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huit
自分と同じ顔をした男が床に座って何枚もの写真を破いている──。
大澄はその何度となく見た光景で、これが夢であることを気付いていた──。
「…………花月 」
大澄の呼びかけに虚な瞳が揺れた。目尻が赤い、また兄は泣いていたのだ。
視線が合わさった途端、双子の兄である花月は顔を歪め、苦しげに震えながらまた泣き始めた。
「またダメだった……、赤ちゃん、死んじゃった……」
「……そうか、辛かったな、悔しいな……」
大澄はすっかり痩せてしまった兄の肩を抱き寄せ、背中をゆっくり撫でてやる。
「なんで? なんで……俺はもうαじゃないのに……、なんであの人の子供が産めないんだ……」
「花月……子供がいなくたって幸せな番はたくさんいるよ。どうしてもダメなのか? このままじゃお前の体が先に死んでしまう、そんなの意味ない」
「ダメだ! 子供が必要なんだ! でないとあの人と家族になれない!」
「花月、子供は都合の良い道具じゃない。子供がいないと幸せになれないならそんなものは本物じゃない、愛じゃない」
「お前に何がわかる!」
大澄は花月に思い切り胸を突き飛ばされ、無抵抗だった体を床で強く打ちつけた。
「本当に人を好きなったことのないお前に俺の何がわかるんだ! お前なんかにっ……」
──ああ、いつからだろう。
この世界でだった一人、俺を理解していてくれていた兄がこんな風に遠い存在になってしまったのは……。
すべて俺のせいなんだろうか──俺が誰も愛さないでいたから? 俺自身が兄を理解できなかったから?
わからない──
もう、なにもわからない。
聞いて確かめることすらできない。
──もう、花月 はこの世にいないのだから……。
兄貴……。
いつからなのかな? アンタが俺に微笑まなくなったのは……。
最後にそれを見たのは、いつだったんだろうか──。
大澄が次の言葉を紡ごうとした瞬間、顎に激痛が走り、大澄の視界は回転するように乱れ、体が一瞬落下するような感覚に陥って、両目に現実である朝の眩しさが一気に差し込んだ。
「ん……」
顎に激痛を与えた犯人はすやすやと寝息を立てて、大澄の胸の上で眠っていた。
そこから伸ばされた手が今も顎にあって、大澄は瞼を半分閉じながらその手をゆっくり退かした。
「寝相の悪いお姫様だな……、ったく」
それでも、あの苦しい夢の中から連れ出してくれたことに大澄はひどく安堵を覚えた。
安心しきって眠るどこか幼いその顔をそっと指でなぞり、軽く口付ける。
「ありがとう、烈己……」
✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎
ぐーきゅるきゅると、腹の虫がものすごい音を立てたせいで烈己は一気に覚醒した。
大澄に聞かれたのではないかと、慌てて起き上がるが、下半身を駆け抜ける強烈な痛みに、再びベッドへ顔から沈んだ。
「〜〜〜〜っ。いた、いっ……」
はじめて大澄と繋った場所がズキズキと痛んだ。行為の最中はそこまでの痛みはなかったはずなのに、裂けてしまっているのかと不安になり、恐る恐る触って確かめた。
ベッドには烈己ひとりが残され、部屋のどこにも大澄の気配はなかった。
「……なんか、思ってた朝と違う……」
甘い朝を迎えられるのをどこか期待していた烈己は、しょんぼりしながら枕へ顔を埋めてひとりいじけた。
瞼を閉じるとうっかり昨夜の熱が脳裏をよぎり、烈己はひとりで顔を赤らめた。
大澄の甘い匂いや、手の感触、肌の温もりすべてが烈己の全身に蘇り、誤魔化すように掛け布団に潜って丸くなる。
