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 腫れてるみたいに違和感のある唇を、烈己はずっと無意識に指でいじっていた。  その仕草にいい加減イライラしていた江は、烈己の手を突然掴んで自分側へと引く。 「びっくりしたっ、なに?」 「なにじゃないっ、俺といるのに誰のこと考えてんの?」 「はぁー? 今は何食べるか選んでるだけじゃん。江がなんか取ろうって言ったくせに」  江は忠犬彼氏を家に一人残して烈己の自宅にやって来ていた。小腹が空いたと言い出したのも江だった。 「……だって、わかんないけどなんか烈己が遠い……」 「ええ? 言ってる意味がわかんないんだけど……、俺別にいつもと同じだよ? いや、完全に同じかと言われれるとちょっと自信はない……けど、江の親友である俺はいつもと同じだから」 「えっちしたんだ……」  なぜか悲しげにポソリと告げる親友に度肝を抜かされながら烈己は必死にかぶりを振った。 「うそ……」 「嘘ついてどーすんだっ! ってか赤裸々に真実を報告させようとするのヤメロッ!」  あっという間に烈己の全身は真っ赤に染まっていて、相変わらず素直な反応に江はかえって安堵した。 「じゃあ、いつするの? 次のデート?」 「いい加減にしろっ!」  ボコリと軽く頭をぶたれて、江の小さな頭が傾いた。殴られた場所を弱々しく撫でながら、江はいつまでも女々しい視線を烈己に送ってくる。 「する……かどうかとか、いつ……とか、そんなのはわかんない。大澄さんはすごく俺に気を遣ってくれてるから、ひょっとしたら結婚するまでしないかもしれないし……」 「え〜〜?」  江のとうに穢れた心が口元をいやらしく歪ませる。 「おい、真面目に聞けよソコ」 「すいましぇーーん」 「とにかく! わかんないもんはわかんないの! この話はもうおしまい!」  形の良い唇をツンと尖らせて、江は仕方なく大人しくなった。そして何か思うところがあったのか、ふっと顔から感情の色を無くした。 「江……?」 「──そのαと結婚するんだ、やっぱ」 「え? いや、わかんないけど……俺たち一応お見合いで会ったんだし……やぱ、前提にはなるよ、ね? 大澄さんもそういうのを前提にした感じで話すし、さ。俺が家族欲しいのも知ってるし」 「そうだよね、烈己は家族を作りたいんだもんね。結婚ありきだよな」 「なに、今更。……反対なの?」 「ううん、全然。烈己には早く幸せになって欲しいって思ってるよ。多分俺が心配しすぎなんだと思う……烈己がお母さん亡くした時の姿見てきたから……勝手に身内ぶっちゃうっていうか……」 「そんな言い方すんなよ、嬉しいよ。江が身内だなんて、俺兄弟もいないし、江が兄貴でも弟でも、俺はすげぇ嬉しいよ?」 「お父さんでも?」 「ふっ、そう、お父さんでも嬉しいよ。江がいてくれて助かったこといっぱいあるもん。本当に感謝してる。だから江のことも早く祝わせて」 「何それ、また赤ちゃんの話?」  白けた目をした江がふいと烈己から顔を背けた。 「違う。秀の言ってた、それ以前の問題」 「いいの、俺たちはこれで」 「そうかなぁ?」 「何よっ、ちょっと彼氏できたからってもう説教ですの? お偉くなられましたのねっ、烈己さんてばっ」 「どういうキャラなの、それ」  ケラケラといつもと変わらない声で烈己は笑った。それだけで江は不思議と胸の溜飲が下がるのを感じた。 ──高校時代もよくこうして二人は夜を明かした。  母親を亡くして一人、家で過ごす烈己を放っておけずに、江が部屋に訪れては夜中までとめどなく話し続けた。学校でのくだらない笑い話から社会に出たら何の仕事がしたいか、将来はどうなりたいか、番が出来たらどうなるのか、子供を産むとしたら──  お互い同い年で同じΩである二人は、いつまでも話に尽きることがなかった。  ハタチの誕生日を迎えた時、烈己は早速見合いを決めた。