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cinq

 お腹いっぱいに食べた中華料店の会計は、すべて大澄が出してくれた。半分出すと引き下がらない烈己に、こういう場合は年上を立てるものなんだよと笑って諭される。  このまま帰るのもなんだか勿体無くて、烈己が素直に気持ちを伝え表せずにいると、大澄はすべてを悟るように「少しゆっくり話せるところへ行こうか」と提案してくれた。  雰囲気のあるバーにでも行くのかと思ったが、大澄が選んだのはカフェだった。意外そうな顔をした烈己に「外で飲む酒には懲りててね」と大澄は苦い笑みを浮かべる。  誰のことを言っているのかを容易に理解した烈己は、あまりにも情けなくて完全に顔を俯かせた。 「今のは俺の話。俺のせいで烈己が危険な目に遭いかけた。それこそ烈己の人生を俺が狂わせるところだった。だからもう本当に懲りたんだ」  ソファー席に並んで腰掛ける二人は、さっきよりもずっと近い距離で互いの声を感じ、優しい声色で諭すように語る大澄の体温は、烈己の右手に添えられた左手からじんわりと伝わった。 「……あれは大澄さんのせいなんかじゃ……」 「俺のせいだよ、わかってるから。本当にごめん。二度も怖い思いさせて」  烈己はあの時の自滅的すぎる自身の姿が思い起こされるのか、目頭に熱がこもるのを感じた。刹那的な自分自身の選択が恐ろしくて唇が震え、それを抑えるよう強く噛み締めた。  隣にいる大澄の顔を下から覗くと、烈己の大嫌いなあの意地悪な笑顔は姿を消していて、今は年上の優しい男の顔をしていた。  その柔らかな笑顔が余計に烈己の感情を掻き揺らして、我慢できなくなった大きな瞳からはポロポロと涙がこぼれ落ちた。 「烈己……」 「ごめんなさ……泣くつもりなんか、なかったのに……わかんない……勝手に涙……でる。ごめんなさい……」 「いいよ、謝んなくて。辛い気持ち思い出させてごめん」  震える頼りなげな細い肩を大澄は抱き寄せて、優しく何度もさすってやる。烈己は自分の体を大澄の胸へ委ね、深く息を吸って少しずつ気持ちを落ち着かせた。  店内照明は客たちが座るそれぞれの席に置かれたキャンドルが灯っているだけで、烈己が泣いていることは目の前の大澄にしか見えていない。その安心感からか、烈己の涙腺のブレーキは完全に緩んでしまっていた。 「温かいものでも飲む? 少しは落ち着くかも」  ハンカチを口元で握ったまま烈己は黙って頷いた。 「……大澄さんが俺に優しくしてくれる日が来るなんて思ってもみなかった……」 「確かに、それは言えてるな。それは烈己も同じだろ?」 「……かもね」 「かもね、じゃないよ。パッと見は可愛らしいのに、背中のファスナー開けたら多分中に怪獣住んでるよ」 「……まぁ、それは、否定できないかも」 「おっ、自覚あったか」 「もうっ、結局ディスり?」  目と鼻の頭を赤くした烈己がギロリと大澄を睨む。 「まあ〜可愛らしいお目目」大澄が烈己の鼻の先を軽く指でつついてみせる。 「遊ぶなっ」 「いたいいたいっ、指が折れるっ」 「ぶっ、変な顔っ」 「人のこと痛めつけて元気にならないでよ、怖いなぁ〜」  大澄は烈己から解放された左人差し指をさすりながら眉を下げる。 「泣いたらお腹すいてきた。なんか食べようかな?」 「おいおい、代謝早過ぎだろ〜」  ようやく取り戻した笑顔でメニューを眺める烈己を、口元を綻ばせながら大澄は静かに見つめた。  フォンダンショコラを美味しそうに頬張る烈己を大澄はやや引き攣った笑顔で眺めた。 「店出た時はお腹いっぱいって嘆いてたのに……」 「甘いものは別腹」 「いや、同じ胃だよね〜」  烈己の胃袋に半ば感心しながら大澄はコーヒーを啜った。フォーク片手にじっととこちらを眺めている烈己に気付き目配せする。 「どうしたの?」 「ううん……大澄さんの話。もっと聞きたいなと思って……」 「俺の? なに?」 「普段何してるのかとか?」 「働いてる」 「そんなのわかってるよ、ざっくりすぎる!」 「保育士してる」 「えっ! ウソ!」 「うん、嘘」 「ちょっと! 息吐くみたいに嘘つくのやめてよ」 「じゃあ、漁師──ってもう……、そうやってすぐ拳作るのやめてくれません?」  恨めしい顔で睨む烈己に、大澄は両手を上げて降参する。 「薬剤師だよ」  嘘つきが放つ三度目の正直へ、オートフォーカスのレンズみたいに烈己は何度も瞳を動かせて、真相の焦点を合わせる。 