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neuf

 数日後、烈己の部屋に訪れた江は珍しく恋人の秀も一緒に連れて来た。 「珍しく秀も連れて来たかと思えば、コレ?」  タッパーに入った大量の赤飯を渡され、烈己は白目を剥いた。 「全然あれから連絡くれないんだもん、ポリネシアンセックスでもしてんのかと思った」 「ポッ? ポリ、なに???」 「江の言葉をまともに聞こうとするな、頭が壊れるぞ」  首が折れるほど傾げた烈己の肩をポンポンと叩いて、秀は買い物袋を持ち上げ「台所借りるぞ」と中へ進んだ。 「秀、お茶」  江は勝手知ったる親友の部屋で早速くつろぎ始め、ゲーム機の電源を入れた。 「もー、俺が淹れるから待ってろ。江って本当王様すぎやしませんか、いや、女王様?」 「いや、暴君のが近い」と台所から秀が口を出した。  台所にいる秀の隣に並んで、烈己はニコニコしながらその手元を覗く。 「鶏の手羽元と卵? あ、さっぱり煮だ?」 「正解。お前コレ好きだろ?」 「好きー。あ、俺サラダ作ろうか?」 「だめ! 烈己は俺とゲームすんのっ」と、リビングから邪魔が入る。 「……やっぱあれは暴君だわ」 「だろ?」  秀は鼻で笑って烈己に料理は自分に任せるよう告げた。  リビングへ戻ってきた烈己は、暴君の前へ日本茶を出した。 「良きに計らえ」 「マジいつか刺されるからな、江」 「烈己になら本望よ!」 「ばか」  烈己に頭をパシリとはたかれ江がわざとオーバーにソファへ倒れた。長い睫毛の下から覗く綺麗な瞳が意味深にこちらを見ている。 「なんだよ」 「なんだよじゃないわよ。幸せオーラ満開にして」 「……お父さんキャラもうやめたの?」  烈己は照れながらゲームのリモコンを手にして膝を曲げ、そこへ両肘を乗せて三角に座った。 「お父さんはねぇ、大人になった烈己を今見てるの」 「俺なんも話す気ないから」 「ちょっと! 俺たちが何しに今日来たと思ってんの?!」  江はソファから頭を起こすと急に態度を変え、憤慨しながら烈己を見た。 「秀は優しいから本当にご飯を作りに来てくれた。江はただ意地悪しに来ただけ!」 「意地悪じゃないよ! 質疑応答しにきただけ!」 「却下!」 「人に助けを求めておいてそれはないでしょ!」  江は四足歩行の動物のように四肢をバタバタと這わせて勢いよく前進し、烈己の目前ギリギリまで顔を寄せた。あまりの圧に思わず烈己の頭は後ずさる。 「あの時はありがとう、本当に感謝してます。だけどそれ以外はプライベートですんで」 「なによーっ、勿体ぶっちゃってぇ!」 「うるさいなぁっ、……あっ、写真はなんとか撮ったよ」 「ほお……その(ほう)何気に抜かりないのお」 「──さっきからその喋り方なんなの?」  烈己は訝しげに眉を寄せ、目を細めながらテーブルの上に置いてあった携帯を手に取り、画面を江へ向けた。  江は烈己の手からそれを奪い取り画面に食いつく。 「ちょっと、江っ」 「ふぅん、やらしい」 「なにがあ」 「何がじゃないよ、裸で寝てる男の顔撮るとか。こっちが恥ずかしいんですけど」 「じゃあ見なくていい、返してよ」 「いやだ! 俺の携帯へ共有する」 「ダメ、やめろ!」  烈己は必死に江から携帯を取り戻そうと手を伸ばすが、器用で長い江の手がそれをひょいひょいと軽くかわして回る。 「ねぇ、この人何歳? 何の仕事は何してる人? お金持ち? どこ住み? 家は近いの?」 「尋問コワ……。今度直接紹介するから待ってて」 「えっ、なに! いきなり積極的、どした」  江が驚いた隙にその手からようやく携帯を奪取することに烈己は成功した。そして、小さな咳払いをひとつして、頬を少しピンクにしながら江を見つめた。 「俺。大澄さんと結婚する」 「マジでっ?!」  江の大絶叫に思わず秀もリビングへ顔を覗かせた。 「うん。