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第1話

 高いヒールでフロアを歩くと、兎耳のヘッドバンドが頭上で揺れる。  フロアに目を配りながら歩いていると、視線が自分をかすめるのがわかる。パーティの客は年配の男女ばかりだ。|香西遠夜《こうざいとおや》は粘っこく絡みつくような視線をさりげなくかわした。  目論見では黒服のウェイターに化けて潜入するはずだった。しかしこの別荘の主人の趣味は一般人とはちがった。大富豪の趣味としてはそこまで珍しくないのかもしれない。遠夜はハンカチ以下の布しか身につけていないコンパニオンがはべるパーティに潜入したこともある。もっともその時も、遠夜自身は黒服だった。  いま遠夜が着ているユニフォームも一応黒服といえなくもない。素材が体に吸いつくような薄いもので、腰のあやうい位置にスリットが入っていることをのぞけば。尻の真ん中に突き出しているのは白いポンポンの尻尾、バニーガールならぬバニーボーイだ。  あいにく履物は足に吸いつくほど質のいいものではない。|踝《くるぶし》のあたりが締めつけられて、すこし痛い。  脂ぎった肌の男性客がすれちがいざまに尻尾をつかみ「おっと、可愛い尾だ」とささやく。遠夜はヒールのバランスを保ちながら愛想笑いを返すが、今日の狙いはこの客ではなく、中央に君臨するパーティの主催者だ。亜熱帯のリゾートで兎をはべらせるという退廃的なポーズと裏腹に、別荘の主人は環境保護活動に巨額の資金を拠出していることで知られている。が、いつか環境を救うかもしれないイノベーションへの投資も惜しまないという側面もあった。  彼が声高に持論を語る声がはっきり聞こえるところまで、遠夜はさりげなく位置を移していく。遠夜とおなじく兎耳をつけたバニーボーイの同僚は、新顔はかならず目をつけられるぞ、と警告した。もちろん彼は遠夜がGETOの調査員だとは知る由もない。遠夜がバニーボーイになったのは、彼にためだ。 「原子力や地熱、水力発電は、単にクリーンというだけではない、よりすぐれたエネルギーだ。私は節水シャワーなんて嫌いだよ。消費主義と個人主義をやり玉に、他人を罰することに入れあげている連中はイノベーションをズルだと思っている。たしかに再分配にも意味はあるが、もっとうまい方法だってあるはずだ。そうじゃないか? 誰もがもっと水やエネルギーを使えるようになりつつ、環境をよりよくすることが重要だ」  あれもこれも、というわけだ。  長広舌をたれる初老の男の視界に遠夜はおさまり、話の内容に、あるいは男自身に興味を惹かれたように相手をみつめる。ご高説はもっともかもしれないが、この男にはさらに別の顔もある。夕暮れの光に照らされた美しい砂浜と海には似つかわしくない、暗い犯罪の方を向いた顔だ。  ハッキングを避けるためネットから切り離された別荘のコンピュータにはその秘密が眠っている。|地球環境技術機構《GETO》は犯罪を摘発する組織ではないが、下部機構の〈スコレー(Scholē)〉――表向きには調査部門となっているが、監視や隠蔽工作も担当する遠夜の勤務先――は、彼の秘密を監視下に置くべきだと判断した。  猫の首に鈴をつけるというわけだが、今回は多数の人員を使った大掛かりな作戦ではない。同じような任務なら遠夜もその相棒も何度もこなしている。  スパイ活動の基本は監視と隠蔽工作だが〈スコレー〉は諜報機関ではない。地球環境技術機構――Grobal Environment and Technology Organization――は自らの内部組織がそんな活動をしていると認めたことは一度もない。〈スコレー〉の任務は情報収集と環境教育活動に分類される。たとえそこに企業や政府に対する各種の工作活動や対テロ対策が含まれるとしても、である。 『調子はどうだ?』  耳の中に隠れたインカムから相棒の声が響いたとき、遠夜と男の目があった。 「まかせろ」遠夜はささやき、遠夜は捕食獣めいた男の眸と確実に視線をあわせる。ハッとしたようにそらす。うしろめたいような、かすかに怯えたような色を浮かべながらも、誘うような笑みを浮かべる。男が手招きする。 「新顔だな。ここは初めてかね?」  遠夜はうなずき、飲み物をリクエストする男に応えた。盆にグラスをのせてそばへ寄ると男は一瞬意外そうな表情になるが、今度は唇の端に捕食者の笑みを浮かべる。パーティがはじまってけっこうな時間が経過している。男の長広舌は飽きてきた証拠だ。グラスを受け取りながら、もう一方の手が遠夜の腕に触れ、背中に回る。手は尻をするりと撫でて、素早く離れる。 「もういい時間だな。すこし休むよ。きみ、手伝ってくれ」  男の声に遠夜は当惑した表情をつくり、他のバニーボーイたちの視線をはばかるように目をふせる。怯えた小動物のように丸めた肩に男の手が触れ、ぐいっと掴む――思ったよりも強い力だった。男に従って廊下に出る。狙い通りの部屋へ向かっているとわかり、遠夜は安堵した。  バタン、とドアが閉まる。広い続き部屋の片側には巨大なベッド、反対側には壁一面を覆うキャビネットがある。