「よく動く目だなぁ」 「ほんとのほんと?」 「本当だよ、おチビちゃん」  嘘くさい笑顔と共に、ポンと頭の上へ手を乗せられ、秒でその手を荒く払う。 「もう、マジで粗野……」  手をさすりながら嘆く大澄をツンと無視して、烈己は再びフォンダンショコラを口に含んだ。 「あの、さ。思ったままのこと聞くけど……嫌だったらやめるから、言って?」  フォークを皿へ置いた烈己は視線をそちらには向けず大澄へ伺う。 「どうぞ?」 「……お兄さんの写真展にあった写真の中で、河原で絵を描いてた人……。あれは大澄さんだった?」 「めざといね、正解」 「絵を描くのは……趣味?」 「……いや。こんなでも元画家だよ」 「画家……」  ようやくそこで烈己は大澄の顔を見るが、大澄は正面を向いていて目が合うことはなかった。 「もう絵はやめたの?」  その質問に対しての返事は頷きひとつだった。 「やめたのは……三年前?」  一瞬、大澄の瞳がなにかを見つめるようにして固まったが、再び大澄は静かに頷いた。 「……そっか……」    気が済んだのか、コーヒーカップを持ち上げる烈己に大澄は「それだけでいいの?」とこちらを向いた。 「うん、今はそれだけでいい。大澄さんがもし話したくなる時が来たら話して?」 「それってこれからも一緒にいましょうってこと?」 「え……? あ、えっと……。大澄さんが良ければ……だけど」  珍しく笑顔も浮かべずにこちらを伺う大澄に狼狽えながら、烈己は視線を泳がせカップを置いた。その頬はすでに熱を帯びている。 「烈己は……いいの? 俺で」 「……大澄さんこそ……」 「俺は……初めて会った時にも言ったけど、オススメ物件じゃないよ。それでも大丈夫?」 「自分のこと、そんな風に言わないで」  浮かれていたはずの瞳が、今度は辛そうに歪み大澄を見つめる。 「君が優しくて心の綺麗な子だってことは最初から知ってる。その分傷付きやすくて、繊細なことも──君はきっと俺といるとたくさん傷付いて、たくさん泣くよ。温かい家族も俺には作れないかもしれない」 「そんなのっ……、大澄さん一人で決めつけないでよっ」  強く、大きく揺れた瞳が大澄の口を黙らせた。 「家族って一人で作るもんじゃないから! αがいてΩがいて、二人ではじめて成り立つのっ、αだからって一人で家族が作れるほど万能じゃないんだからねっ!」  強い瞳と声に諭されて、大澄の真っ直ぐ閉じていた口元から自然と優しい笑みが溢れた。  どんどんと心へ矢を放つ烈己から手を握られ、大澄は完全降伏する。 「やっぱり、烈己には敵わないな……」 「褒め言葉として受け取るから」 「褒め言葉だよ……、どんな呪いも苦しみも、烈己となら追い払えそうな気がする……」 「そうだよ。俺100年も眠るつもりないからね」 「覚えてたの? 眠り姫の話」 「覚えてるよ。第一印象最悪なαのこと、思い切りぶっ飛ばしてやったもん。忘れるわけない」 「確かに。あんな経験、一生のうち一回あるかないかだな」  お互い、あまりにも強烈で濃厚なる出会いの一日を鮮明に思い出してしまって二人は肩を揺らし笑い合う。 「烈己。これからもどうぞよろしくお願いします」 「コチラコソ……ヨロ、シク……」  かくかくと赤い肌がお辞儀と一緒に何度も揺れる。 「可愛いな、食べてやろうか」 「ヒィッ!」  眠り姫ならぬ赤すぎんちゃんは、背筋をまっすぐ伸ばして、舌舐めずりする危険な狼から頭を仰け反らせた。  トイレに行くふりをしてこっそりカフェのお会計を済ませた烈己は、満足そうに店のドアを開いた。 「イケメンなことしないでよねぇ〜」と背後で大澄が不満を漏らしている。 「あーいうの、一回やってみたかったから。大成功〜、なんかニヤニヤしちゃう」  桜色の頬を目一杯緩ませながら、烈己は夜風に前髪を揺らした。すぐ後ろにいる大澄がこちらへ手を伸ばしているのに気付き、烈己は迷うことなくその手を取った。  暖かくて大きな手のひらが、守るようにして烈己の手をやさしく包む。 「今日はありがとう。楽しかった」  繋いだ手を軽く自分側へ引いて、大澄は烈己との距離を縮める。どきりとした烈己のまつ毛が少しだけ震えるのを大澄は見逃さなかった。 「うん、俺も。楽しかったし、どれも美味しかった」 「今度は烈己の食べたいもの食べよう」 「え〜、もうすでに今から迷いそう」 「じゃあそれ全部制覇しよう」 「いいね、賛成」  烈己はほんの少しだけ勇気を出して、大澄の腕へ頭を寄せた。