今になって急に心臓がバクバクと慌て出して、恥ずかしさのあまり烈己は下唇を噛んだ。
──どうしよう、どんな顔して大澄さんと話せばいいのかわかんなくなった……。
恥ずかしい、どうしよう、今すぐ自分ン家 にワープしたい。
「だけど……お腹空いた……」
烈己は色気のない自分に何よりも絶望しながら、ぺしゃりと枕に顔を深く埋めた。
枕元に綺麗に畳んで置かれたパジャマへ袖を通して、烈己は生まれたての子鹿のようにゆっくりと、リビングに続く扉へと進んだ。
だが、リビングやキッチンのどこにも大澄の姿は見当たらず、烈己は首を傾げる。
寝室の向こう、玄関へ続く廊下側にもう一部屋あったことを思い出し、子鹿は震える足と共にそちらへと向かった。
ドアの外からそっと中の様子を伺うと、小さく物音がして、中に大澄がいることがわかった。
もじもじとドアの前でどうするか考えあぐねていると「烈己? 起きたの?」と、先に中から声がして、烈己は驚きのあまり床から足が浮いた気がした。
あわわわわと声も出せずに動揺する烈己の前に、大澄がドアを開いてあっさり向こうから現れた。
「…………っ、お、はょうござぃま、す」
壊れかけた古い機械のような、音程の狂った自動音声が烈己の口から流れた。
「──────」
「わっ、笑うなよ!」
「ふっ、くっ……無理っ……」
真っ赤な顔をした烈己に胸をポコポコと殴られながらも大澄はひたすら笑い続けた。
「もう、勘弁して、だめっ、烈己といると心臓がもたない、どういう生き物なの、あなたは」
「うるさいなあっ、笑うなってば!」
すっかり臍を曲げて吊り上がった眉の烈己を抱き寄せて、大澄は深いため息をひとつついた。
「はぁ……可愛い。たまんない」
体に大澄の甘い声が直接響いて、全身の体温が勝手に上がった。頬が熱くて、心臓がまたうるさく鳴りはじめる。心臓がもたないのはこっちのセリフだと心の底から烈己は思った。
体が少しだけ離れて、優しい手のひらが烈己の頬を撫でた。
「体、平気? 痛くない?」
穏やかな大澄の瞳に見つめられ、なぜだか涙が出そうになる。
「……痛い……けど、平気」
「ごめんな、もっと優しくしたかったんだけど……辛い思いさせたな」
「辛くなんてないよ、俺すごくすごく幸せだった。嬉しかったし、大澄さんのこともっともっと好きになった」
「わあああ、もうやめて、お願い、許して。大澄さんの大澄さんが危険信号を発します」
「なにそれ、変なの」
ひゃははと天然たらしが無邪気に笑うのを大澄はジトリと睨んだ。
「大澄さんは……? 俺のこと……好きに、なった?」
自信なさげに潤んだ瞳が下から狼を見上げてくるものだから大澄は危うく発狂しかけた。
「前から大好きだわ! 何を言ってんだ!」
再び力強く抱きしめられ烈己は目を丸くした。
「……ほんと? 本当に俺のこと、好き?」
「好き、大好き。前からちゃんとお伝えしてましたけどご理解頂けてなかったですか、俺は悲しいです」
「ごめんなさい、俺。自信なくて……、ごめんなさい」
「謝んなくていいよ、烈己は不安だったんだろ? 俺意地悪ばっかする嫌 な奴だもんな? けど俺はちゃんと真剣だよ。真剣に烈己が好きだし大切だ。それだけは信じてください」
「…………はい」
烈己は大澄の背中に手を回して、ぎゅっとシャツを握りしめた。
「返事まで可愛いの、なんなの、もう」
大澄から唸り声のようなため息が漏れた。
「なにが? わかんな──」
烈己の疑問は大澄のキスによって遮られ、それに抵抗することなく烈己は甘い口付けを味わった。