結婚しよって、番になろって……言ってくれた」 「嘘だろ、付き合ってまだ何日? えっ、あの電話の時初めてえっちしたばかりだよね?!」 「そう、だよ? だけど、言ってくれたから、俺もOKした……。この人と一生一緒にいたいって思ったから」 「早まりすぎだよっ、烈己! 初めての彼氏に頭の中お花畑になってるだけだよ、少しは冷静になりなっ」  向かい合って座り直した江は、烈己の両肩を掴んで前後に激しく揺らした。いつも穏やかで優しい瞳はすっかり色を変え、まるで何かに怒りを覚えようにして烈己を見据えている。 「なんで? 江俺に早く幸せになって欲しいって。俺の結婚には前向きだったじゃん」  烈己は親友の思わぬ反応にショックだったのか、眉を下げ、黒い瞳を揺らしながら悲嘆な声を上げた。 「そう……だけど、この間話していきなりの今日だったから……びっくりして……」 「俺もう決めたんだ。それにこの気持ちは絶対に変わらないって確信持てる」 「烈己、俺話したよね? 俺たちΩは一回噛まれたらそれで人生決まるって、αは皆狼なんだって、ちゃんと疑えって……その時間は? ちゃんとあったの?」 「俺は大澄さんを信じるってもう決めたの」 「何を信じんの? まだ会って何日かの人でしょ?」 「たくさん一緒にいれば相手がわかるの? 江は秀とクラスも違ったじゃん。告白されてから付き合うまで何日も掛けた?」 「生涯の番を決めるのと、学生が彼氏を決めるのは違うだろ」 「違わない。少なくとも秀は江を一生の相手だって思ってる。江だって本当は思ってるだろ? なのに俺には待てって言うの? 大澄さんが信じて良いαだって、いつ誰が決めてくれるの? 江なの? 違うでしょ? 誰を信じて、誰を番にするかは俺が決める」 「ねぇ、烈己……少しは冷静になって、お願いだから」  江はかつて親友に一度も見せたこともない青白い顔で、何かに怯えるように瞳を震わせ親友を見つめた。 「どうして江は俺の気持ちを否定するの? なんで?」 「否定してるわけじゃない……ただ前も言ったように俺は烈己に幸せになって欲しいだけ」 「大澄さんと番になるのはそれとは違うの? どうしてそれを江が決めるの?!」 「そうじゃなくて……」  自分を責めるように強い目をした親友の顔を直視できなくなった江は、それから逃れるように肩から手を退け、絨毯へと視線を落とした。   「烈己、落ち着け」  秀は烈己の横へと腰を下ろし、すっかり興奮して釣り上がってしまっている細い肩を撫でた。 「こいつはお前には特別過保護なんだ。それは今に始まったことじゃないだろ」  江はすっかり黙り込み、俯いてピクリとも動かなくなった。 「わかってる……。江が俺に──Ωになってほしくないと思ってることくらい」  烈己が放ったあまりにも冷たい言葉に、江は弾けるようにして青白い顔を上げた。 「烈っ……」 「いい、否定しなくて。俺だってお母さんの二の舞はごめんだと思ってるよ。実の息子である俺が一番思ってるよ」 「烈己……」  隣に座る秀からも渋く、苦い声が漏れた。 「大澄さんはちゃんと避妊してくれたよ、無責任な俺の父親とは違う。まあ、お母さんもひょっとしたら一緒になろうって言葉に騙されて俺を産んだのかもしれないけど……少なくとも俺は違う。番になるまで子供を産むつもりはない、そこまでの馬鹿じゃない」 「烈己もうやめてよっ」 「やめない! 俺は俺を否定される限り言うのをやめない! 江が俺の大切な親友だからこそ俺の本気をちゃんと知ってほしい!」 「烈己……」  昔から外で強がっている分、反動でたくさん傷付いて、たくさん泣いて──そんな親友が未だかつてない強い顔をして、自分を真っ直ぐ、射るように見つめている。  少し見ない間に変わってしまった、変えられてしまった。自分の知らないαの手で──こんなにもあっさりと……。  江はゆっくりと、心の整理をつけるための長い息を吐いた。 「……捨てられて泣いても知らないからね、慰めてなんてやらないから」  江は静かに、強く、自身の決意を最後まで皮肉めいた言葉に変えて親友へと告げた。  