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第7話
その夜は、刑務所でやらなかったことをした。クソみたいな臭いのキャメルをふんだんに吸って、スコッチを瓶に半分飲んだ。テレビはつけなかった。照明をつけっぱなしにして、汚れていない方のシングルベッドへ大の字になり、スマートフォンでラジオを流す。5年前と同じディスク・ジョッキーが、あの頃と同じくゼロ年代にリスペクトを捧げている。ニッケルバックの初期アルバムから。
そうやって気分を高めていった。太陽は、水面に浮いたごみを掬うネットの動きで沈み、幾らもしないうちにまた昇ることだろう。
ヤゴは随分と長い時間、湯船に浸かっていた。戻ってきた彼は、身体的な文脈を超越し、ひどく清潔に見えた。入浴中に届けられたドミノピザをだらだらと平らげた後は、すぐ寝てしまう。何の躊躇もなく、フランクの隣に横たわって。
彼を抱いて、フランクも眠った。刑務所にいたときは、どれだけか弱い存在であったとしても、例えやった直後であろうとも、決して自分の寝台で他人を寝かせなかった。今は許す。自らも、そして彼も。所詮、今夜だけのことかも知れないからだ。
翌朝、まだ腕の中にいたヤゴを揺り起こしたのはフランクだった。腫れぼったい瞼を何度も瞬かせ、目やにを擦り落とす仕草からは、昨日の性的な空気の片鱗も窺えない。全く無防備なものだった。寝起きから頭がしっかりするまで、時間のかかる性質らしい。
「本当にやるのか」
ぬるくなったミネラルウォーターで、昨日のフライドポテトを流し込んでいる時に、ヤゴはようやく尋ねた。ふり掛けられる袋入りのタバスコからポテトを庇いながら、フランクは頷いた。
「理解しろとは言わない。だが起こることを受け入れろ」
「刑務所へ逆戻りしてでも、何が何でも果たすべきことなのか、復讐ってものは」
まるで今日の天気について話しているかのように、何事にも拘泥のない口調だった。だからこそフランクも、全く開けっ広げに胸の内を晒してみせる。
「人のものを売ってきてやるって言った癖、いざとなれば金を払わないような奴に、砂漠へ生き埋めにされて、俺は腹が立った。その怒りがあったから、俺はこの5年間を生き延びられたんだ」
まだ最後の単語が言い切られる前に、うん、とヤゴは頷いた。組んだ脚、特に股関節の辺りを汚れた指で気怠げに揉みながら。
それでいい、最初から理解は求めていない。自らだけが知っていればいいことだ。今やフランクは、静かに、頑なに、決意を固めていた。
結局カマルゴからは一度も連絡がなかった。ヤゴにも敢えて話を通させることはせず、トランクはホテルの部屋へ置いていく。終わったら取りに来ればいいと言えば、ヤゴは反論せず鞄を運び込んだ。
釈放は予定だと9時、フローレンスまでは1時間もかからない。だからヤゴも、ここの駐車場からトランクの中へ入っていくよう提案したのだろう。
「知ってると思うが、刑務所の近くにアーロン・コルサタルの息が掛かった工場があるんだ。元工場って言うのか……スタンバスを拾ったら、そこへ連れて行く」
そこはフランクにも土地勘のある場所だったし、計画に不審な点はない。共犯者を信頼していたらの話だが。
グロックとケル・テックを腰に差し込み、コンパクト・セダンの棺桶を思わせるトランクへ片足を入れたとき、ヤゴは取って付けたように言い募った。
「心配するな。君にスタンバスと決着をつけさせないと、俺が罰を受ける」
そんな笑みは、普通の人間だと、よっぽど気に入った相手にしか見せないものだと、この男は理解していないようだった。
叩きつけるように閉められ、車が走り出して幾らもしないうちに、その狭い空間は地獄の様相と化した。汗が滝のように噴き出し、ちょっと車体が跳ねたり進路を変更しただけで、縮めた身体の節々が苦痛を訴える。
状況は異なるが、この状況はかつて瀕した死を簡単に心身へと蘇らせた。
波紋のように広がる、後頭部の凄まじい痛み。全身を柔らかく抱きしめ、やがて押し潰すのだろう、ひんやりとした重み。口の中に潜り込んだ砂がきしきしと粘膜へ細かい擦り傷を与える。
最初は手足を動かすどころか、瞼を開くことすら出来なかった。ただただ自らの自由が奪われていることに愕然とし、取り戻そうと必死に全身へ力を込めた。鳥が飛ぼうとするように、ばたつかせていた腕が少しずつ大きな動きをこなせるようになったのは、感情が怒りへと変わった頃だった。彼はひたすら、頭上へ向かおうとした。爪が剥がれてしまいそうな程土が潜り込んでもお構いなしだった。殴られた後頭部の作る痛みは益々激しくなる。空気の代わりに入り込もうとする砂に、肺は今にも燃え尽きそうほどだった。