グーッ、と烈己からは似つかわしくない低い音が腹から響き、大澄は笑うのを堪えながら、恥ずかしさで顔を真っ赤にして俯く可愛い恋人の手を取り、リビングへと誘った。
「和食!」
朝から出された味噌汁の匂いに烈己は大きく感動していた。
「魚を焼く余裕はなかったけどね」と、大澄はコンビニで買った鮭をレンジで温め皿に盛りつける。
綺麗な形の玉子焼きに、ほうれん草のおひたし、ワンプレートに色も栄養もバランスよく乗った朝ご飯が烈己の前に出された。
「大澄さんすごいー! 朝からこんなの作れちゃうの? どうしよう、写真撮りたいっ」
「撮らなくて良いから、ハイ、いただきます」
「いただきます!」
お行儀よく烈己は手を合わせると、味噌汁を一口啜り「は〜」とため息をつき、ずっとニコニコ笑っていた。
「本当に、あなたと食卓を囲むことが一番俺にはハードルが高い、もう攻撃力がヤバすぎる」
なぜかすでに疲れを見せている大澄の姿に、烈己は玉子焼きを頬張りながら首を傾げた。
「烈己は本当に真っ直ぐ良い子に育ったね。ぶっちゃげ口も手も悪いけど、性格だけは本当にピカイチだよ」
「それ褒めてます?」
「褒めてます、口と手は物理的に塞ぐことが可能なのでどうにかなりますからご安心ください」
「なんだよそれぇ、俺別にフツーだけど」
「お前がフツーだったら俺はどうなる、ド底辺だ! 地面突き抜けて最早埋まるわ!」
「大澄さんは意地悪で笑い上戸だけど、別に性格自体悪いわけじゃないよ、すごい優しいもん」
「もうやめて、大澄さん泣いちゃう」
「え、やだ、泣かないで、ごめんなさい」
慌てて椅子から腰を上げた悲しげな表情の烈己を見て、大澄はますます眩暈がした。
「あー! もー! 煮るなり焼くなり好きにしてぇ!」
背もたれに全体重をダラリと預けて、大きな体と共に自分自身を丸投げした大澄にぎょっとしながらも、烈己はその頭をヨシヨシと撫でてやった。
すると、何かの線が切れたらしく、大澄はいきなり立ち上がって烈己のそばへ寄り、突然烈己を抱き上げた。
「ひゃあっ! なにっ高いっ、怖いっ」
突然のお姫様抱っこに感動するムードでもなく、ただ落ちたくなくて烈己は必死に大澄へとしがみつく。
「この子は本当にどうしてくれようか!」
「何が? 全然意味わかんないっ、そんなブンブン揺らさないでっ、怖いっ」
「烈己!」
「なにっ!」
「結婚しよう、俺たち番になろう!」
「────へっ?」
前触れのない、急なプロポーズの言葉に烈己は全く頭の中が追いつかず、ただ目を丸くして口をぽかんと開いたままだった。
「相性だとか、運命とか関係ない。俺は俺の意志で烈己が好きだ。烈己が良い、俺は烈己といたい。──烈己は?」
「……そ、んなの……、決まってる……、俺は大澄さんのこと大好きなんだから……一緒にいたいに決まってる、命が果てる最後まで、大澄さんといたい。たとえ二人きりでも良い、あなたと家族になりたい──」
烈己は大きな瞳からポロポロと大粒の涙を流して、大澄の気持ちへ答えた。
ゆっくり床へと下ろされ、二人は真っ直ぐ向かい合って額同士をくっつける。長い睫毛を濡らしながら泣き止まない烈己の頬を何度も指で拭いながら、大澄は幸せそうに微笑んだ。
可愛く震える唇へとキスを落とし、甘く下唇を食むと烈己もゆっくりと唇を開いて応える。
「いきなり、ホント……大澄さんてば、全然読めない……」
「ん? そうだな、俺も烈己のことになると俺自身が全く読めなくて困ってる」
「なにそれ、俺のせい?」
「そう、烈己が犯罪級に可愛いから」
「もう、そういうわざとらしいの、ホントいらないから」
意地悪ばかり言う男の胸を叩いて、烈己はそのまま顔を埋めた。