膝の上で丸められた白い手を‪烈己がそっと優しく包み、ようやく笑顔を見せた。 「──江にはそんなことできない。江は俺の唯一無二の親友で、家族みたいなもんだもん。俺が江に酷いことできないのと一緒。そんなのもう、とっくに知ってるよ?」 「なんなの、それ……腹立つ」  下唇を噛み締めた江の瞳から、最後まで我慢していた一粒の涙が、白い肌を伝って零れ落ちた。 「泣かないで、俺が秀に殺されちゃう」    烈己は穏やかに微笑みながら江の涙を拭い、優しく頬をさする。  いつも完璧な笑顔と怜悧な美貌で周りのすべてを蹴散らしてきた強靭な女王様みたいなΩ。  その実、愛する人には誰よりも情に熱くて、慈母のような溢れんばかりの深い愛を持つ──。 ──もうずっと前から烈己にとって、特別で、大切な親友(家族)。 「烈己……」 「ん?」 「おめでとう……」 「うん、ありがとう」  烈己は顔を綻ばせながら親友の体に抱きつき、過去の悲しみたちにざまあみろと舌を出して、今あるすべての幸せたちに抗うことなく、ゆったりと溺れた。  ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ 「可愛い、寝ちゃった。江」  結婚祝いなんて名目をつけて、親友はやけ酒に近いそれですっかりと泥酔し、今はソファで赤く染まった細い首筋をうなだらせて眠ってしまった。  烈己はその体へそっとタオルケットをかけてやり、赤い目尻にかかった前髪を優しくすいた。長い睫毛が時折ピクピクと動くのを微笑んで眺める。 「嵐みたいな奴だろ」  困ったような顔をして、隣に座る秀がポツリと告げた。 「俺ほどじゃないよ」 「確かに」 「コラ、この場合"そんなことないぞ"が模範解答だぞ」 「本当に?」  普段あまりユーモアな姿を見せることのない秀が、酒のせいなのか、珍しく口の端を上げて怪しい笑みを浮かべながら、じっと烈己の目の奥までを覗く。 「……もう、そんなことあるよ! 嘘ついた、ごめんなさい!」 「うちに来る時は大抵、お前は泣き喚いてる」 「わかった! わかったからもう黙れ」  烈己は無理矢理秀の口へ湯呑みを押し付け、強引に茶を勧める。 「結婚しても、うちへ来いよ?」 「え……」  烈己は驚きのあまり、啜りかけた茶を思わず溢しそうになる。 「ん?」 「いや、だって……俺、いつも秀たち二人の邪魔してたのに……」 「何言ってんだ、お前は。お前が来なけりゃこっちから行くだけの話だぞ」 「えっ」 「いちいち驚くなよ。俺がいつお前を怪訝に扱ったよ」 「扱ってないっ、そんなこと一切されてないよっ。だけど、秀は江との時間をもっと大切にしたいんだと思ってたから」 「思ってるよ、でもその時間にお前がいても構わないだろ。逆にそれじゃダメだったのか?」 「ううん……いい、全然良い。嬉しい、ありがとう秀。何でそんな男前なの、ヤバイ」  烈己の瞳はあっという間に潤んでいた。 「なんだよ、ヤバイって」  秀は声を弾けるようにして大きく笑った。 「だってぇ、そりゃ江も好きになるよ〜、秀ってホントに同い年? 落ち着いてるし、めっちゃしっかりしてるし、頼り甲斐あるし」 「なんだ、急に。誉め殺しか? 次はA5ランク国産牛肉でも持ってこいってか?」 「いいねぇ、牛肉! ステーキ? 焼肉?」 「お前が好きな方で良いよ」 「えー、どっちも大好き〜っ、決めらんない〜」 「らめぇ! 秀は俺のなのぉ!」  烈己が冗談ぶって猫撫で声を出すと、突然、二人の間にタオルケットのオバケが現れ、思わず烈己は反射的に声を上げる。 「ぎゃっ! びっくりした!」  ウイルスに感染したゾンビのように、いきなり起き上がってきた江相手に喫驚し、二人とも危うく湯呑みを投げるところだった。  秀は茶を溢さないようテーブルに湯呑みをゆっくり置くと、正面から抱きついてきた恋人を慣れた手つきで介抱する。  