二十歳以上であることが、行政の見合いに参加するためのΩの最低条件だったからだ。  その時から江は、親友がすぐにそばからいなくなるのを覚悟した。  周りからしたら大袈裟に思えるかもしれないが、それくらい二人は濃密な親友生活を何年も過ごしてきたのだ。 「俺は死ぬまで俺だし、変わらずに江の親友でいるつもりだから。覚悟しろよ?」  ニンマリと烈己は大きく笑って江の両の頬を軽く摘んだ。 「うん、俺もそのつもり。遠くに住んだらキレるからね」 「えー、住むところは好きに選ばせろよ〜」 「ダメ。近くないと烈己が旦那と喧嘩した時に駆け込む場所がなくなるでしょ」 「ははっ、なるほど。それは大事かも」 「でしょ〜? うちには腕の良いシェフもおりますので〜」 「確かに、それは捨てがたい」 「あっ、シェフの話したらお腹空いてたの思い出した! 甘いもの食べたいっ」 「もうー、そこはフツー家に残してきた恋人を恋しく思うんじゃないんかよ」  肩をガクリと落とした烈己は、家で淋しく待っているであろう忠犬彼氏を憐れみながら大きくため息を漏らした。  ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎  親友がプレッシャーをかけたせいで、待ち合わせ場所で立つ烈己の表情は険しく凝り固まっていた。その眉間にできた深い皺たちは、幼い顔立ちにはかなり不釣り合りだった。  目を閉じて深く考え込んでいたせいで、すでに目の前へ待ち人が来ているといるのに、本人は全く気付く様子がなく、固く閉じた口元からやや漏れ聞こえる唸り声にとうとう待ち人が吹き出してしまった。 「わっ、大澄さんっ!」  笑い声に驚いて烈己は目を一気に見開いた。同じように口も大きく開いたせいで大澄は腹を抱えて本格的に笑い始めた。 「あっはっは! 相変わらずよく動く顔してんなっ……ははっ、か、顔っ……」 「ちょっと! そんな笑うことないだろっ!」  前屈みになって笑う大澄の肘を掴んで、烈己は通り過ぎる周りの人たちの視線におかしな冷や汗をかきながら、すみやかに大澄を大人しくさせようと奮闘する。 「早くっ、ホラ! 行くよっ」  ひいひいと泣いて笑う、腰が曲がった男を無理矢理引っ張って烈己はなんとか人の多い駅前を脱した。 「っとに、一回笑うと延々と笑ってんだから。笑いの沸点低すぎでしょ」  完全に臍を曲げた烈己が口を尖らせてはブツブツと文句を漏らす。 「ヒヒッ……だって、烈己の顔、かおっ……ブッ……」 「顔顔言うな! 傷付くわ!」 「ごめんっ……だってさ、作りが良い分インパクトがすごい強いんだよ」 「ハイハイ、褒めてくれてありがとう!」 「ふふ、本当に褒めてるんだけどな」 「うるさい、もう黙んなさいっ」 「烈己が黙らせてくれないの?」  ヘラヘラと笑う口元をいきなり烈己の耳元まで寄せて大澄は囁いた。  息のかかった耳を慌てて抑えて、烈己は怯えたウサギのように瞳を震わせて大澄を見上げる。 「そんな怖がんないでよ、傷付くわ」  大澄は本気でショックだったようで、口では冗談ぽく言うものの、下がった眉が悲しげで烈己は心臓がチクリと痛んだ。 「ごめんなさい、びっくりしただけ……。俺あの、あんまり恋愛経験……とか、なくて……」  心細そうな指が大澄の袖口をちょこんと掴んで、耳たぶを赤くした烈己が顔を隠すようにして俯いた。  一瞬おかしな間があいて、恐る恐る烈己は顔を上げる。  なぜか目が合った大澄は完全に無表情で、瞬き一つしなかった。 「大澄……さん?」  不安になった烈己が首を傾げると同時に、大澄はまだまだ人通りのある歩道で構うことなく烈己を突然抱きしめた。 「っ……大澄さっ……ちょっ」  烈己は腕の中で大パニックを起こしていたが、大澄は全く気に留めることなく小さな頭に後ろから手を添え包み込む。 「危うく大声で叫ぶところだったわ。なんなんだ、お前はっ」 「へっ? なに? 