「お腹すいててご飯食べたいのに、離れたくない……」
顔を擦り付けて、ぎゅうぎゅうと抱きついてくる烈己に、大澄は半分魂を抜かれながらも、やれやれと肩をすくめて天井を仰いだ。
「食べたらまた抱きあえば良いだろ?」
「だめ、今がいい。まだこうしてて」
「おっ、耐久レースか? 俺の忍耐力を試すテストか?」
「もう、少し黙ってろ!」
烈己は大澄の首へ両手をかけて思い切り引き寄せると、うるさい唇を自ら塞いだ。
わざと乱暴に舌に噛みつき、そのまま吸い付いてじっと離さずにいると、いい加減苦しかったらしく、大澄からくぐもった声が漏れた。
烈己がようやく大澄の舌を解放してやると「ぷはっ」と、大澄は息をついた。そのだらしなく濡れた唇のまわりをペロリと烈己は舐め上げた。
「ふふ、キョトンって顔してる。少しは静かになったかな?」
頬をピンク色に染めた烈己がしてやったりと、得意げに笑ってみせるが、瞳が恥ずかしさのあまりひどく揺れていて、結果として大澄には完全なる逆効果だった。
「……っとに……、こんのぉ〜」
「えっ、嘘、怒ったの? ごめんなさい、俺……」
「全然怒ってないです! 単に俺の頭のネジが20本程抜けただけです! もうっ、早くご飯食べなさいっ、耐久レースは俺の完敗!!」
デカい図体をした男が地団駄を踏みながら悶え苦しんでいる姿に烈己は慄き、戦々恐々としながらも大人しく席へと戻った。その後も、目の前でやたらと鼻息を荒くした大澄が、鮭を直接歯で噛みちぎる姿に度肝を抜かれながらも、烈己は最後まで黙って食事を済ませた。
✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎
──有言実行。
大澄の脳裏にはその四文字だけが光った。
食器用洗剤を含ませたスポンジをギュッと握り、白い泡を睨む。
食事が済んで大澄が食器を洗ってる間に烈己は顔を洗い、今は歯を磨いていた。
気がつくと烈己が立つ洗面所の鏡に大澄が映っていて、烈己は慌てて歯ブラシを濯いだ。
「すぐ終わるから待って、あとうがいするだ、け……」
烈己は話しながら大澄が手に持つ箱へなんとなく目が行き驚愕した。歯ブラシが烈己の手から滑り落ち、洗面器がカランと鳴る。
「なにっ、何持ってんの?!」
「コンドーム」
「──はぁっ?! へっ、いや、あの、ええっ?! 朝、まだ朝だよ! いや、てゆうかあの、昨日が初めてだったんだけどっ」
「うん、知ってる」
「えっえっえっ?! なんで?」
「食べたらまた抱き合おうって、約束」
「約束、したかなぁ〜〜? てか、抱き合うという言葉の認識に大きな齟齬がある気がします」
「ねぇ、もうズボン脱いでも良い?」
「ダメダメダメ!!」
烈己の真剣な問題提起にまったく耳を貸す気はないらしい大澄は、モジモジしながらズボンを脱ごうとしはじめたので、烈己は必死な形相で食い止める。
「なんでぇ?! 今さっきまですごい紳士だったじゃん! 昨日だってすごい優しかったじゃん! なんでそんな急にキャラ変すんの?!」
「だからさっき頭のネジが抜けたの、もうダメなの、お願い烈己」
「急に甘えんなっ、てか俺まだ痛いしできないよ〜っ、さっき話したばっかじゃん」
「じゃあ、最後まではしないから」
「────俺こんなにも大澄さんの言葉信用できないの初めてかもしんない……」
烈己の眉が絶望で下がった。
「信じて烈己、俺は烈己を大切にしたいと心から思ってる。……ホラ、思うのは自由だろ?」
「ホラ〜、もう言葉が安っぽいもん〜っ」
烈己はさんざん嫌だと嘆いてみせたが、もちろん愛する男を完全に拒絶することなどできるわけがないのだ。