恐る恐る烈己がゾンビなる江の顔を伺うと、相変わらず長い睫毛は伏せられたままで、唇からは微かな寝息が漏れていた。 「寝て……る?」と、烈己が首を傾げると、秀は声には出さず頷いて返事を寄越した。 「秀は俺のだって、江ってほんとツンデレだよね」 「面倒くさい奴だろ?」 「またまたぁ、大好きなくせに」 「好きと面倒はまた別だろ」 「ハイハイ、ソーデスカ」  烈己は幸せそうに江の寝顔を眺め、大好きな二人の深い愛情を前に自然と顔が綻んだ。 「俺の憧れは二人だよ。何年も一緒にいて、ずっとお互いを思い合える二人が俺の理想」 「……俺はお前たちのが羨ましいけどな」 「え?」  烈己の視線が弾けるように秀へとスイッチする。 「お前はこの人だって決めて、番になることを選んだ。同じαとして俺はお前の番相手が羨ましい」 「秀……」 「結婚とか、恋人とは別の繋がり方に憧れてないなんて言ったら嘘になる。価値観の違いなんて言ったらそれまでだけど、それに俺がいつまで耐えられるのか……」 「秀、やめてっ……そんなこと江の前で言うな」 「本人にも何回も話したよ、俺たち何年付き合ってると思ってんだ」 「……そうだよね……、ごめん、俺なんかが口挟むことじゃなかった……」  烈己はすっかり肩を落とし、視線を足元の絨毯へと向けた。 「お前が結婚して、それに感化されたら嬉しいけど、多分無理だろうな。コイツ頑固が服着て歩いてるような奴だから」  秀は子供でもあやすみたいに、腕の中で眠る江の背中をポンポンと叩いて小さな頭を抱える。  烈己は視線を上げて、その優しげな表情で柔らかに恋人を抱きしめる秀を見つめた。  なぜだか、それを見ているだけで烈己は鼻の奥がジンとして、涙が出そうになった。  どうにか涙を堪えて烈己は鼻を啜り、眉を開いて真っ直ぐ秀を見据えた。 「待ってて、秀! 江が結婚したいって自分から言いたくなるくらい、俺がうんと幸せになってみせるから!」 「ははっ、期待しとくよ」 「その時のお礼はウニだからね!」 「OK、痛風になるまで食わせてやる」  秀は目を細めて笑いながら、指で大きくピースサインを作って明るく笑う烈己の頭をくしゃくしゃとかき混ぜた。  ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎  翌日、烈己が仕事終わりにスマホをいじっていると、画面に大澄の名が突然表示された。ソファの上でだらしなく寝転がっていた烈己は慌てて起き上がり、なぜか姿勢を正す。 「もしもし?」 「………………」  シン、と携帯からは謎の空白が流れる。 「ちょっと、無言電話が趣味なの?」 「いや──今俺、見えちゃったんだよ」 「えっ?」  大澄の真面目な声色に烈己は思わず息を呑む。 「──烈己が裸で」 「婚約破棄します!」大澄の言葉に被せるようにして烈己が叫んだ。 「嘘嘘嘘嘘嘘ですっ! 許して烈己ちゃん!」 「謝るくらいなら最初から意味不明なこと言わなきゃいいじゃん」 「烈己の緊張をほぐしてあげようと思ったんだろ〜、大澄さんの優しさわかってよー」 ──烈己は思わずギクリとして肩が上がった。何故か部屋の中をキョロキョロと見回してしまう。 「キ、キンチョー? 新種の鳥の名前かなんかですか?」 「烈己ちゃんは本当に下手くそだね……。本題に移りますが、今夜会える?」 「へっ、あっ、今夜? え、と……その……えっと」 「ご飯食べて、少し未来のお話もしよう。お泊まりはまた今度、週末のお楽しみね」  烈己は一人で勝手に先走ってしまっていた自分が恥ずかしくなり、全身の血液が沸騰したみたいに体温が急上昇するのを感じた。  火照る頬をさすりながら烈己は今夜の約束に応じる。  別れ際、烈己がゆっくり電話を切ろうとした瞬間、大澄が駆け込んだ。 「あっ、食べたいものあったら言って? 次こそ探しとく」 「大澄さんが食べたいものでいいよ? 俺のためにこの間もご飯たくさん作ってくれたし。何食べたい?」 