あの忌々しいチンピラども、人の上がりを掠め取るハイエナの群れ。何よりも、これまでの取引からうかうか信用し、ダン・スタンバスに(よりによってあの売人に!)言いくるめられた自らへ腹が立つ。「トニー・ダイベックの家の前に張ってるアンテナ付きの車を見れば、お前もタマが縮こまるよ。ほら、この前あったテンピの件以来、サツはすっかりぴりぴりしてやがんのよ」
お巡りと撃ち合いを演じたどこぞの間抜けどもとは違い、フランクは堅実にヤマをこなしている。分け前でいつも通りダイベックへ小さなスポーツバッグを渡しに、よくもまあ、のこのこと。
あのバッグには小額紙幣ばかりで3万ドル入っていた。皆がリバタリアン・カジノなんて呼んでいた、あのプリンストンかどこかを出たばかりの、いつもぱりっとした糊のシャツを身につけるクソ生意気なノミ屋。もっとも、ナバホ族のブラックジャック・テーブルに閑古鳥が鳴いているのは、別に奴のせいではなかった。だが取りあえず、カマルゴを初めとするお偉いさんは、彼の事務所を叩く許可を出した。少なくとも、うっかり殺したところで構いはしないと。
実際のところ、生きるのに許可を必要とする人間なんて、いるのだろうか。
少なくともフランクは、自らが好きに生きる権利を有していると自認していた。
阿呆どもの間抜けさ加減を責め立てるのも無理な話だ。まさか地の底から蘇って来るものとは思っていなかったのだろう。雲一つない青空の下、黒光りする馬鹿でかいアストロのバンの中で空調を思い切り利かせ、奴らは土木作業の疲れを癒していた。クーラーボックスから取り出したクアーズを喉へと流し込みながら、音楽を流して。
一緒に埋められたS&Wの回転式拳銃が、銃口に詰まった砂でジャムらなかったのは奇跡に近い。その時のフランクには、これ以上悪い方向へ転ぶ可能性など、全くと言っていいほど考えることができなかったのだから。
連中が度肝を抜かれたのは、サイドガラス越しにぬっと立ち尽くすフランクの姿ではなかった。自らの存在が認識される前に、フランクは砂埃による充血で落とし卵のようになった目を見開き、引き金を引いていた。
割れた窓から吸い出されるようにして、三拍子のリズムと悲鳴が溢れる。粉々にひびの入ったガラスへ、飛び散った血飛沫へ上書きするようにして拳を叩きつけた理由は、自分でも分からない。怒りにしても思慮が足りなさすぎる。おかげで指がぬめり、弾は後部座席への5発しか撃ち込めなかったし、泡を食ってアクセルを踏み込んだ連中を追いかけることもできなかった。
2人しか殺せなかったと聞いたのは、これまた幹部会議で自首を勧められた時の話だ。あの時はひたすら後悔していた。サンドストーンの大奮闘により、クラックの売買がコカインの所持になり、故殺ではなく過剰防衛が適用されたうえ、武装強盗が証拠不十分で収まったとしても、なお。
まだ2人残っている。その事実が気を奮い立たせた。例え何度ぶちこまれても、刑務所が楽に生きられる場所と思える日は来ない。いつでも気を張り、心を折らない為には、思い詰めるものが必要だった。
そして今や、目標は達せられたのだ。彼は生き延びた。
だからこそトランクの中、汗だくになって息をこらし、こそこそ隙を窺う権利が与えられている。
シャツが肌に張り付き不快だった。固い靴底が壁を蹴り、今にも外へ突き出そうになる。ここは刑務所よりも余程酷い場所だ――そう思い至って、吹き出してしまいそうになる。しかし、笑うこともまともに出来なかった。仰向けの姿勢だと、押し潰す形になる腰の拳銃が、ごつごつとぶつかるのだ。
やがて車が停止している時間が、一際長く続く。ということは、辿り着いたのだろう。時間の感覚は曖昧だった。走っている時よりもたちの悪い停滞。いつ止まるか分からないアイドリングのせいで、胃の中のジャンクフードが強制的に攪拌される。
やがて、声が聞こえてくる。奴だ、と確信を持てなかったのは、遮蔽物のせいではない。5年で、声を忘れた。初めて耳にして3日しか経っていない、あの長閑なヤゴの声は、はっきり認識できると言うのに。
お喋りは長く続かない。客は後部座席へ乗り込んだようだ。沈んだ車体と、乱暴に叩き閉める扉が教えてくれる。
車が走り出してしばらくの間、フランクは取り付いた閃きについて吟味を続けていた。奴は目と鼻の先にいる。銃を抜いて、撃つことは容易い。一度で殺れずとも問題はなかった。以前あいつは、アクセルを踏みしめ大急ぎで逃げ出したが、今ハンドルを握っているのは奴ではない。
目的地へ着くまで、よくて20分。お膳立てされるまま片を付け、そして次は? 新たなケル・テックが登場する。死体が1つでも2つでも、処分の手間にそれほどの差はない。
塀の中にいる間は、生き延びる為に、復讐を思い描いていた。しかしここは外だ。
???
