2 / 4

第2話

 大神は、報告は自分がするといった。遠夜がまだキノコでラリっていると見越してのことだろう。  そんなこと気にしなくていいのに、そう思ってしまうのは、実際キノコのせいかもしれない。組織が用意した安全なホテルに戻った時も遠夜の浮かれた気分は続いている。それが一瞬にして醒めたのは――少なくともそう感じたのは、ロビーに大柄な人影をみたときだった。 「クリス」  クリストファー・E・スタイン。〈スコレー〉では遠夜や大神より数段階上の立場にいる男。 「どうしてここに――いるんですか。今は五月だ」  相手は面白い話でも聞いたかのように薄い唇に笑みを浮かべた。 「五月がなんだ?」 「休暇中だと思っていました。あなたはいつも……五月はいなくなる」 「ああ、バカンスついでだ。様子を見に来た。きみがここにいるということは、鈴はうまくつけられたようだな」 「大神が報告中です」 「どうやってガードを解いた?」  クリストファーの手がシャツに伸びる。今日のあの男を思い出させるような動作で、遠夜は思わず体を引いた。クリストファーの唇がふっとゆるむ。 「ふむ。使える武器はすべて使ったらしい」 「あんたに教えられたとおりですよ」  むかっとしてそう返したのは、目の前の男との十年以上の因縁があってこそだ。特にいま、五月にクリストファーとは会いたくなかった。どうして今の自分があるのか、それを思い知らされてしまうからだ。 「香西、終わったぞ。調子はどう――っと、失礼しました。ミスター・スタイン」  大神の声が背中側から近づいてきて、遠夜の横で止まった。 「私は休暇中だよ。クリスと呼んでくれ、大神君。遠夜はずっとそう呼んでる。私は昔、彼の|教官《メンター》だったのでね」 「そうなんですか?」  遠夜は薄笑いを浮かべるクリスから顔をそむけた。 「クリス、よい休暇を。俺は失礼します」  さっときびすを返し、ロビーを毅然と歩き去る――つもりだった。しかし角を曲がる寸前、遠夜はやはりふりむいてしまった。クリスは大柄な体をかがめるようにして大神に話しかけている。いったい何の用があるというのか。大神は俺のバディだ。  自分でも意識しないうちにシャツのポケットに手が伸びる。硬い感触の正体はわかっていた。カードキーだ。さっきクリスが手を伸ばしたとき、遠夜の胸元に差し込まれたものだ。カードキーはこのホテルのものではなかった。もう一段格式の高い、隣接するリゾートホテルのものだ。  忌々しく思いながらキーをポケットに戻し、部屋に帰った。クリストファーと話していたあいだにキノコの効果は薄れたのだろうか。体にいつもの感覚が戻ったと思ったとたん、足元が痒くて仕方なくなった。 「どうした?」  ソファにすわり、膝を抱えるようにして右足の踝をさすっていると、上から大神の声が響いた。 「痒い」 「虫に刺された?」 「気づかなかった――」遠夜はそういったものの、手を離すとかかとから踝にかけて、うっすらと桃色に染まっていた。 「腫れやすいたちなのか?」大神がソファの横に膝をつき、のぞきこむ。 「冷やせ。いや、薬を塗れよ」  どういうわけかそのとたん、クリストファーが大神に話しかけていた光景が遠夜の頭を占領する。 「大神。さっきクリスは何をいった? 何を話した?」  問いかけは衝動的なもので、だからこそ止められなかった。大神の肩が一瞬こわばったのは、遠夜の勢いのせいか、それとも他の理由があったのか。 「たいした話じゃない。社交辞令みたいなものだろう……」 「それだけか? なぜ今日、ここに来たかとか、そんな話は?」 「いや? どうしてそんなことを俺に話す?」  大神は不思議そうに遠夜をみる。 「香西、大丈夫か? さっきのキノコは――」 「大丈夫だ」  もちろん大神は知らない。知るはずもない。遠夜はシャツのポケットを意識する。どうしてクリスは今日、ここにいる?  窓の外はもう暗かった。誘いに乗るべきだろうか。  五月。昔、この日に友人が消え、遠夜はクリストファーと否応なくかかわることになり――そしていまだに、あのときの真実を知らない。すべてはあの男の胸のうちにある。  だがひょっとしたら、今日こそ答えを得られるのでは。  すべては空手形かもしれない。そう思っていても、ポケットのカードキーは遠夜に希望を与えてしまう。

ともだちにシェアしよう!