「えー、じゃあ烈──」  烈己は大澄の言葉を最後まで聞かずにさっさと電話を切り、ソファにスマホを投げつけた。 「はぁー、ただのエロオヤジと付き合ってる気分になってきた」  口ではそんな悪態をついておきながら、烈己は自然と鼻歌を口ずさんでいる自分に全く気がつくことがないまま、いそいそと今日着る服を選びはじめた。  烈己が駅の改札をくぐると、構内の柱の前に大澄が立っているのがすぐ見えた。  少し猫背気味で姿勢は悪いけれど、スタイルも良く背の高い大澄は明らかに目立っていた。  それは彼のαである潜在的なもののせいなのかもしれないし、烈己がΩだから特別そう見えるのかもしれない。  ふっと烈己の頭の中に同じαである秀の顔がよぎる。 「……αってみんな秀みたいにイカツイの想像してたけど、大澄さんは筋肉隆々とかじゃなかったなぁ……」  口にしたせいで烈己はベッドの中の大澄の姿を思い出してしまい、途端に全身からおかしな汗が吹き出した。恐ろしいほど顔の温度が上がってゆき、鏡なんかで確認しなくても今自分の顔がどうなっているのかは容易に想像出来た。 「エロオヤジは俺なのかっ、俺の馬鹿っ、落ち着けっ」  外から叩いたところでどうにもならないのに、烈己は瞼を強く瞑って火照った頬を何度も両手のひらで戒めた。 「何してんの!」  いきなり両手を掴まれ、烈己は声にびっくりして目を開けた。そこにはそんな烈己を見て目を丸くしている大澄がいた。 「大澄さん……」 「ふっと見たら自分のこといじめてる烈己がいるんだもん、びっくりしたよ。何してんの、除霊?」 「あ、ある意味、そう」 「ええっ?!」 「あ、の、えっと、お待たせしました」 「うん? 除霊はもういいの?」  「はい、無事完了しました」 「嗚呼、そうですか……。ええと、今日は急に呼び出してごめんね」  大澄は烈己の赤い頬を心配そうに指で撫でながら瞳を見つめた。 「ううん、嬉しい。大澄さんにまたすぐ会えて」 「可愛い」 「んんん?」  会話がちゃんと成立していなかった気がして、烈己は小さく首を傾げた。  そんなことはお構いなしに、大澄はここが往来であることを忘れたのか突然烈己の体を抱きしめて、愛しいΩの匂いでも確かめるみたいに首筋の近くでゆっくりと深呼吸した。 「おっ、大澄さんっ、ちょっと、ここ駅前っ、大澄さんっ」  すれ違う人たちと時折目が合いながらその大きな背中を必死に引き剥がそうと暴れるが、全くもってびくともしない。 「背景のことなんて気にするな」 「気にするよ〜っ、だってその背景とさっきから目が合うんだもん〜っ」 「じゃあ俺だけ見ててよ」 「それも見えない〜肩しか見えない〜」 「文句の多い子だなぁ〜」  しぶしぶ大澄は顔を上げ、烈己と視線を合わせた。嫌な予感がした烈己はすでに眉間に皺が寄っている。 「ダメダメダメダメッ」  烈己の抵抗する手が必死に大澄の胸を押しているが、大澄は構うことなく烈己を抱きしめる手を強めた。  もう片方の手で頭の後ろを押さえられ、烈己は慌てて大きく口を開くが、言葉を発することは叶わなかった。  唇を塞がれても尚、烈己は何かを喚いてる。  それすら可愛いと思う重症のαは漏れ出る笑みを隠せないまましばらく愛しいΩの唇を味わった。  そのあとすぐ、天井に木霊さんばかりの破裂音と汚い悲鳴がしたのはいうまでもなかった。  大澄は赤く腫れ上がった頬を氷で冷やしながら虚な目をしていた。 「失念しておりました。貴方様が手癖の大変優秀なお方だということを……」 「今回は大澄さんの自業自得だからね!」  烈己は自分の手癖の悪さに辟易しながらも、周囲を気にしなさすぎる大澄のことを簡単に許すことも出来ず、頬を膨らませてそっぽを向いた。  結局目立ちに目立ってしまった二人は隠れるようにタクシーへ飛び乗り、行き先に迷って、結局烈己の部屋へと逃げ込んだ。 「てか、なんで俺の家なの? 