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「はぁーん?」と剣呑な声をした江が長いまつ毛を伏せがちにして烈己をジロリと見た。
「なんで、怒ってんの? ん?」
「あの不感症αに何言われたかもう忘れたの?」
「……忘れて、ないけど」
「でしょ? 俺も忘てない。俺の可愛い烈己を傷付けて泣かせた憎いαのこと」
「そうなんだけど……俺もよくわかんなくて」
烈己は首を傾げながらクリームソーダのアイスを掬って幸せそうに頬張った。
「そんな可愛い顔したって許さないよ、そいつに会わせろ、ちんこを削ぎ落とす」
「おい、ここ喫茶店、やめろ」
美しい顔に反して出た汚い単語に烈己は怯みながらも、周りに聞かれていないかったか目線を慌ただしく泳がせた。
「烈己はその拗らせαが好きなの?」
「好き……? んーーー、まだわかんない、かな」
「嘘つけ、好きだろ、好きに決まってる、オーラが出てんだよ、ときめきオーラが」
「何、そのダサい名前のオーラ、意味わかんねぇ」
「もう捧げたの?」
「さっ!!」
「──まだか、よかった」
謎の安堵のため息をよこして江はようやく目の前のコーヒーに口をつけた。
「簡単に噛ませたらダメだよ、ちゃんと見極めなきゃ。俺たちΩは一瞬で永遠が決めるんだからね」
真剣な声色で強い眼差しが烈己を戒める。
「……わかってる、いくら馬鹿な俺でもわかってるよ」
「行政が見合いに出したってことだから、後ろ暗い過去がある人じゃないんだろうけど、それでも一度は烈己を深く傷付けた男なんだからね」
「江……でもさ」
「でも、なに?」
「江、前に言ったよな、弱い自分のない人なんていないって、それはαも同じだって。……俺さ、少し、ほんの少しだけどあの人の弱い部分、前に見た気がしたんだよね。その時、あの人は俺を激しく突き放したし、俺は傷付いたけど、あれがあの人のすべてじゃないような気がするんだ」
「単に烈己は浮かれていて、相手がよく見えてないだけじゃなくて?」
「ないとは言わない、けどさ……何年かかっても他人の本当の気持ちなんてわかんないものじゃないかな?」
「烈己……」
「だって俺、実のお母さんのことだって最期までわかんなかったんだよ? あの人が何を考えて一人で俺を産んだのか、育てたのか、死ぬ瞬間までも俺はわかんなかったし、今もわかんない。あの世で再会して直接答えてもらわない限りわかりっこないんだ」
母親の話を出されて、江は完全に言葉を失ってしまった。察した烈己が「ごめん、こんな話」と誤魔化すように笑ってみせた。
「江じゃなきゃこんな話できない。江がいてくれて良かった。ありがとう、江」
「なに、花嫁の父への挨拶みたいなのやめてよ」
「ほんとだ、ヤバい、ウケる」
「ヤバいじゃないよ、ほんとに」
無邪気に笑う親友に根負けして、江はいつものように優しくその頭を撫でた。
「ほんと、娘を嫁にやるお父さんの心境わかってきたかも」
「どんなけ気が早いんだよ、江は」
「早くないよー、烈己は案外あっさりと嫁に行くタイプだよ、チョロいもん」
「おい、こら、それ悪口だから」
「違うよぉ〜、スレてない分純粋に相手を好きになるんだよ、烈己みたいなのはぁ。もっと疑って、αは野蛮な狼だと疑え」
「俺の一番身近な狼、秀だもん、それは無理」
「秀だって十分野蛮だよ?」
「え? どのへんが?」
純粋な瞳で首を傾げられ、江は余計なことを口にしたと一瞬で黙り込み、能面のような無機質な顔をした。
「ねぇ、秀のどのへんが野蛮なんだよ、教えてよ、江」
「企業秘密」
「意味わかんねっ、なんだそれっ、惚気かよ」
ぶすくれた顔をした烈己はガシガシとアイスをスプーンでメロンソーダに溶かしてゆく。
透明の緑色だったメロンソーダが白く濁りだして、江はぼんやりとそれを眺めた。
「別々でいたら綺麗な白と緑なのにね、なんで一緒にしちゃったんだろうね」
「ん、なに? クリームソーダの話? そりゃあこうすればさらに美味しいからじゃない?」