部屋にはパーティがはじまる前と今とで些細な違いがあるのだが、男は気づかない。相棒はうまくやったらしい。遠夜の思いをよそに、男はユニフォームの薄い生地に手をすべらせる。 「どこの出身だ? 本島かね?」 「いいえ」 「だろうな。それならとうに私を知っているはずだ」  男の笑みが深くなったが、それはなぜか冷酷さを感じさせるもので、次の動作は唐突だった。いきなりベッドへ突き飛ばされて、ヒールを履いた足元が崩れる。まともな靴ならもっとましだったはずだが、男の動きが遠夜の予想を大きく外れていたのもたしかだ。股を裂くようにして男は遠夜にのしかかる。口に何か押し込まれ、ビリッと布が裂ける音が耳に入ったときには、遠夜はとっくに演技をやめていた。本能的に抵抗しようと動いたとたん、口に押し込まれたものを飲みこんでしまう。しまったと思った時はもう遅い。 「ガーデニングにはウッドチップがつきものだろう?」  男は体重をかけて遠夜をおさえこみながら、慣れた手つきで靴を引き抜いた。男は遠夜の踵をつかみ、なぞりながら、ほとんど優しく聞こえる口調でささやく。 「ある種のキノコはウッドチップが好物だ。きみが今飲みこんだものだよ。キノコの成分には驚くべきものがある。怖がらなくていい。すぐに気持ちがよくなる」  マジックマッシュルーム――シビレタケの一種? それとも……脳裏をすばやく横切った思考に、しかし体はついていかない。上に乗った男の手が自分の下着をずり下げていくのに、遠夜の両足はだらしなく従うだけだ。ちくしょう、と頭の中で怒声がとびかう。なんてざまだ、逆になるはずだったのに――男のズボンを下げて気をそらすのは、遠夜の方だったはずだ。  力がうまく入らないまま、遠夜はシーツに顔をつけている。尻が空気にさらされて、男のベルトがカチャカチャ鳴る。屈辱的な姿勢なのに、下半身が火照り、同時に奇妙な期待と幸福感がつのってくる。キノコの仕業だと理性がささやくが、そんなことはどうでもいいという気分が急速に高まる。背中に他人の肌を感じ、太腿を撫であげられるると、そのまま身をまかせたくなって―― 「うっ……」  首のうしろで唸る声が響いた。遠夜はシーツから顔をあげる。背中に覆いかぶさっていた男の体がすぐ隣に転がっている。自分の背中にぱさりと布が落ちた。 「香西。大丈夫か」 「ああ――」  のろのろと起き上がると、|相棒《バディ》の|大神伶史《おおがみさとし》は注射器をケースに押し込み、男を抱えおこしている。 「あんたの指紋と顔を借りる」  大神はコンピュータの侵入に必要な生体情報をコピーし、部屋の反対側のキャビネットへ向かう。男の秘密はすべてそこにおさまっているのだ。  相棒が監視のための工作をしているあいだに、遠夜は引き裂かれた服をどうにか身に着け、ハイヒールを両手に下げて立ち上がった。ふらついているのに気分が悪くないのは口に突っ込まれたキノコのせいだろう。むしろ浮かれて騒ぎたいくらいだった。  大神に鎮静剤を打たれた男はベッドの上で完全に意識を失っている。遠夜は男の服をはぎとり、ベッドの上ではじまったはずの乱痴気騒ぎを演出しはじめた。大神が間に合わなかったら、自分がやらかしていたかもしれないことだ。 「終わったぞ――香西、何してる」  いきなり腕をひっぱられて我に返った。 「偽装さ。あと十秒、いや三秒か。おまえが遅かったら俺はここでくんずほぐれつやってたところさ」  ほとんど上機嫌で応えたのだが、大神は眉をひそめている。 「遅れてすまん。おまえのことだから、鎮静剤を打つタイミングを作っているとばかり――」  大神の声が低くなった。この声は悪くない、と遠夜は思う。自分が体を張って囮になったのはこれが初めてでもなく、大神は遠夜が任務に過剰にのめりこむのを許容してくれる。 「待て、香西――何か仕込まれたのか?」  相棒の大真面目な顔をみると、遠夜はにやにや笑うのをとめられなくなった。 「キノコだよ。オガクズ生まれのキノコを食わされた」 「なんだって! おい、早く吐け。洗浄しないと――」 「大丈夫だ。時間はないし、そんなことをしたら痕跡が残りすぎる。大丈夫だ、多少ラリってるだけ……脱出するぞ」 「香西、待てよ!」  焦った大神の声が、今の遠夜にはひどく気持ちよく感じる。あの時も悪くなかった、と遠夜は思い出す。相棒と肌をあわせたときだ。といっても一度しかない。半年ほど前のことだ。冬だった。今は初夏――もっとも亜熱帯のこの島では季節にそんな名前はついていない。  キノコで興奮していても任務の手順は忘れていなかった。脱出口へ向かおうとしたとき、大神が「こいつを着ろ」と布を渡してくる。膝まで覆うガウンのようなシャツはパーティ客の誰かも身に着けていた。ただしこっちは偽オートクチュールだ。 「バニーで外を歩けないだろうが」 「ああ、そうだったな」 「これも履け」  差し出されたビーチサンダルをひっかけ、遠夜はまた笑いたくなる。大神が焦ったように顔をそらすのが面白くてたまらない。これもキノコのせいだろうか。いつもの俺はこんなに愉快な性格だったか、と遠夜は思う。

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