トランクの中の空気は薄く、灼熱をはらむ。まともに物を考えることなど出来はしない。何もかもが億劫だ。いっそ、殺してくれ。ぼんやりした頭で思う。
滑るように走っていた車が数度跳ね、タイヤがじゃりじゃりと砂を噛む。べたつく掌を腰に伸ばし、銃把を握る。ヤゴが何か話しかけている。それが自らへ投げかけられた言葉のように聞こえ、フランクは一瞬身構えた。
運転席のドアが開く。ほんの肉薄した場所から、こう言ったのが、はっきりと聞こえた。「一体……」
銃声は3発。それでも十分過ぎた。どさっと倒れ込んだものの作る軋みが収まるまで、大した時間は掛からない。後はただ、静寂のみが残る。
「おい、どうした。何があった!」
からからに干上がった喉を貫いた叫びは、裂くような痛みを声帯へ与える割に、低い天井へで頭打ち、間抜けにぼやけて響く。自らのの言葉へ焚きつけられたように、フランクは死に物狂いで真上を蹴り上げ、拳で殴った。同居していた修理用の工具らしきものが、ローライダーよろしく跳ね回る勢いに合わせ、頭へぶつかる。
最終的にケル・テックで鍵をぶち抜いた。転がるように飛び出した体が地面へ叩きつけられても、ヤゴは笑わなかった。笑って欲しいと思っていたのに。
焼けるようなルーフへ縋り着くことで、彼は辛うじて立っていた。砕け散った後部座席の窓ガラスが、足下へ散らばっている。だらりと垂れた腕の延長上、拳銃の銃口が指し示す先で、破片は朝の日差しを受け、赤くキラキラと輝く。
中を覗き込むまでもない。フランクはヤゴを真っ直ぐ見つめていた。ヤゴもフランクを見つめ返した。
彼が顔を歪める前に、つかつかと歩み寄り、両腕を掴む。引き寄せた拍子に、ジーンズのポケットからスマートフォンが滑り落ちて、地面で固い音を立てた。言葉を発しようとしたが、口を開いた瞬間に顎ががくがくと震え、舌を噛みそうになる。
「これで許してくれ」
先に口を開いたのはヤゴだった。絞り出されるようにして発せられた、酷く掠れた声であったとしても。それは間違いなく、フランクが持つ物より固い信念から発せられたものだった。
「これで引き分けだ」
「何てことをしてくれた!」
怒濤の如く押し寄せるこの感情を、憤激の一言で片づけることが出来たならば、どれほど幸福だったろう。額をぶつけるようにしながら、フランクは叫んだ。
「何てことを……あんたはこんなことをするべきじゃなかった!」
玉のように噴き出す汗を、巨大で黄色い太陽は瞬く間に蒸発させる。それなのに、見開かれた眼球へじわりと滲んだ塩辛いものは、頬を次から次へと滑り落ちていくのだ。悲しくはなかった。むしろ爽快さすら感じていた。赤く燃えさかる怒りは無かった。それどころか心は白く無へと染まっていった。
「あんたは何も分かってない。俺は、俺はこんなことを望んじゃいない」
「すまない、すまない……でも」
食い込むほど腕を握りしめる手指へ力が込められても、ヤゴはふりほどかなかった。瑪瑙の瞳が、今にも泣き出しそうに、笑い出しそうに崩れる。
「でも、ああ……俺は君になりたかった。君みたいに強くなりたかった。君になって、全部受け入れたかったんだ」
「違う、俺はそんな」
「理解しなくてもいい。でも君は、俺を受け入れてくれた」
そっと押し当てられた頬は、涙を分け与えて欲しいと乞うかの如く擦り寄せられる。けれどフランクが感じ取れたのは悲しいほど引いた血の気と、乾きだけだった。
「君が好きだった」