「無粋だよ」
「でも美味いよ」
「誘惑に負けたんだ?」
「クリームソーダに思い馳せすぎじゃない? 江」
「確かに」
江がきれいな横顔に何かを含ませながら微笑むのを不思議な気持ちで烈己は盗み見た。そして、やはり人の心は何年寄り添ってもわからないものだと再び実感する。
✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎
その日、烈己は朝からずっと落ち着けずにいた。そして、今日ほど定時の18時が遠いと思った日はない。
昨夜の二回目の電話で待ち合わせの約束を交わした。
なぜだろう、はじめてのお見合いの前の夜でもこんなに緊張しなかったのに──烈己はあと数分で終わる勤務時間に、滑り込みするようなクレーム電話は頼むから勘弁してくれとひたすら祈る。
定時のアラームと共に烈己はパソコンをシャットダウンし、前もって決めておいた服たちに慌てて袖を通す。
おしゃれしたところでそんなもの一切彼は気にしないだろうし、気付きもしないだろう。わかっていても突然訪れた淡い恋心は、かつてモンスターと親友から揶揄された烈己からすべての牙を抜き、今や運命の王子様に会いに行くシンデレラだ。
なんとなく自分の匂いが気になって服を嗅いだ時、あの時の大澄のにおいが頭をよぎってひとり顔を赤らめる。
「ああ〜、もう。こんな姿、江には絶対見せられないっ」
急に恥ずかしくなって、誤魔化すように磨いた靴へ足を押し込んだ。
待ち合わせした駅の改札を潜った時、まだ約束より15分も早くて内心烈己ははしゃいでる自分が恥ずかしかったが、視線の先へすでに待ち合わせ相手が立っていて、吹き出すより勝手に頬が緩んで熱を帯びた。
──お待たせ? 待った? どう言えば自然なんだろうかと烈己が頭の中をフル稼働させている間に、相手は自然とこちらを振り向いた。
「早いな」と、先にいた人間に言われて烈己は結局吹き出してしまった。
「先にいる人が言うセリフ? お待たせ」
「うん、待った」
「いや、そこは"今来たところ"って言うのがお約束でしょ?」
「待ったよ、昨日の電話切った瞬間からずっと待ってた」
真顔で当たり前みたいにそう告げる大澄に、烈己は目を丸くして一瞬声を失い、表面温度を表すように顔一面を真っ赤に染めた。
「アンタのデレまじ読めないっ、どうなってんの? なにそれ、そんなキャラじゃないだろ」
「キャラってなんだ、俺はそんなアイコン的な人間じゃないぞ」
「いや、そーいうガチなキャラの話をしてるんじゃなくって……ってなに、この時間! 折角の時間を無駄にしそう、やめよ、もう」
烈己は大澄の正面を向いていた体を翻し、駅を背にして進もうとしたが、何かに気付いたのかすぐに動きを止めた。
「あれ? 今からどこに行くって俺たち決めてたっけ?」
「いいや、会う約束しかしてない」
「……だよね。え、と、今からどうする、の?」
「……どうする、かな」
「なにも決めてないの?」
「はい」
固い人形かなにかみたいにカクンと大澄は頷いた。
「はいって、ちょっと! アンタ俺より年上なんだからそーいうところはアンタが担当するところでしょ」
「そんなルールどこかにあるのか、俺は知らん」
「ルールっていうか……っていうか、ないの? 俺としたいこと」
「したい、こと……」
「へっ、変な意味じゃなくて!」
具体的になにを言われたわけでもないのに、烈己はひとりで慌てては顔を赤らめている。それを理解しているらしい大澄はお馴染みの悪い笑みを口元へ浮かべた。
「その笑み禁止! 俺で遊ぶな!」
「すぐ怒る」
「怒ってないっ」
大澄の手首を掴むと烈己は再び背中を見せ、無抵抗な手を引きながら前を歩いた。
「どこに連れてってくれるの」
「とりあえずご飯っ」
「なるほど」
「なんなの、アンタ俺より人生の先輩でしょ」
「俺には自主性がないとよく兄貴に言われた」
「うわ、それってモテないってこと? それとも周りが寄ってくるから自分は基本待つだけってこと?」
「俺、中華が良いな」