意味わかんない、なになにっ?」 「烈己といると寿命が縮まる〜、こりゃマジやばい〜」 「……そんなの困るっ! やだっ、いやだ!!」  悲壮な声と共に烈己の手が大澄の背中に回され、必死にしがみついてきた。思った以上に強い力で引かれ、大澄の足元が少しだけふらつく。 「烈己……?」 「やだ……」  ガタガタと烈己の細い声と肩が、大澄の腕の中で震えていた。 「……ごめん……、嘘。冗談だから、ごめん」 「冗談でも言うな……ヤダ……」 「うん……もう二度と言わない。ごめんな」  何度やさしく頭や背中を撫でても、烈己の震えはなかなか止まることはなかった。大澄の知らない烈己が持つ、深く大きな傷に触れてしまったことを悟り重く後悔する。 「……烈己、キスしていい?」 「やだ」 「したい」 「だめ」 「したい」 「…………ここじゃだめ」 「了解」  少しだけ声に温度が戻って、大澄は安堵のため息と共に小さな頭へ頬を寄せた。  烈己は大澄にやさしく抱きしめられながら、親友から受けた戒めの言葉を思い出していた──  αは野蛮な狼、簡単に噛ませるな、相手を見極めろ──あとは、なんだっけ……?  繰り返される熱いキスのたび、烈己の思考は次第にぼやけては動きを止める。 「大澄さん……は、良い狼……?」  幼い子供みたいにふわふわとした声と瞳で烈己は大澄を伺い、自分一人で支えきれなくなった体を大澄へと完全に預けきっていた。  困ったように眉を下げた大澄が、牙をしまった口元でどうにか弧を描く。  せっかく駅前で待ち合わせをした二人だったが、はやく二人きりになりたくて、タクシーを拾い大澄の住むマンションへと逃げ込んだ。  何も知らない純真無垢な烈己を突然部屋へ連れ込むような下衆の真似事だけはしたくないと思っていたのに、大澄は己の意志の弱さにほとほと呆れ、最早怒りすら湧いた。 「こんなとこで何やってんだろね……歩ける?」  玄関口で靴も脱がずに、理性を無くした学生同士のようなそれに大澄は小さく嘲笑を漏らすと、烈己の体をゆっくり解放した。  ヨロヨロと足元がおぼつかなかった烈己も、少しずつ真っ直ぐ自分の足で廊下を進み、大澄が促したリビングのソファへと腰掛ける。 「お腹空いたろ? すぐに何か作るよ、嫌いなものない?」離れがたそうに、大澄は後ろから烈己の髪へキスを落とし、やさしく肩を撫でた。 「いいの?」 「いいよ、もちろん。俺が烈己をさらったんだし」 「さらったとか、言うな」  小さな反抗と共に、すぐ赤くなる頬が隠れるように俯いた。  フライパンの上でチキンが焼ける耳触りの良い音を背中越しで聞きながら、烈己はぼんやりと部屋を見渡した。  烈己の思い描いていた相手の印象通り、部屋は綺麗に片付けられていて、無駄な物が何一つなかった。  少しだけイメージと違ったのは、家具のほとんどがウッド調で統一されていることだった。 「なんか……もっと白黒の部屋に住んでると思ってた……」 「ああ……、黒ってホコリが目立つでしょ。それに無機質なのってあんまり好きじゃないんだよね」 「ふぅん……ちょっと意外」  大澄は会話しながら茹でたジャガイモの皮を剥き、使い慣れた木べらを使って手際よく潰していく。湯気と共にジャガイモの良い香りが立ちこめ、烈己の鼻腔をくすぐった。  リビングでいたはずの烈己は、いつのまにかキッチンカウンターを挟んで立っていて、親の料理でも見つめる子供みたいな真っ直ぐな目で、大澄の手元をじっと眺めていた。いい加減それに耐えきれず、大澄は思わず吹き出した。 「なんで笑うんだよ」 「もう無理、あっち行ってテレビでも見てて。このままだと俺そのうち指切るわ」  むすりと膨らんだ頬をそのままに、烈己はリビングのソファへ大人しく戻り、言われた通りテレビをつけた。 「ソースはケチャップが良い? マスタード?」 「ケチャップ!」 「ふっ、やっぱり?」 