立つほどの勢いで頭を前後させていた。女の膣のように潤った粘膜を窄めては、ずるりと抜けていく尿道口を、奥歯へ滑らせる。そしてまた押し込む。
建物のどこかから、女性ラッパーの甲高いリリックが微かに聞こえてくる。頭がぼんやりしてきた。茹だっているのかもしれない。空調は入っていなかった。アブラムシと汗の臭いが滞留している。こんな宿だ、コイン式なのかもしれない。
幾重にも巻き付くような筋肉の輪が敏感な亀頭を揉みしだく。気持ちのいい喉奥で出したかった。ぽっかり空いた穴の先へ胃の中から逆流する、思い切り飲ませてやるのだ。想像すれば、今更ながら興奮して、腹筋がかちかちに固くなる。
引き寄せる手の動きに、ヤゴは逆らわなかった。鼻先が下腹で押し潰される。
やたらと量の多い、だらだらと続く射精をした。一滴残らず嚥下する気概らしく、ヤゴは口を離さない。揺れる膝頭で蹴った肩が熱く、そして緊張していた。Tシャツに洗濯ばさみの跡がある。
手の甲で唇を押さえながら立ち上がった時、その面立ちにはやはり嫌悪など見受けられない。俯けられた拍子に、こめかみを玉の汗が滑る。
「ちょっと待ってて」
彼が興奮しているのかは、確認するのを忘れた。バスルームへ籠もっていたのはそんなに長い時間ではなかったから、ものを扱いていた訳ではないのだろう。静寂へ、リリックがまた一歩踏み込む。あれは元々、男のラッパーが歌っていた曲ではなかっただろうか。プッシーが何だかんだとか、銃がどうこうとか。一物のぶら下がっていない女が、どうしてそんな主張をしたがるのか、露ほども理解できない。
分からないと言えば、今起こったことは、一体何だったんだ?
セミダブルのベッドに腰掛けるフランクを見て、戻ってきたヤゴは笑った。
「何だ、眠たい猫みたいな顔して」
口を濯いで顔を洗い、くしゃくしゃにされた髪を整えただけなのに、どう言うわけかその姿はひどく清らかに見えた。細められる鈍い輝きの瞳が、形の整った唇が、田舎の朝日に照らされているかの如く長閑にきらめいている。
「俺は腹が減ったよ。君も食べに行かないか、今後の予定について話もしたいし」
今後の予定か。やることは決まっている。何せ5年前、禿げ上がった頭までやたらと血色のいい老判事が、判決を下した瞬間から、ずっと胸に秘めてきた決意だ。独房へ2週間押し込められた時ですら、気持ちは決して折れることが無かった。
それなのに今になって湧き上がる、この一抹の不安は一体なんだろう。
精液が吸い取られて出来上がった空白に、余計なものが入り込む。禄でもないことだ。さっさと埋めなければ。
自らの空腹を意識して、ようやく腰を上げる。目の前の男ならば、そこそこ美味い店を知っているのではないかと、期待を抱く。フランクは飢えていた。何せムショの飯は、全く酷いものだった……
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