結局烈己は口達者なαに言いくるめられて、しぶしぶベッドへ連れて行かれた。
服を着たまま二人は抱き合って横になった。
大澄は仰向けになって胸の前で烈己を正面から包み、存在を確かめるように愛しげに抱きしめたり、下から何度も口付けたり、髪をすいたりと、スローで優しい愛撫をくりかえし、服に隠れた素肌に直接触れることはしなかった。
照れながらも烈己は大澄の優しい手にはやくも酔いしれ、肩へ両手を回して自らも抱きついた。顔のそばで大好きな大澄の甘い香りがして、烈己はそれを胸いっぱいに吸って、幸せそうに顔をうずめる。
すっかり烈己は飼われた猫みたいに無防備な姿でうっとりしていた。
「大澄さん……だいすき……」
「うん、俺も」
「…………大澄さん……」
「なに?」
「……あの、ね、ずっと話せてなかったけど……俺、生まれた時から母子家庭で、それで、その母親も三年前に他界したんだ……」
大澄は烈己の花のような甘い香りに酔って閉じかけていた瞳を大きく開き、烈己を見た。
「三年……前……」
「そう……、大澄さんのお兄さんも、だよね?」
「──覚えてたの」
「うん、あの話しした時、俺のお母さんと同じだって思ったから……、あっ、こんな話今することじゃなかったよね、ごめんなさい! 俺本当空気読めないよね……」
「……構わないよ。烈己が話したいと思った時に話せばいいんだ」
「……ありがとう。あの……それで、ね、俺たち一応お見合いじゃない? けど、俺はその、天涯孤独のΩでさ……そういうの嫌がる人もやっぱいるじゃない? だから、大澄さんのご両親は……あの……」
話し辛そうに烈己は必死に言葉を紡いだ。
なぜならば、父親が誰かもわからないΩを手放しで受け入れるような優しい世界は、どこにも存在しないのが現実だからだ。
そのせいで何度も烈己は傷付き、泣き、恋すらちゃんと出来ずにいた。
「俺の両親はΩにはなんの差別思考もないよ、それにもしあったとしても俺は烈己といる。烈己が苦しい思いをするなら分籍したって良い」
「そんなのだめ! 大切な大澄さんの家族なんだから!」
烈己は突然顔を上げ、悲壮に揺れる瞳で大澄を見た。
「……烈己、いくら血の繋がった家族でも別々の意思を持つ人間だ。分かり合えない時はあるよ」
「わかり、あえない……時? なんで……?」
「烈己、泣かないで。これはあくまで最悪の場合の例え話だから、だからそんな悲しまないで、お願い」
「だって……、大澄さん、本気の目をしたから……、本当のこと、話してる時の顔してた……から、俺……」
大澄は泣きじゃくる烈己を包み込むようにして抱き寄せ、その震える頭へと優しく口付ける。
「烈己は本当に不思議な力を持つ子だな……」
「……大澄さん……、辛いことがあったら俺に話してね? いつでもいい……大澄さんが話したくなったらいつでもいいから俺に全部苦しいの吐き出して……」
「うん、わかった。ありがとう、烈己」
「ほんとだよ? 我慢したら許さないからね」
「許さないとどうなるの?」
大澄はまたいつもの意地悪い笑みを浮かべ、弧を描いた瞳で烈己を見た。それに気付いた烈己がむっと赤い頬を膨らませる。
「目の前で大号泣してやる!」
「……うわぁ、全然笑えないガチの殺傷力のやつきた……」
すでに多少の傷を負ったらしく、大澄の首がガクリと枕へ落ちた。
「ふふ、大澄さんてば可愛い」
「年上男性を弄ぶのはやめてくださるっ?」
「なにそれ変な喋り方っ」
烈己の頬は未だ赤く、涙で濡れたままだったが、その笑顔は心から咲いた眩しく明るいものだった。