「なんだよっ、子供っぽいとかまた言うんだろっ」 「ううん、烈己にはトマトのが似合うな〜って思ってさ」 「どんな言い訳だよ、もう」  それ以上怒るのも馬鹿馬鹿しくて、烈己は再び大澄に背を向けた。  初めて訪れる他人の部屋でこんな風に寛いで夕飯を待つなんて、なんだかものすごく不思議な感覚だった。  意識し始めたせいか、次第に心臓が弾み出してきて、落ち着かない烈己はそばにあったクッションを思わず抱きしめる。  そんなクッションからも大澄と同じ香りがして、烈己は動揺のあまり、危うくクッションを床へ叩きつけそうになった。  謎の気配を感じて大澄が不意に顔を上げると、なぜかクッション相手に一人で戦っている、小動物みたいな烈己の背中が視界に飛び込んできた。  大澄は瞬発的に大声で吹き出しそうになるのを、息を詰めに詰めて、どうにか未遂で終わらせた。 「ご馳走様でしたっ」  烈己は綺麗に空になった皿の上で両手を合わせた。 「お粗末様でした」 「ふふっ、全然お粗末じゃなかった。お腹いっぱい、美味しかった!」  顔の表情筋のすべてを緩めて、烈己はピンク色の頬をして笑った。  その顔をジトリとした視線の大澄が、何か物言いたげに見つめる。 「…………鶏冠井(かいで)烈己(れお)さん」 「へっ? あ、はい……」 「あなたと暮らすと毎日こんな感じなの?」  大澄の言っている意味のほとんどを理解できずに、烈己は首を傾げ、頭の上にハテナマークを飛ばしている。 「こんな感じ……とは。……あっ、めっちゃ食う?」 「違くて」 「……え、なに? 食べ方が汚かった?」 「違くて」 「わかんないよ、なに」 「……よく相手の胃袋を掴むとかいうのは聞くけど、烈己の場合は逆だな。料理人の心臓を掴む、だな。脅威の料理人たらしだ」 「なにそれ、そんなの聞いたことな……」  そう言いかけて、つい最近、そんなやり取りをした身近な相手を一人だけ思い出して、烈己は口を半開きにしたまま固まった。 「ほぉ、覚えがあったか」 「へへ……ありました。俺ってば魔性〜」  照れながら精一杯の見栄を張っている烈己の頭を軽く撫でると、大澄はテーブルの上を片付けはじめた。 「あっ、片付けは俺がやるっ、交換こ!」 「……?」 「へ、変? 言わない? じゃあ、半分こ!」  皿を手にしたまま、またも目が半分に閉じかけている大澄にジットリ見られて、烈己は気後れしながら眉を顰めた。 「天然たらしは大人しくテレビでも見てなさいっ!」  なぜか急にキレて却下されてしまい、烈己は大澄の発言に納得いかないままも、大人しくリビングへとトボトボ進んだ。  リビングから盗み見た大澄は、何故かキッチンで一人ぶつくさと首を傾げながらずっと何かに怒っていて、烈己はますます眉根を寄せた。  夜だからと大澄は少し薄めのコーヒーを淹れ、それに口をつけながら、烈己はハァーと、ゆっくりため息を漏らした。 「美味しい。やっぱインスタントとは味が違うんだね〜」  ニコニコと疲れ知らずな微笑み爆弾を絶えず投下してくる烈己に、かなりの致命傷を受けながら、それでも大澄はどうにか残ったライフで強ばった笑顔を作り、応答する。 「大澄さんもしかして疲れてる? 待って、俺これ飲んだらすぐ帰るから」  慌ててマグカップを持ち上げようとする烈己の手を遮って、大澄は地鳴りみたいな低い雄叫びをあげ、烈己の体を後ろから抱きしめた。 「なになに、こわいこわいっ、声が怖いよっ、どっかバグった人みたいになってるよっ」  照れなどではなく、異常事態過ぎる大澄の姿に烈己は真剣に慄いていた。 「怖いのは〜お前だ〜っ、その200%の攻撃力どうにかしてくれ〜、夜の室内では35%くらいにしろ〜」 「なんの話してんのか全然わかんないんですけど……」  自身の肩に大澄が頭をぐりぐりすり寄せていて、普段見れない大澄の頭がすぐそばにあったので、考えるより先にその頭を自然と烈己は嬉しそうに撫でていた。  驚いた大澄が大きな目をして烈己を見る。 