「あっ誤魔化したっ。てかあるじゃん! 自主性っ」
弾むような二人の会話に烈己は内心くすぐったくて仕方がなかった。
初めて会ってからずっとお互いに印象は最悪で、大嫌いで──なのに今こうやってわざわざ待ち合わせまでして二人の時間を共有している。
──不思議だ。
運命の相手なんて夢物語みたいな存在が本当に実在するなんて、信じていいのだろうかと烈己はふわふわして落ち着かない自分の心に溺れながら、戸惑いながら、心から溢れる微笑みを隠すことなく、人混みの街を大澄と並んで歩いた。
夕飯には大澄のリクエスト通り、中華料理店を選んだ。
堅苦しさのないどこか家庭的な雰囲気の店内は、学生やサラリーマンからベビーカーを引いた家族連れまでと、幅広い層の客たちで賑わっていた。
四人掛けの席へ二人は通され、素直に向かい合って腰を降ろした烈己へ大澄は手招きし、横へ座るよう促した。
意味がわからず不思議そうに首を傾げる烈己だったが、素直に大澄の隣へ掛け顔を覗く。
「ここはうるさいから。隣にいないと声が聞こえにくいでしょう」
「あっ、それで世の中のカップル客って隣同士に座ってんの?」
「……いや、それだけが理由じゃないでしょ」
「へ?」
「──いや、もういいから。なに食べますか?」
あまりにも澄んだ瞳の烈己と目が合って、大澄は説明することを早々に辞退した。
「なんでまた敬語なの」
「なんか、癖が、残る」
「変なの」
最後に咳払いで誤魔化す大澄らしからぬ姿に、烈己はケラケラと笑った。
「全身全霊で天然ボケかましてくるアンタに言われたくない」
「アンタってやめない? 年下だし、烈己でいいよ」
「じゃあ──烈己」
突然の至近距離で目線を合わせてきた大澄に、烈己はびくりと肩を揺らした。
「へぇ、名前呼ぶだけでそんな反応するんだ」
「うるさいっ、てか、なんで敬語終わりなの」
「プレイはまた今度ね、烈己」
「もうっ、いいから! メニュー貸して!」
ニヤニヤと悪い笑みを浮かべるサディスト|男《おとこ》からメニューを奪い、烈己は赤く染まった顔を見られないよう中へ顔を埋めながらメニューを眺めた。
「俺にも見せて」と無理やり肩を押し付けてくる大澄へ必死に烈己は抵抗した。
「ヤダ、俺が先」
「一緒に見ようよ、烈己」
「うるさい、無駄に名前呼ぶな」
「無駄なんかないだろ、名前は呼ばれるためにあるんだから」
「へっ?」
そこでようやく烈己は自ら顔を覗かせ、大きく開いた瞳で大澄を見た。
「なに、俺おかしいこと言った? 人間が生きていく中で大抵の人は自分が名乗るより呼ばれることのが断然多いはずだけど」
「──確かに……そうかも……。けど、それとこれはまた別次元の話! 無駄に呼ぶのと呼ばれるのが仕事な名前の存在はまた別のはなし!」
「呼ばれるのが仕事って……ぷっ、言い方……っ」
「もう、なんだよ、すぐ笑う!」
烈己は恥ずかしくなって大澄の肩を軽く殴るが、大袈裟に痛いと嘆かれる。
「烈己こそ、すぐ怒る」
「大澄さんが笑うから!」
「烈己が可愛いこと言うからだろ?」
「ひゃい?!」
「ぶっ……イテッ! さっきより力強いって」
バシバシと加減なく左腕を殴られ続け、大澄は顔を歪めながら烈己の乱暴な手へ指を絡めてすぐに大人しくさせた。
「ほら、喧嘩はあとで、何食べるの?」
顔のすぐそばで諭すように囁かれ、烈己は陳腐な脳味噌の回路がガタガタをエラーを起こして異常事態を知らせる警告音が耳から漏れ聞こえた気がした。
服から覗くすべての肌を赤く染めた烈己に、初めて出会った時にはなかった腹の奥にある熱を大澄は知った。
こんな感情が、感覚が、自分にあることをもう長い間忘れていたし、それを呼び起こすのが目の前のどこか幼いこの跳ねっ返りかと思うと、相変わらず拗らせているなと自負するほかなかった。
「ニヤニヤ禁止、その笑い方ダメ」
恥ずかしさから肩をすくめて視線を逸らす烈己を揶揄うように大澄は顔を覗き込む。
「なんでダメなの? 教えて」
「馬鹿、大澄さんの意地悪」