「烈己がいれば、大抵のことはなんとでもなる気がするよ」
「やったぁ、褒められた」
烈己は微笑みなから大澄の胸に顔を寄せ、その手を握り締めた。
「ほら、また」
「俺もおんなじ。大澄さんがいれば大抵のことはなんでもなる気がする、荊だって跳ね除けるよ」
「そっか……ならもう無敵だな」
「うん、無敵」
「──じゃあ、この話は終わりってことで、次の課題に進もう」
「……あ! 俺すごい眠くなってきたかも……」
「ほぉ……」
大澄は胡散臭い細い目をして、腕の中で狸寝入りを始めようとする烈己を眺めた。
「やっ、ちょっと……どこに手入れてんのっ」
「寝てていいよ、どうぞどうぞ」
「もっ、寝てられるわけないだろっ、馬鹿っ……尻を揉むなぁっ」
烈己は狼からの甘い口付けに唇を塞がれ、あっという間に煙に巻かれた。
結局最後までするのは許してもらえず、大澄は僧侶のように悟りを開いて煩悩をミジンコレベルまですり潰した。
「……ごめん、ね?」と申し訳なさげな顔をして肩へ頭を寄せてくる恋人に荒い鼻息だけで返事を寄越して、大澄は視線を極力天井へ向けたままだった。
「あ、そうだ。大澄さん、朝何してたの? 起きたらいないんだもん、俺めっちゃ寂しかったよ?」
「可愛い、合格!」
「ねぇ、そういうのいらないから……。何してたの?」
大澄はちらりとこちらを見ただけで、再び天井を見上げている。聞いて欲しくなかったのかなと、烈己は黙ったまま大澄の手のひらを揉んだりさすったりして一人で遊んでいる。
「……絵描いてた」
ぽそりと大澄が答える。
「えっ、絵? そうなんだ、今でも絵は続けてるの?」
「いや、もうずっと何年も描いてなかった……。けど、なんか無性に今朝描きたくなって……」
「へぇ、そっかぁ。……またいつか見せてね?」
烈己の意外な返事に大澄は少し驚いた目をした。
「……今じゃなくて良いの?」
「え? あ、うん。大澄さんが見せてもいいなって思ったら、その時見せて?」
「──じゃあ今。見せてあげる、おいで」
大澄は起き上がると烈己へ手を伸ばした。
烈己は大澄に誘われるまま素直に手を取り、今朝大澄が出てきた扉へと共に向かう。
大澄の秘密の扉を開くような初めての感覚に、烈己の心臓は勝手にドキドキと大きな音を立てはじめた。
ドアが開いた途端、烈己は目をまん丸にした。
入って正面の壁には、額に入ったカラー写真が所狭しと並んでいた。
見たことのあるその世界観は、間違いなく彼の兄の作品だ。明るくて、眩しくて、楽しくて、賑やかな人物が写っているわけでもないのに、彼の覗く世界は歌うみたいに伸びやかでのどかで、優しい。見る人を勝手に笑顔にしてしまうとても不思議な魅力を秘めているのだ。
「あ、これ」
烈己が目を止めたのは写真展で見たあの河原で絵を描く男性が写ったもので、それは展示されていたものとは少し場面が違い、絵を描いていた男性がシャッターを切ったカメラマンに気付いたのか、こちらを見て笑っていた。
「やっぱり、この人大澄さんだったんだ」
今よりずっと若い姿の大澄が兄へ声をかけているのだろうか、口を開けて笑っている。
「そう、盗撮。あいつ黙って勝手に撮ってた」
「兄弟仲良かった?」
「うーん、どうかな。この頃は良かったけど……もう最後は口さえ開けば喧嘩してたな」
「……そっか」
その言葉に烈己は、血の繋がった家族でも分かり合えない時はあると言ったあの大澄の言葉が重く蘇った。烈己は隣に立つ大澄の手を握り、腕に頬を寄せる。
烈己の頭を撫でてキスを落とし、大澄は自分が描いていた絵へと烈己を呼んだ。
壁二面に設置された天井まである棚の中で、キャンバスたちが図書館の本のようにぎっしりと並べられており、その手前にイーゼルが一台立っていた。