ごりっと腹に突きつけられた固い感触へ、今更怯むことなどありはしない。フランクは恋人を抱くように、体を一層自らの元へ引き寄せた。耳へ掛かった息が震えているのを感じる。自らと同じように。それをこの男に伝えたかった。自らは決して強い男ではないのだと。
ヤゴはもう一度「すまない」と謝ったのだと思う。響いた銃声と共に、左膝へ焼け付くような衝撃が走る。
その場へ倒れ込んだフランクを、ヤゴは振り返らなかった。頑なに、決して顔を見せぬまま車へ乗り込む。全身を支配する激痛の中から、辛うじて迸った「待て」へ、聞く耳は持たれない。
「行くな、駄目だ、まだ俺はあんたに……」
言いたいことは山ほどあった。結局撃ちやがって。自分だけ好き放題抜かした挙げ句、逃げるなんて卑怯な真似をしやがって。怯えなくても、あんたは十分強い。苦しみの中でみっともなく足掻くあんたは立派だ。哀しみの底から救われたいと差し出すさもしい手を、握り返してやりたかった。もしも許されるならば、今すぐ躊躇無く掴んでやる。
千々に乱れる胸の内へ突き動かされるまま、フランクは泣いた。辺りはばかることなく嗚咽を漏らした。何を遠慮することがあるだろう。今や独りだ。痛みにこれほど強く打ちのめされたことは、今まで一度としてなかった。
走り去る後ろ姿は瞬く間に遠ざかり、砂埃すらも消えかけた時、間抜けな着信音が干からびた空気へ響き渡る。引ったくったスマートフォンの液晶はひびだらけで、頬へちくちくと突き刺さった。
「生きてるんですか!」
聞こえてきた声に、サンドストーンは開口一番そう言ってのけた。すぐさま、自らの失言に気付いたのだろう。切れた息を整え、戦慄をねじ伏せてから、恐る恐る問いかける。
「となると、イリバルネ氏が」
「奴は立ち去った。ダンの死体を車へ乗せたまま……行き先に、心当たりはないか」
「ええっと、恐らく警察でしょうね。そういう取り決めですから」
結局は誰も彼もが、操られて生きている。強く自由な人間などいはしない。本来そうあることができた、あるべきだった男は、自ら権利を放り出したと来る。鼻を啜りながら、フランクは鋭い息の音を叩きつけた。
「あんた弁護士だろう。あいつをどうにかしてやってくれ、金ならある」
「大丈夫です、カマルゴ氏から依頼を受けています」
ほっと気が抜けた途端、苦痛の波は耐え難い閾まで跳ね上がる。荒げられる息へ今更気付いたのだろう。「具合が悪いんですか」と問いかける声は、一応本気で心配してくれているらしい。白い砂に額を擦り付け、フランクは呻いた。
「大したことない、奴に膝を撃たれた、命に別状はない」
「何てこと……救急車を呼びます、そこでじっとしてて」
「あいつは何年くらい食らい込む」
「イリバルネ氏ですか。さあ……知っている限り初犯ですし、自ら出頭させて取り引きするので、第2級にまでは落とせるんじゃないですかね」
模範囚で仮釈放10年以内と言ったところ、なんて斟酌のない物言いは、この場でいっそ救いだった。
10年。自らが食らい込んだ年の2倍。あの男ならば耐え抜くだろう。なにせとても強い男だ。
少なくとも、それだけは伝えなければ。いや、恐らく他にも幾つか、口にすべき言葉はあるのだが、激痛は今や全てを飲み込もうとしている。追々考えればいい。何せ10年は長い。性急にならず、目的意識を持って行動することが重要だ――たった今、一つのとてつもなく大きな、生きる目的が出来たのだから。
その事実に気付いたからこそ、きいきいと加速していく弁護士のまくし立てに眉を顰めながら、フランクは安心して意識を手放した。
終
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