「ははっ、大澄さんの目、まん丸でおっきい」くしゃりと烈己の目尻に皺がよる。 「……だからぁ、もう〜っ」  無邪気に笑う赤い目尻にいい加減腹が立ち、大澄は再び牙を剥いた。  噛み付くみたいにキスされて、烈己はビクリと肩を揺らしたが、繋がれた手の温度ですぐに固くなりかけた心を解かした。  初めてした時より少し長めで、少し強めのキスも、烈己は怯えることなく素直に受け止めた。たまに苦しくなって眉を寄せると、すぐそばで微笑む大澄と目が合って、息とはまた別の苦しさが烈己の胸を締め付ける。  耳たぶを甘噛みされて、首筋を大澄の唇が降りてゆく。何一つ抵抗できずに烈己は必死に大澄の腰へ手を回し、シャツを握りしめる。  乱れれば乱れるほど、烈己の首筋からはΩ特有の甘い香りが立ち込め、大澄の理性を脅かした。  涙で瞳の滲んだ烈己は、与えられる刺激にただ耐えるのに必死で、自分が今、何をされていて、これからどうなるのか、考える余裕すらないようだった。 「お、おすみさん……、俺……」  烈己の細い声が、強く脈打つ血液の音を遮って、大澄の鼓膜へはっきりと届いた。 「ん……どした?」  やさしくその髪をすいて大澄は烈己の額へ口付ける。 「……あの、俺ね……、大澄さんが好きだよ……」 「うん……ありがとう。俺も烈己が好きだ」 「本当……?」 「うん、本当」 「じゃあ……俺たち……番になれる……?」 「──烈己は本当に俺でいいの?」 「俺……大澄さんがいいんだ、だから……、俺のこと……全部貰って……欲しい……」  これ以上はないくらい顔を赤くした烈己が、潤む瞳で精一杯の勇気を振り絞って告白する。 「すごく嬉しい──けど、もっとお互いを知ってからにしよう? 俺は烈己を大切にしたいから……」 「俺……じゃダメ? 女の人じゃないから? 子供っぽいから?」 「そうじゃない」 「待ってる間に大澄さんに好きな人ができたら俺……どうしたらいい?」 「そんなことにはならない、俺は烈己が好きだよ」 「そんなのわかんないじゃん! なんで俺じゃダメなの?」 「烈己……ダメだなんて言ってない。ただ俺には烈己に後悔してほしくない。今ある目の前の感情だけで簡単に許して欲しくない」 「簡単なんかじゃない! 簡単なんて言うなよ!」  烈己は思わず大澄の胸を強く叩いた。 「なんでそんな風に言うの? 俺の本気をなんだと思ってんの?! 俺がどんなに……っ」  さっきまで微笑んでいたその瞳は、今はひどく濡れていて、怒りと悲しみに満ちていた。 「烈己……」 「俺帰る……、ご飯、ご馳走様でした」  烈己はヨロヨロと体を起こして、大澄の腕の中から抜け出すと、早足で玄関へと向かった。 「待って烈己、俺は──」  伸ばされた手を振り払って、烈己は靴を履くのもそこそこにドアを開いた。 「烈己っ」 「うるさいっ、意気地なし!」  吊り上がった眉が大澄を睨んだ。 「大澄さんは結局怖いんだよ! 俺が初めてだから手が出せないんだ! もし自分の気持ちが変わった時、責任が取れないからっ、重いからっ、だから出来ないんだろっ」 「烈己……」 「俺は……大澄さんが本気で好きだから……、だからして欲しいと思ったのに……、大切にしたいなんて言っておきながら、今誰よりも俺を傷付けてるのは大澄さんじゃないか!」  烈己の瞳からは我慢できずに(あふ)れた涙が、バラバラと(こぼ)れ落ちた。  見えない何かが大澄の首を締め付けて、息を止める。それとと同時に、心臓が何かに掴まれたみたいに、潰れるほど激しく痛んだ。  エレベーターにまっすぐ向かう細い背中を、大澄は目で追う。 「烈己!」  廊下に大澄の通る声が響いて、烈己の肩が感電するように跳ねた。そして、ゆっくりと振り返る。  ドアから少し出ているだけの強い瞳をした大澄が、こちらを見ていて、ゆっくりと手を開いた。 「──おいで」

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