大澄さんの家のが明らかに広くて綺麗なのに」 「烈己がどんな部屋に住んでるのか興味あったし、お母さんにもご挨拶をと思ってさ」 「その顔で挨拶するつもりだったの? メンタル強すぎませんか」  今の烈己からはすっかり大澄へのときめきオーラが消失していた。その姿を悲しげに思った大澄が、大袈裟に嘘泣きをしながら見つめてくる。 「一緒にご飯屋さんに行くの楽しみにしてたのに……、なんかオーダーする? 今日冷蔵庫なんも入ってない。行き先が俺の家ってわかってたら材料買って、料理頑張ったのになぁ……」 「マジかー、それは残念なことした。今度作って? そいでオムライスにケチャップで好き♡って書いて?」 「お金取るけどいい?」 「なんでだよっ!」 「なんかビジネスの匂いがしたから……」 「あなたの中のオムライス概念どこか歪んでない? もっとハートフルなのを想像してたよ、俺は」  絶望しながら告げた大澄からはすでに涙が枯れていた。  大澄は黙って手を伸ばし、その先の烈己をまっすぐ見つめた。  烈己は眺めていたスマホをテーブルへ置いて、その腕の中へとすべりこむ。肩口に頭を預けて、痛む頬を抑えている彼の腕をスッと手でなぞった。それをなにかの合図みたいに、大澄が烈己の頭へキスを落とす。  自然と視線が重なって、ようやく烈己はいつもの瞳で恋人を見た。大澄はやっと今、許されたのだ。  少し温度の高い下唇を軽く啄むと、照れた瞳を隠すように睫毛のカーテンが降りた。  深い口付けをするにはまだ少し気が早いと、大澄は恋人好みの軽くて甘いキスだけをしばらく繰り返した。  恋人の体から感じるオーラが次第に緩やかになり、大澄はどうにか烈己の色を直すのに成功したようだ。  そのまま収まりの良い腰へと腕を回しても 大きなクレームが発生することもなく、腕の中で烈己はリラックスした様子で大澄の胸に自ら抱きついていた。閉じかけた瞼が隙間を作り、そこから覗く潤んだ瞳がさっきのことを思い出しているようだった。   「殴ってごめんなさい……。でも外でキス……とか、俺、やだ……あんな人のいるところ……無理……」  瞳を揺らした烈己が、少し顔も赤らめながらポソポソと素直に心の内を吐露する。 「──うん、ごめん。俺も人生であんな衝動初めて。烈己が可愛すぎてなんか狂っちゃうんだよ、人間として大事なものが全部欠けるっていうか……」 「お、俺のせいなの?」 「せいというと語弊があるが、まぁ、主な要因ではある」 「酷くない?」  烈己は瞼を完全に開き、悲壮な色の目をして大澄を見つめた。  シリアスな空気を崩すべく、大澄は烈己のおでこに何度も口付けながら「それくらい烈己が大好きなんだよ」とこどものような言い訳を繰り返す。  むすっと膨れたピンクの頬にもキスをしながら大澄はずっと口元を緩めっぱなしだ。  そんな恋人の姿に根負けした烈己は自ら大澄の胸に頭をぐいぐいと強く押しつけた。  そんな愛しい姿に目を細めた瞬間「ぐーきゅるるー」と、烈己の飼っている腹の虫が悲鳴をあげた。  がばりと勢いよく上がった顔は今まで以上に赤く染まり、恥ずかしさで下がった口元からは、声にならない微かな高音が漏れ聞こえていた。 「聞いちゃダメっ!」  とっくに手遅れなのに、人間テンパると意味不明な行動に出るもので、烈己は今更大澄の両耳を手の平で覆った。  今にも泣き出しそうに揺れてる瞳が可愛くて、大澄は無意識に緩もうとする自身の口角に力を入れ、必死に制御する。悔しいかな「ふ、ふふ……」とそこから微かな音が漏れてしまう。 「笑うのも禁止!」  今度は口元を覆われて、自分を睨むようにして見つめる大きな瞳がさっきよりもそばに寄る。    困ったように下がった眉も、そのせいでできた眉間の皺も、赤く染まった頬も耳たぶも、なんだかすべてが愛おしい。  このΩを目の前にすると、大澄の腹の内に潜む飼い慣らしたはずの狼が、大人や人間の秩序も忘れて簡単に牙を剥く。それと同じくらい、或いはそれをも覆い隠すほど、大澄の中に眠っていた深い愛情が溢れ出す。 