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第3話
真っ暗の部屋を間接照明が柔らかく満たす。
「明かりくらいつけたらどうだ」
クリストファーがいった。遠夜は膝を抱えてソファにうずくまっていた。自分と大神に用意されたツインルームの三倍は広い部屋ではソファも特大だ。
「あんたも同じことをしたでしょう」と、顔もあげずに答えた。
どうしてこの男の前にいると自分は不貞腐れた十代の少年のようにふるまってしまうのか。最初の出会いから十数年たつのに、クリストファーと向きあった瞬間、遠夜は自分が対等に交渉できる大人ではなく、途方に暮れた子供の気分に陥る。この男にそう躾けられてしまったせいだ――とは絶対に思いたくない。
「クリス。俺を呼んだ用件はなんです?」
「いつもそれを聞くな」
「あんたは意味のない行動はしない。おまけに休暇中なんでしょう?」
しかもよりによって、今日という日に。最後に付け加えそうになった言葉を遠夜は飲みこむ。クリストファーは底知れない笑みをうかべた。
「今日のターゲットには長年手を焼いていた。実はきみたちが知らされていたより厄介な相手で、きみたちが思っていたより複雑な案件なのだ。だからきみのバディに感謝を伝えておきたかったのさ」
「それで大神に?」
「気になるか」
大柄な男は遠夜の横に腰をおろし、柔らかいソファの表面がしなるように揺れた。遠夜は膝を抱えたままクリストファーと向きあった。
薄い色の眸に心の底まで見透かされているような気がするが、そらしたら負けだとも思う。十代のころ、最初に出会った時もそう思ったのだ。自分はそうすべきでなかったのかもしれない。この男から目をそらし、うつむいて、兎のように逃げ去るべきだったのだ。そうすれば|星《セイ》も消えてしまわなかった……?
そうとはかぎらない。クリストファーがあらわれようがあらわれまいが、あのとき自分と|前崎星《まえざきせい》は袋小路にいたにちがいない。そしてクリストファーからあの時も今も逃げようとしない自分は、本当は何を望んでいるのか。
俺はこの男を求めているわけじゃない。
「大神はきみを甘やかしているようだな」
クリストファーはからかうような口調でいった。
「俺の相方の査定なら職務中にやってください。あんたは休暇中だ」
「職務中か。きみがここにいるのを彼は知っているのか?」
遠夜は無表情を保った。
「ずいぶん大神のことを気にしますね」
「なんといっても愛弟子のバディだ」
愛弟子? 遠夜は顔をしかめた。
「俺の相方が長持ちしているのが気に入りませんか。前の二人とちがって」
「まさか、安心しているとも。そもそもあれはきみではなく彼らに問題があった。適切な人員配置ができなかったこちらの問題だ」
だから気にかけているとでもいいたいのか。遠夜は反射的に同僚のだった男ふたりの顔を思い出そうとしたが、顔の輪郭と髪型しか浮かばなかった。他人の顔を記憶するのが商売だというのに、まだキノコの作用が残っているのか。
「彼には教官時代の思い出話をしただけだ」
「必要ないでしょう」
「そうともかぎらない。手段を選べないターゲットに対するとき、バディがどう感じているかには注意したまえ」
遠夜はため息をついた。
「ターゲットの嗜好を調べた上で大神と決めた方法ですよ。あんたが俺に教えたことでしょう」
「実は一度失敗しているのだよ。きみと同じ、誘惑に長けた所員がね……バディで当たらせるよう提案したのは私だ」
「なるほど。あんたは本来、俺など話もできない雲の上の存在ですからね」
「拗ねるな」
「まさか。俺がここにいるのは……どうして今日なのかということです」
クリストファーはわざとらしくみえるくらい、ゆったりとうなずいた。
「ああ、五月だったな」
遠夜は息を吸った。ひと息でいった。
「もう十年以上たつ。それなのにまだ教えられないんですか」
伸びてきたクリストファーの手を遠夜は払ったが、大柄な男はものともしなかった。
自分より大きな相手との戦い方を教えたのもクリストファーで、戦えないときの逃げ方を教えたのもクリストファーだ。つまりこの男は遠夜の出方を熟知している。まったく、たちが悪い。
もっとたちが悪いのは、クリストファーが自分の魅力を正確に把握していることだ。
〈スコレー〉に所属して、任務に必要な駆け引きには熟達したはずなのに、クリストファーを前にすると自信が崩れそうになる。すぐそばに座っていると、この男の魅力に屈しそうになる。
「遠夜に光る松の葉に、懺悔の涙したたりて、遠夜の空にしも白ろき……この詩はきみの名前に関係あるのかね?」
唐突にも感じられる問いに、遠夜は動揺をみせまいとしてそっけなく答える。
「知りません。あんたも知っての通り、俺の親はろくでなしで教養もありませんでしたからね。縁起でもない命名だなんて思わなかったんじゃないですか」
「萩原朔太郎は嫌いか」
「陰気な詩人でしょう。その詩は|星《セイ》が教えてくれたんです。あいつは中学生のときからいろんなことを知ってた。俺よりずっと……ましな人間だったから」
目をそらしてしまったのは失敗だった。いったんうつむいてしまえば、相手の顔をみられなくなる。クリストファーの淡々とした声しか聞こえなくなる。
「きみがそう思うのなら、どこかでましな暮らしをしているだろう」
「それが答えですか」
「私に話せることはない。そう前もいったはずだ」
「だったら、どうして――!」
思わず遠夜は拳をにぎりしめ、顔をあげた。
「どうして俺を呼ぶんだ。俺が何を求めているか知っているくせに。あんたが俺を……こんなふうにしたのに」
「こんなふうに?」クリストファーの眸に思いがけなく優しい色がうかぶ。
「きみが綺麗なのは私のせいじゃない。私がたまにきみに会いにくるのは、会いたいからだ。愛弟子だといっただろう?」
「信じませんよ」
クリストファーの手のひらが遠夜の膝頭をつかんだ。コットンのスラックスの表面を滑るように降りていく。かかとをもちあげられる。クリストファーの手を振り払おうとしない自分自身を遠夜は嗤いたくなる。
「腫れているな」
桃色に腫れた右足の踝をクリストファーの指がなぞった。欲情で下半身が熱くなる。いつもこうなるのだ。いつも――求めているものを得られないまま、肉体の悦びに溺れてしまう自分がいる。
と、そのときなぜか大神の顔が脳裏に浮かんだ。ハッとして遠夜は膝をのばし、蹴り飛ばすようにしてクリストファーをしりぞけた。薄い色の眸が遠夜を凝視し、驚いているのがわかった。
「帰ります。もう用は済んだ」
欲情した体をなだめる暇もなく、なんとか威厳を保ちながら部屋の外へ向かおうとする。扉をあけたとき、クリストファーの声がきこえた。
「きみは天性の誘惑者だ。その自覚は持っておきたまえ」
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