桜色の肌へ揺れるまつ毛の影を落とし、烈己は潤む瞳を必死に隠して目の前の狼から逃げた。
あの夜抱きしめ合った時と同じ香りがすぐそばまで来ていて、烈己は握られた指をピクリと揺らした。
大澄はあの時、どんな顔をしていたんだろうかと烈己はふっと気になって、喉元へ逃していた視線を少しだけあげようとした次の瞬間──
「お客サン! 御飯食べるノ?! 食べナイノ?! ワタシさっきからズットココで待ってたヨ!!」
「※●◇%★◎〜ッ! 食べますっ! ごめんなさいっ!!」
待ち疲れた女性店員の存在にようやく気付いた烈己は慌てふためき、必死にメニューを見るが、視界の隅で口元に弧を描いている性格の悪い狼に気付くと、一瞥と共に強烈な肘鉄をお見舞いしてやった。
「ガチで殴ることないだろ」
「うるさい、本当に性格悪すぎだから」
ふくれっつらに小籠包を冷ましながら頬張っている烈己は、すでに大澄の横から逃亡し、正面に座りなおしていた。
「だって、烈己が真っ直ぐだから可愛くて」
「可愛いを乱用すんな、アンタの言う可愛いはもう信じません」
「アンタっていうなよぉ〜」
「うるさいっ」
「本当だって、烈己みたいな裏のない子に会ったことなかったんだよ」
「ほんとは俺のことなんか内心馬鹿にしてるくせに」
「してないって本当に。生意気だなぁとは思ってたけど」
「おい!」
「だって、俺のこと初っ端から痴漢って決めつけるし、見合いの場でボロカス言うし?」
「そっ、れ……は、痴漢のことは反省してる。本当にあれはごめんなさい。けど、見合いでボロカス言ったのはそっちも同じだからねっ、それに写真展の時だって……」
烈己はあの時の傷が蘇るのか、それまで大澄を睨みつけていた強い瞳から突然力が抜け落ちる。
「──ごめん、あれは単なる俺の八つ当たりだった」
その言葉で弾けるように瞳を開いた烈己は、静かに大隅を見た。
「前にね、自分の淋しい場所を埋めるためだけに、人の人生を狂わせた酷い奴がいて、俺はそいつが今でも憎くてね」
「……大澄さんの元恋人?」
「いや」
「あんまり話したくない……?」
「うーん、折角だし今は美味しくご飯を食べていたいかな、ごめん」
「謝んないで、俺もたくさん酷いことしたし……」
「そんなことないよ、烈己は電車で怖い思いしたんだから、周りが見えなくても当然だよ……ってそのわりにはかなり元気だったかな?」
「ホラ、やっぱ馬鹿にしてるっ」
「そんなことないよ、腹は立ったけど楽しかったよ、あの時の言い争い」
「俺は全然楽しくなかった!」
「そうか、残念」
わざと大澄は意地悪く笑って、烈己が本気で沈むのを和らげてみせる。
「見合いの時も烈己はすごかったなぁ。嵐みたいに激しくてさ、初対面の年下にあんな風に殴られるとは思ってもみなかった」
「だからもうやめてってば」
「本当に烈己が初めてだよ。俺をちゃんと感情のある人間だって思い知らせてくれたのは」
「なにそれ……」
「真っ赤なイチゴを甘いと思って口に入れたら酸っぱいレモンの味がしたって感じ。あの時本当に目が覚めた」
「褒め言葉じゃない、絶対」
「褒め言葉だよ、烈己みたいな人はそうそう出会えない。国の仕事もたまには褒めれることがあったんだなって感動してる」
「やっぱ拗らせてるね、大澄さんは」
「そうだろう〜?」
「褒め言葉じゃないからね」
「いやいや、烈己が俺を理解してくれるのは俺にとってのご褒美だから」
「うっわ、マジヤバい人だ」
呆れて顔を歪めた烈己に、大澄は声を出して笑ってみせた。
「いい顔してるね」
「俺はちょっと今、国の仕事を疑ってる。なんかのミスじゃないかと思いはじめたよ」
少しげんなりした面持ちで烈己は視線を横へ流し、烏龍茶をチビチビと口に含んだ。
「いい顔」
「うるさいっ、俺の顔のことは良いから食べなさいっ」
「はーい」
大澄は子供のようにまっすぐな返事を寄越して、手元にある小籠包をレンゲの上で二つに裂いた。
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