そこへ掛けられた真新しいキャンバスには、ベッドでうつ伏せで眠っている、ある人物が描かれていた。
烈己はそれを見て一気に顔を赤らめた。
「これ俺じゃん! てゆうか何で裸なのっ」
「だって本当に裸だったから」
「ねぇ、これ想像? 布団捲って見たの?!」
「俺が起きた時は布団なかったから……って待って! 落ち着けっ、本当だってば、冤罪反対!」
両手を振り上げて暴動に走る烈己の手首を掴み、大澄は必死に説得を試みた。
「本当だとしても俺を描くなら了解くらい取りなさい! 裸とかマジでありえないっ」
「──ほぉ?」大澄の眉がくいっと、意味深に上がった。
「……な、なに?」
「俺が寝てるのを良いことに、寝顔を携帯で撮るのは了解を取らなくてもいいのかなぁ?」
烈己は振り上げていた両手から一瞬で力を無くし、落ちそうなほど目をまん丸に見開いていた。
「な……んで、知っ……、寝て……ると思った……のに」
烈己の全身からは一気に冷や汗が噴き出した。赤く染まっていた顔が今度は白くなり始める。
「最初は本当に寝てたけど、あなたやたらと独り言が多いから途中で目が覚めた」
烈己は己の致命的ミスに絶望した。
「言ってくれたら写真の二枚や三枚、フツーに撮るのに」
「……いや、あの、その……そうなんだけど……あの、大澄さんが寝てる姿がすごく可愛くて……あの……」
白くなり始めていた頬が俯き、再び耳たぶから赤く染まりだす。
「可愛いのはどっちなの、犯すよ」
「おかっ!」
ヒッと、慄いた表情の烈己がガバリと顔を上げた。
「嘘嘘、一応今のは嘘」
「一応? 一応とは?!」
「そこはサラッと流しなさい。じゃあ、今回はお互い様ってことで」
「こっちのがサイズ大きいし、露出がすごいんだけどぉ?!」
「まあ、この部屋の中に閉じ込めてある限りは安心してよ」
「その言葉のチョイスが全くもって安心できない〜」
「見せるわけないデショ、俺だけの烈己を」
悲壮な顔をして眉を下げたままの烈己の体を後ろから抱き、その肩へ顎を乗せて大澄は共にその絵を眺めた。
「……でも、素直に嬉しいよ」烈己は抱かれた手に自身の手を添え、大澄へと頬を寄せた。
「ん?」
「大澄さんが無性に描きたくなったのが俺だなんて、最高」
「そう?」
「うん、嬉しい。ゲイジツカの伴侶には理解が必要だということも一緒に理解したけど」
「ははっ、そりゃ良かった」
「良くないっ。次から黙ってヌードはやめて、恥ずかしさで心臓がもたない」
「んー? 善処します」
「ならばモデル料を請求します!」
「今晩"美味しい夕飯を作る"でどうでしょう?」
「それは──最高!」
「安いモデルだ」
「ぐふふ、でしょお〜」
烈己は体の向きを変えて正面から大澄の胸へと抱きついた。
「好きだよ、烈己」
「うん、俺も──大好き」
大澄は烈己の体を強く抱きしめながら、十代がするみたいな青くて、純粋で、いくら蓋をしても溢れ出てどうしようもない愛情に自分自身手に負えないでいた。
──兄貴が生きていれば俺を見て、きっと笑ったはずだ。
やっぱり血は争えない、やっぱりお前は俺の弟だと、昔みたいにきっとわかりあえたんだろう──。
「……大澄さん? 泣いてるの?」
「…………もう少し、こうしてて」
「うん、いいよ。大澄さんが離してって言うまでくっついてる」
「そんなの永遠に言わない」
「あちゃー」
大澄は小さく笑って愛しい恋人の髪をすき、優しく口付けた。
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