「早く烈己と家族になりたいな……」  誰かさんに感化されたような、そんな柄にもない言葉すら理性を介す暇なく先に口から漏れてしまう。  魔法の言葉に目の前のΩは幸せそうに瞳を震わせる。  この体を今すぐ食べてしまいたい。だけど傷付けたくもない。髪をすいて頬を撫でると、彼は無防備に首筋を晒してみせる。αの腹に潜む恐ろしい色をした欲望の存在すら知らないで──。  頬を冷やすことなど最早どうでも良くなり、大澄は両方の手で烈己を抱き締める。そして、瞼を閉じておでこ同士を合わせると深くゆっくり、息を吐いた。 「一緒に住もう、烈己。そしたらわざわざ会うための約束も、別れる真際のさようならも言わなくて済む」  大澄が珍しく真面目な顔と声をして、まっすぐ烈己を見つめている。烈己の睫毛がパチパチと瞬いて、その間から覗く丸い瞳が大澄を見つめ返す。 「…………本当に?」 「いや?」 「や、じゃない……けど、いきなりだったから頭の整理が追いつかなくて……少し未来の話って言ってたのに……、もう、全然少しってレベルじゃない」 「俺もそう思う。大人らしい計画の一つもなくて、これじゃあ烈己も不安になるよな」  声のトーンが下がった大澄の不安を打ち消すように、烈己は大きくかぶりを振る。 「ううん、そんなことないよ! 俺はね、大澄さんが好きで、大澄さんと番になるって決めた日からなんの不安もないんだ。親友には色々手厳しくツッコまれたけど、それでもなんにも揺るがなかった。自分でもびっくりした」 「──つまりそれって?」 「えっと、全部オッケーってこと! 大澄さんが今言ってくれたこと全部俺も同じ気持ち……っていうか、どうしよう? 俺、大澄さんの家族になるんだねっ、一緒に住んだら毎朝おはようと同時にすぐに会えるんだねっ」 「なにそれ、寝ても覚めても隣にいるのに?」  素直に喜びを伝えてくれる烈己の姿に、大澄は膨らむ気持ちを抑えられなくなり、笑いながら烈己を力一杯抱きしめた。烈己は腕の中で「苦しいよ」と漏らしながらも、自ら大澄の背中へ回した腕を解くことはしなかった。胸を伝って烈己のこどものように明るくて弾んだ笑い声が、心地良い音色を奏でながら大澄の体へと流れ込む。 ──大澄にとっての幸福が、姿を持ち、こうして目の前に存在している。 ──兄も、誰かの腕の中でこうやって幸せだと笑っていたのだろうか。その相手も今の自分のようにこの腕の中にいる命を一生抱いていたいと心から願ったのだろうか。  それを間違いだと自分は本当に責められただろうか──。  そんな資格が果たして自分にあっただろうか──。  自分をずっと憎んでいた──  兄を救えなかった自分に、兄を不幸にした相手に、兄は──  ただ愛しい人と幸せになりたかっただけなのに……。 「なんでかな……、幸せと悲しみは似てるのかな……。烈己といると、嬉しいのに涙が出るんだ。勿体無いよな、笑顔になれないなんて……」 「ううん、そんなことないよ。どんな顔も俺の好きな大澄さんだから、どんな顔も見せて? 大澄さんだって俺が泣いたら慰めてくれる。やさしく撫でてくれる。俺も同じようにして大澄さんに返したいよ?」  大澄の胸に頬を寄せ、烈己は上目遣いでほんのり柔らかに微笑んだ。それは普段見ることのない、どこか母性を含んだ表情にも思えた。  初めて出会ってからまだわずかな時間しか共にしていないというのに、烈己は紫陽花みたいに会うたび違う表情を見せる。一緒に前へと進むたび、ほんのわずかなその時間その距離で、彼は彼の中に隠れてあった魅力をご褒美みたいに自分に見せ、与えてくれる。 「全部、俺のせいなら良いなのにな……」  大澄はボソリと呟いた。 「なにが?」 「全部」 「もー、日本語不自由かっ」  烈己は呆れながらも、幸せそうに微笑む大澄の瞳から溢れた涙を指ですくって再び穏やかに微笑んだ。

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