ぎこちなく寄せられた頭に、大澄はこっそり小さく笑う。 「今笑ったろ」 「おっと、何でバレた」 「腕がぴくぴくって震えた、わかるよっ」  赤く拗ねたほっぺが膨らむ。わかりやすい烈己の仕草ひとつひとつが大澄の琴線に何度も触れて、大澄から大きなため息が溢れた。 「すごいため息、呆れたの?」 「追い討ちかけんな、大人しくしてなさい」 「なにそれ、俺なんにもしてないんだけど?」  不服そうな瞳が、下がった眉と共に大澄を見上げる。それを軽く見ただけで、大澄の視線はすぐに前を向いた。 「ホラ、前向いて歩きな。転ぶよ」 「そんな小さな子供じゃない」 「そうかなぁ?」 「なんだよっ、馬鹿にしてっ」  恥ずかしさを怒りの威で隠して、手を解こうとする烈己を大澄は逃そうとはしなかった。   逆に強い力で引き寄せられ、あっという間に烈己の体は大澄の腕の中へと吸い込まれる。 「……っ」  烈己が真っ赤な顔をして下から見上げるのを悪い狼が楽しそうに見守っていた。 「その顔で笑うな、嫌い」 「嫌いって言葉使うな、泣くぞ?」 「ふーん、見ててあげるから泣いてみせてよ」 「うわ、悪い子ダァ」 「それも褒め言葉だよね?」 「おー、そう来たかぁー」大澄は思わずくしゃりと大きく笑う。 「あっ!」  突然、目の前で弾けるようにして声を上げた烈己に、大澄は素直に驚き、目を瞬かせる。 「なに、突然」 「前にさ、狐って。俺のこと狐って言ったでしょ? あの意味が今だにわかんなくて、あれどういう意味?」 「……ああ、ホラ。狐は人を化かすでしょ?」 「はぁー? 俺がいつ大澄さんを化かしたんだよっ」 「最初からずーっと」 「なにそれ、意味わかんないっ」 「お〜、よく膨らむほっぺだね」  皮肉ついでにいきなり頬へキスされて、烈己の全身は瞬間凍結した。 「な、な、な、な、いま……」  油の切れたネジみたいに、烈己の頭がギギギと小刻みに動いてニンマリ微笑む大澄を見た。 「ふっ、可愛い。真っ赤っ赤」  懲りない男はわざと音を立てて、またも赤い頬へとキスをする。その度に高く短い悲鳴が上がるのが面白くてキスはどんどんエスカレートしていった。 ──艶やかな髪へ、丸い額へ、震える瞼へ、赤い鼻の先へと、何度も何度も口付けられ、烈己は今にも抜け落ちそうな膝と限界まで闘っていた。 「あそぶなぁ〜っ!」  恥ずかしさのあまり潤んだ瞳が、相手を抑止させるどころか、火に注がれた油みたいに大澄を加速させる。  胸板を殴ろうとして振り上げた両手たちを簡単に塞がれて、烈己は細い肩をすくませる。  唇同士が触れるその瞬間、大澄はぴたりと動きを止め、ほぼゼロに近い至近距離で烈己を見つめた。  震えるまつ毛の下で濡れた瞳が月夜に照らされた湖面のように輝いては揺れていて、その美しさに大澄は思わず見惚れる。 「な……に?」  ほとんど音にならない声で烈己が眉を下げた。 「うん……本当にいいのかなと思ってさ」 「なにそれ……も、おれ、恥ずかしくて死にそう……なんだけど……」 「ほんと。なんだか今にも破裂しちゃいそうだね」 「余裕こいてて……腹立つ、もうヤダ離して、無理、膝がおかしい、もう──」  ガクガクと震える膝も何もかもを支えるようにして、大澄が烈己の体を強く抱きしめ、包み込む。  一瞬だけ目の前が真っ暗になって、唇に熱が触れた。すぐに離れたものが何だったのか、烈己は頭の整理が追いつかずに、ただ瞳を大きく揺らしていた。 「はは、目ん玉溢れそう」  鼻先同士が触れて、大澄の大きな笑顔がすぐそばで咲いていた。少しだけ幼く見える初めて見る姿に、烈己は馬鹿みたいに心臓が痛くて、苦しくて……そして、なぜだかわからないけれど、涙が出そうだった。 ──これが運命?  (つむ)に触れたみたいに胸が痛い、体が痺れる。  完全に言葉を失ってしまった烈己を大澄は優しい笑みで見つめ、その髪をすいた。  大きな手のひらで頬を撫でられ、猫のように烈己は擦り寄った。無防備に開かれた白い首筋がやけに目について、大澄は腹の奥に飼った狼を必死に手懐ける。 「大澄さん……」  湿った吐息と熱を帯びた瞳が無自覚に狼を挑発して、大澄はとうとう紳士の笑顔を保てず、苦い声を漏らした。 「やっぱり烈己は悪い子だな……」 「え……?」  烈己が出そうとした次の言葉は、塞がれた唇のせいでそれ以上紡ぐことは出来なかった。

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